クロード・レヴィストロースの死去

 社会人類学者のクロード・レヴィストロースが、亡くなったというニュース。
10月30日?11月1日?。1908年11月の生まれ。100歳という高齢。
「20世紀の知性」といわれた、世界的にも影響力をもったフランスの巨人です。
 フランス民族博物館ケ・ブランリーの開館式典に、参加されているニュースに触れた際、90歳も後半のご高齢で、すごい元気なんだーと感動したものです。
 
 この10年ほど文化人類学講義で12月のクリスマス近くになると、レヴィストロースの若い頃に書かれた「火あぶりにされたサンタクロース」(『サンタクロースの秘密』翻訳:中沢新一)の文章を、紹介することが恒例です。
 90年代に来沖もされて、久高島に関する小文も残しています。
「社会人類学者のクロード・レビストロース氏が死去」のニューズは以下で
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091103STXKC047103112009.html

Photo 上記の記事をアップして、1週間ほどたったある日、本屋で渡辺公三(立命館大学教授)の『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書、2009年11月13日発行)を手にした。
 あまりにもタイムリーな時期に…と思い、追悼の気持ちで読み終えました。 

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金工セミナー

 9月末に京都で東アジアの金属文化研究に関するセミナーがあったので参加した。
沖縄関係の発表もあり、長年金工関係で教示いただいている久保先生の主催のセミナー(40名ほど)だったので、京都へ出向く。
金工セミナーであったが朝鮮、中国、日本、琉球の元宋代の美術品(陶磁器、絵画、漆器など)との関連での発表が中心で、興味深く学んだ。
 
内容は以下のファイル。

「09.pdf」をダウンロード

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真栄平房昭「琉球館の亡霊ー「戦争の記憶」をめぐってー」

Photo_4  2009年の今年は、琉球への薩摩侵略(1609)から400年と、琉球・沖縄が日本国内にみ込まれる<琉球処分>1879年から130年目の年にあたるので、沖縄ではシンポジウムが複数開催され、関連企画も新聞紙面や雑誌などで展開されている。
  その中の一つ雑誌『うるまネシア』第10号のコピー(部分)が、友人の真栄平房昭氏(神戸女学院大学教授)から届きました。
 3月に鹿児島に出向いたが、「薩摩侵略から400年」などということは、向こうでは話題にすらならず、その温度差をおもしろいと感じたものです。
  
 今年の初めごろに、1946年福岡で親泊政博らによって創刊された情報誌『沖縄新民報』をめくっていて、面白い記事を確認したので、歴史研究者の真栄平氏に提供した。
 その記事を資料に、氏ならではの切り口で書かれた論考「琉球館の亡霊ー「戦争の記憶」をめぐってー」を『うるまネシア』に寄稿されので、丁寧にも記事のコピーをいち早く送ってくださった。
Photo_3  その記事は、昭和22(1946)年10月5日付の紙面で「鹿児島の琉球館」に関する記事は、「琉球館秘話 首なし白骨 地下から廿七体発掘。謎の人物、比嘉筑登之」の見出しで近代そして戦後の鹿児島の琉球館跡地にまつわる出来事を告げるものだった。
 真栄平氏は。戦後間もないこの時期の記事を「戦争の記憶」をキーワードに、薩摩侵入以後の歴史的資料を使い、その後の人々の心性を分析している。
 興味深い論考になっている。
 紹介まで…。

 この記事を確認したのが2009年ということも、単なる偶然だけれど…感慨深い。

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『民具研究』139号記事<「沖縄の紙を考える会」活動について>

Photo_3 2008年12月8日(土)9日(日)にお茶の水大学で開催された日本民具学会で、テーマ「沖縄の紙文化のあり様」で発表した際、事務局をつとめる「沖縄の紙を考える会」の活動を少し紹介した。
 発表後会誌編集事務局から、会の活動について報告してほしいとの旨依頼を受けたので、小文を寄せた。
 日本民具学会誌『民具研究』第139号(2009年3月発行)の<ひろば>コーナーに、<「沖縄の紙を考える会」の活動について>3P。
 今回は紙面の都合で、2003年~2007年度の展示会開催の情報のみ報告しました。
 

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鹿児島市中央公民館ー鹿児島民具学会会場

Photo_2  3月7日(土)午後に鹿児島民具学会で発表してきました。
 会場の鹿児島市中央公民館は国登録の文化財。
1927(昭和2)年に建築され、当時は九州一の公会堂として有名でした。
 現在でも概観は当時のまま…。
こうした近代建築遺産は、現在でも使用されていることに感激…。
 建物の中は、それなりの古さで…でも、やはり感激でした。
 鹿児島にはステキな近代建築が現役で多く残っています。鹿児島県民にとってはやはり<近代>が重要な歴史的ポイントだからでしょうか?。
 中央公民館は、美術館(近代~現代作品中心)や図書館、黎明館、公園、西郷隆盛銅像のある、かごしま文化ゾーンに在ります。

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鹿児島民具学会ー鹿児島の錫文化

 1月に沖縄民俗学会で発表した、「南九州と沖縄の錫文化」を、鹿児島民具学会で発表します。
 鹿児島での調査をかねた参加です。
 80年代後半に学生時代に過ごした鹿児島。卒業後何度か訪れていますが…。ようやく鹿児島と沖縄をつなぐ独自のテーマが見つかっての、研究発表ができることを楽しみにしています。精力的な民俗学者の恩師・下野先生に、未熟な内容でのお叱りをおおいに期待しながら…。地元研究者のご意見も伺えるかと…楽しみです。
鹿児島民具学会の3月例会は、HPでも確認できます。

*粟国恭子「鹿児島と沖縄の錫文化」
*日時:2009年3月7日(土)午後1時30分~4時30分
*場所:鹿児島市中央公民館

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那覇市壺屋焼物博物館講座

2008年12月13日(土)~2009年3月15日(日)の期間、那覇市立壺屋焼物博物館で、開館10周年記念特別展「壺屋焼近代百年のあゆみ」が開催されています。
 関連行事として期間中講演会が4回企画され、担当になっています。
 *12月21日(日)午後2時~
  宮城篤正氏(沖縄県立芸術大学学長)
  「戦後”壺屋”物語 壺屋陶工の動向とやちむん会の活動」
 *1月25日(日)午後2時~
  粟国恭子氏(大学非常勤講師)
  「近代の芸術研究~比嘉朝健をめぐる人々~」

2回目講座の担当だったので、25日(日)に話てきました。沖縄民俗学会発表と連日で、風邪で体調を崩しての講座でしたが…。
 話の内容は2008年3月に書いた論文の内容中心です。琉球の陶工研究では欠かせない比嘉朝健が紹介する「琉球陶工研究」を中心に、人となりがわかっていない比嘉朝健の紹介、比嘉をめぐる末吉安恭(麦門冬)、真境名安興、山里永吉らとの関わりを話ました。
 2月以降提供されている講座は、以下の通りです。 
 *2月22日(日)午後2時~
  小林純子氏(沖縄県立芸術大学洵教授)
  「見いだされた沖縄陶器~柳宗悦と中川伊作~」
 *3月7日(土)午後4時~
  横堀聡氏(益子陶芸美術館副館長)
  「益子の濱田庄司(仮)」

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南九州・沖縄の錫文化

 沖縄民俗学会1月例会(1月24日土午後4時~ 沖縄県立芸術大学 一般教育棟教養103教室)で発表しました。
 発表タイトルは「南九州・沖縄の錫文化ー技術の系譜ー」です。
 「琉球の錫」という小文を書いて10年目。沖縄の文化・工芸分野で研究者も少ない金属文化の研究発表です。
 以外と琉球・沖縄の錫文化は歴史も古く16世紀には文献に登場してきます。古くはマラッカ・中国の錫、近世期には薩摩の谷山錫山の錫を輸入し、錫文化を育みました。10年ほど金属文化に視点を当てた研究を続ける中で、今回は、近世の鉱山技術史及び薩摩・鹿児島の錫文化を絡めて、琉球・沖縄の錫文化をとらえました。
 鹿児島での調査成果発表が中心で、鹿児島でも金属文化研究は少ないので、3月には鹿児島民具学会で発表します。

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「沖縄の紙文化のあり様」

 2008年12月8日(土)9日(日)にお茶の水大学で開催された日本民具学会に参加しました。
課題発表テーマが「紙」だったので、沖縄の紙を考える会の活動をしている私としては、ぜひ発表を…と思いました。
 発表テーマは「沖縄の紙文化のあり様」と大風呂敷を広げた感のあるタイトルでしたが、内容は東アジアの紙文化にもつながる紙銭文化、祭事に使われる白赤黄の紙などなど、現代の生活で使用される紙を紹介しました。参考資料として、粟国恭子監修の『沖縄の工芸 紙』冊子を配布資料にしました。
 他の発表者は、紙布の研究者、チラシ情報を読み解く研究者などまじめな若手研究者が発表していました。

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近代沖縄の芸術研究②ー鎌倉芳太郎と比嘉朝健についてー

20  「沖縄県立芸術大学附属研究所紀要第20号」(2008年3月31日発行)に、論文「近代沖縄の芸術研究②ー鎌倉芳太郎と比嘉朝健・琉球芸術研究の光と影ー」を発表しました。
 19号で紹介した末吉安恭と比嘉朝健、鎌倉芳太郎と比嘉朝健の交流を通して<近代沖縄の芸術研究>の様相を示し、これまでその人物像がよくわかっていなかった比嘉朝健の芸術研究の紹介を目的としています。
 比嘉の発表した30以上の沖縄芸術研究の目録も、現段階で一番充実したものになっています。今後の資料発掘へと可能性が広がっていきます。
 内容構成は、
はじめに 
1、比嘉朝健の人となり
2、末吉安恭と比嘉朝健の関わり
3、鎌倉芳太郎と比嘉朝健のつながり
4、比嘉の琉球芸術研究の特徴
資料1「比嘉朝健目録」 資料2「比嘉朝健・鎌倉芳太郎関連年譜」
になっています。    

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現代の東アジアの民族問題

East_asia 1992年~93年頃に、よく聞いていた曲に中島みゆきの「EAST ASIA」musicがある。
 このごろの多く報道されるチベット問題に触れて、思い出し、ここ数日間よく聞いている。
 中島みゆきの特別なファンというわけではないので…この曲の成り立ちにまつわる話はわからないが…聞いているとチベットとか中国の少数民族とか朝鮮民族の歴史とか沖縄のこととか…考えてしまいます。いい歌です。
 チベットととかウイグル自治区の問題とか以前から興味があり、大学の講義とかでも取り上げている。
 Photo 曲を聴きながら、本棚から関連本を取り出し読んでいる今日この頃。
 チベット問題も含めて、中国の55の少数民族は21世紀どのような展開をみせるのか。
 チベットではここ2,3年で100近いホテルが建設され観光化、観光産業が活発に展開されている。でもその資本源は上海あたりで富を持った漢民族の資本家がオーナーで…チベット人を雇用している。チベット内の漢民族とチベット民族の中の経済的格差は計り知れない。
 生活のためにホテルなどで働くチベット人たち…それまでのチベット人の価値観で重要でなかった競争、賃金の能力給制、その格差…に向き合う現代。NHKが昨年この問題を特集で取り上げた番組があった。
 その中では、漢民族のオーナーがホテルのインテリアだとか土産物にチベットの古い民具や仏具などを過疎化が進む村の人々から買い集め、<チベット仏教のイメージ作り>にいそしむ姿も…それを喜んで購入する日本人観光客。
 現在のチベットには、歴史の政治的抑圧に加えて、資本主義と観光化の中での経済格差から生まれる抑圧の部分もあるのではないかと考える。
 ダライ・ラマが「非暴力」を訴えても、生活レベルの格差から生まれる不満を抑えることは可能なのだろうか?
 数日後に聖火は、日本にやってくる。
 チベット問題を考えながら、沖縄問題を考えている。
 

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「鉄ー人と道具とその技術ー」フォーラム

2008年3月8日(土)に会場を千葉工業大学津田沼キャンパスにて「鉄ー人と道具とその技術ー」フォーラムが開催され、発表者の一人として参加しました。
 日本鉄鋼k常会社会鉄鋼工学部会の催し物。気軽に発表を引き受けたのですが、会場には金属の専門家達が…。「沖縄の金属文化のあり方ー鉄・金・銀・銅・錫ー」のタイトルで発表しました。
 その他の発表も興味深く、勉強になりました。
*星野欣哉(東京農大)「前挽鋸の形態と産地」
*朝岡康二(人間文化研究機構)「金属文化研究の可能性」
*村上隆(奈良文化財研究所)「金・銀・銅からみる日本史」
*吉田晶子(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター)「錫器製造の民俗技術」 *粟国恭子「沖縄の金属文化のあり方ー鉄・金・銀・銅・錫ー」
*山際秀紀(北海道開拓記念館)「北海道の鉄製農具」
以上の順番でした。
 フォーラム座長には高橋礼二郎(東北大学)、司会及び世話人として香月節子(東京農大)、佐藤公昭(フォーラム幹事)の各先生方に大変お世話になりました。

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沖縄の紙展IN宮古島

Photo 2月15日~宮古島へ。
紙の展示作業をただひたすらに…チラシ作成も…展示も終わり、チラシも完成しました。
 宮古島市総合博物館の企画展で、紙の展示会を開催しています。テーマ「沖縄の紙展IN宮古島~自然・歴史・生活・アート」
 「沖縄の紙を考える会」事務局の私は、50枚のパネルと展示作品(これまで集めてきた紙製品)を提供しました。
 今回は宮古島の紙文化を紹介することをメインに考えていたので、紙資料も沖縄本島にない「砂川(うるか)双紙」や「砂川暦」を展示。其れから宮古上布の原料でもある苧麻を原料に、宮古上布の織手でもあるが紙作家としても20年のキャリアを持つ仲間伸恵さんの苧麻紙の作品も展示。卒業証書を手作りの紙で制作する活動をしている、宮古島市北小学校の紹介、多良間島で紙をすいている垣花さんの作品など、紹介されています。Photo_2

苧麻は1枚600円で博物館でも販売しており、私の監修した『沖縄の工芸 紙』冊子も販売することになりました。
 会場は円形状で小規模なのでどうなることやらと心配しましたが、わりときれいにまとまっています。
 展示会は2008年2月19日(火)~3月16日(日)まで、宮古島市総合博物館で開催されています。

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『すぐわかる沖縄の美術』刊行

Photo 2007年11月10日に東京美術から『すぐわかる沖縄の美術』が刊行されます。
 本書の特徴は、沖縄工芸の分野、琉球王国時代の絵画、近代以降の絵画・デザイン、建築、民俗文化の<美術>を最新の研究成果をふまえ、沖縄の若手研究者が執筆を担当している点と、沖縄県立博物館・美術館、沖縄県立芸術大学、那覇市歴史博物館、壺屋博物館や県外の各機関の所蔵品が、豊富にフルカラー図版で紹介・掲載されています。
 監修は、宮城篤正(沖縄県立芸術大学学長)、後の執筆者は小林純子(芸大芸術学准教授)、宮里正子(那覇歴史博物館学芸員)、倉成太郎(壷屋博物館学芸員)、平川信幸(沖縄県立博物館学芸員)、翁長直樹(沖縄県美術館学芸員)そして私は、「グスク、首里城、庭園、民家、金工、民藝運動と沖縄の民具」の執筆を担当しました。GWに識名園や中村家、勝連グスク、中城など写真を撮りにいったりしてました。
 本の構成は、第1章漆芸、第2章染物、第3章織物、第4章焼き物、第5章絵画、デザイン、第6章建築・彫刻・民具です。
 編集者の日本アート・センターの島田さん(女性)が大変優れた編集者で、やってよかったなー思う仕事でした。
 『すぐわかる沖縄の美術』は県内書店、県立美術館ミュージアムショップで購入可能の予定です。県外では書店のほか、東京国立博物館、九州国立博物館などの県外の博物館・美術館のミュージアムショップでも購入できるようです。Photo_2   

本の帯には2007年11月1日にオープンする沖縄県立博物館・美術の館見学の前後におすすめの本とありました。

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2007年度絵画コレクション作品展

2007 2007年度の沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館自主企画展示会開催にむけて
 
 学芸員(1人)で勤務する芸術資料館は、秋の自主企画展に向けての作業が進んでいる。
 今年の企画展は、絵画コレクションの展示会です。タイトル「表現に向き合う時(とき)-イメージの位置ー」と題して、開催。
 11月には沖縄県の美術館もオープンして、話題はそちらのほうに集中するのではの不安がありますが…。
 沖縄県立芸術大学が所蔵する絵画コレクションがまとまって展示されるいい機会です。収蔵品の整理研究もかねての自主企画展は、一人で作業もしなくてはいけません。例によってチラシもデザインした。なれない現代絵画の世界をひたすら勉強中!。
 常設展示室では、アメリカのフランク・ステラ、クリスト、サム・フランシス、日本では工藤甲人、磯見輝夫、長谷川潔、「もの派」の榎倉康二、沖縄関連では内間安せい、与儀達治、山城見信などの40点以上が、展示。 企画展示会では日仏会館公演会ポスターが40点以上(草間弥生、磯崎新、田中一光、など有名作家が1980年代に製作したシルクスクリーンの作品)が展示されます。日本には二ヶ所のみこのポスター(全299点)は所蔵されているのです。日仏会館にもそろっていないないのでは…?すてきな作品たちです。
 現代絵画の作品をこれだけ所蔵するのは、芸術大学ならで…です。
 こうした作品が入場無料で観られるのは、ある意味贅沢な展示会です。作家の表現、イメージに向き合う時間をお楽しんでいただきたいと、そして私も楽しみたい。11月2日(金)~11月3日(土)は、芸大祭、首里文化祭の期間でもあり、秋のひと時を首里で過ごしてみてはいかがだろう。
 以下、展示会の具体的情報です。

*会 期:2007年11月2日(金)~11月11日(日)
      午前10時~午後5時まで
      11月3日(土)は午後8時まで
*ギャラーリートーク:11月3日(土)午後2時から
 田中睦治(館長:絵画専攻教授)小林純子(芸術学専攻准教授)
*料 金:無 料
*会 場:沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館2階常設展示室・企画展示室
*主 催:沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館
*駐車場の都合により、来館はモノレールかバス・タクシーをご利用ください。

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「沖縄の金細工~うしなわれようとするわざ・その輝き」展によせて

2007年8月28日(火)『沖縄タイムス』に掲載

「沖縄の金細工~うしわれようとするわざ・その輝き~」展に寄せて

琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた。彼らは、鉄を扱う鍛冶や琉球漆器職人と同時期の16世紀後半には存在していたことが、『球陽』や家譜資料の文献資料で確認できる。1592年に、金具師、玉貫工、錫工などの細工部門を統括する「金奉行」が王府内に設置された。その後、琉球の金工技術は、幾度となく中国や薩摩から導入され、外国から輸入した材料で金属製品が製作されていた。
 
王府で使用する調度品や漆製品の飾り金具や錫や銀製酒器、国王や神女たちの簪、その他にも社会階層によって素材の異なる簪、上流の女性の指先に揺れる銀製の房指輪、首里城やお寺などの建物を装飾する飾り金具など、さまざまな金工品が製作されている。
 
琉球の金属技術は、古琉球期から近代まで、脈々と生きてきた世界である。近代以降、そのほとんどの技術は途切れている。1879年、琉球国は沖縄県となり、日本の一地域の歴史を刻みはじめる。時代の流れて、消えてゆく工芸技術も少なくはない。その最も代表的なものが金属関係の技術であり、紙漉きの技術であった。技術を支える需要と生産の柱であった王府使用の品々が注文されなくなる。近代以降、王朝文化を支えた技術の中で断絶を生み、今日に繋がれていない芸術が金工と絵画分野に顕著である。王府組織でその役割が、明確であった芸術文化ほどその断絶は深い。
 金工文化に陰りが見えるのは、琉球王府の消滅がもたらす社会変化だけではなかった。沖縄の金属文化が急激に衰えたのは、第二次世界大戦が契機であったことも忘れてはならない。実は、伝統技術と沖縄社会との乖離は、現代の問題なのである。熱を加えると溶解し、新たな道具に容易に生まれ変わる金属の性質は、戦争や時代の開発思考と全く無関係ではない。例えば、戦時色の濃くなった1941(昭和16)年には、日本全国に金属を献納することを奨励する法律が適応されている。こうした金属献納の運動は、沖縄でも展開された。1944(昭和19)年には、「簪報国」運動の成果として、沖縄だけで短期間に7千数百本の簪が献納されている。この時期に、簪・指輪の装飾品、その他にも金属製の盃や梵鐘などを献納された。軍事に必要なものを産み出す目的で消えていった金工品がいかに多かったか。そして戦後の生活用品を得るためにどれほどの金属製品がリサイクルされていったのか。またこの問題は、東アジアの開発に伴う金属需要が急速にのび、日本の各地で金属製品の盗難事件が社会問題となっている現在の状況と繋がっている。このことに思いをめぐらせれば、金工文化の喪失は、いつの時代にも容易に、そして瞬時に起こりうる問題といえよう。
 
現在、金属工芸で継承されている技術は、銀を主体とした素材で指輪、房指輪、簪などの装飾品が中心である。錫製酒器や島々に残る銅製品を生み出した細工技術は途絶えてしまった。数人の金細工職人が作る簪や指輪などの装飾品の多くは、琉球舞踊の踊り手たちや個人の需要に支えられて製作されている。
 
古い技術は、社会の需要がなければその役割を変化させていく。代々続いた金細工屋の志と葛藤に近い熱い情熱から、そのわざの系譜をささやかに繋いでいる人々。また、多くの時間と労力と、何よりも失われてゆくものに深い思いを注ぎ込み、粘り強く金工品を収集してきた人々がいる。そして戦前に撮られた写真でのみ、その輝きやわざが確認できる現存しない世界がある。沖縄の金工の世界を通して、失われたもの、繋がれたもの、失われようとするものと向き合い、過去・現在と何よりも未来の時間を見つめていただきたい。

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展示会「沖縄の金細工~うしなわれようとするわざ・その輝き~」

Photo_3   沖縄の金属文化の中で職人の世界、わざに視点をあてて展示会を企画しました。浦添市美術館で8月31(金曜日)から9月9日(日)の期間で開催される「沖縄の金細工~失われようとするわざ・その輝き~」の準備作業中。開催まであと4日。
 今回は実行委員会主催で開催します。多くの方々が参加しての展示になります。私は歴史や解説部分(チラシ・原稿・パネル作成)で役割を担います。Photo_4
 金・銀・銅を扱う金細工(クガニゼーク)の世界を中心に展示を構成します。「失われてしまった琉球王府時代の金細工や錫細工の世界」では、戦前に鎌倉芳太郎氏が琉球芸術調査の際に撮影した金工品の写真も多く展示されます。わざの解説もあります。とにかくこんな金工品が琉球・沖縄でも制作されていたのかと感動します。他地域の金工技術と比較したら細かいとは言えないわざですが…。
 メインは現在数少ない職人(首里の又吉工房だけでなく現在活動している金細工工房・すべて又吉さんという苗字…)のわざの世界を紹介。
  また、当初予定はなかった沖縄コレクター友の会の方々の情熱的な協力で、コレクター友の会コーナーもつくりました。たくさんの時間と労力とエネルギーで個人的に収集された品々です。戦争でなくなった金工品も多いのも現実です。
 沖縄の工芸でマイナーな分野の展示会ですが…どうぞご覧ください。9月2日(土)には講演会も開催されます。
*「沖縄の金細工~失われようとするわざ・その輝き~」
*期間:2007年8月31日(金)~9月9日(日)
     午前10時~午後5時まで(金曜日は午後7時まで)
*会場:浦添市美術館
*入場料:一般及び高校生以上学生100円
       中学生以下無料
*講演会:2007年9月1日(土)午後2時~5時まで
       「沖縄の金細工」
       宮城篤正(沖縄県立芸術大学学長)「沖縄工芸技術の保存」
       又吉健次郎(金細工師)「金細工のわざに生きる」
       粟国恭子(芸大附属芸術資料館学芸員)「沖縄の金属文化」
*主催:沖縄の金細工展実行委員会
*問合せ:浦添市美術館 ℡:098-879-3219

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『首里城研究』と首里城研究会

Photo_14 『首里城研究』は、首里城友の会で発刊されている首里城研究の文章を掲載した冊子。現在No9まで刊行されている。
 2ヶ月に1回、発表者を決めて研究会活動をしている。友の会の事務局が担当しお世話になっている。毎回、発表された研究テーマについて議論が展開される。歴史、考古、文学、建築、文化人類学、学芸などの分野のメンバーが自由に質問や発言できる研究会で、私は、1994年ごろから参加している。
 私は、『首里城研究』では、No3「耳盃について」(1997年)、4号に「琉球の錫について」(1998年)、5号に「金属文化の素描ー神女の簪についてー」(2000年)の沖縄の金属文化関係の論考を発表している。
 それまで研究の少なかった金属文化関係の思考を始めたのもこの機関紙である。未熟な分析も訂正内容も、その後の研究で気づいた点も多い論文たちであるが…。
 「耳盃」「錫」「簪」などをキーワードにこの10年間、金属文化を個人の重要なテーマとしてフィールドワークを進めてきた。考古学、歴史民俗学や美術工芸、文学などとリンクする情報を集め整理してきた。「何学の研究」ではなく「金属文化研究」としかいいようがない。途中3,4年離れていた時期もあったが、テーマの情報を集めて、年に1回は研究会で発表してきた。いろんな意見を聞いたり議論する中で、遅々としたものではあるが、課題や問題が見えてくるし、勉強になる。
 私の中の金属文化研究のスタートとなった首里城研究会…金属文化を研究しているとどこかで王権につながっていくこと…こうした経緯もあり専門の学会誌ではなく、この『首里城研究』に金属関係の論考は発表しようと自身の中で決めている。ここ数年は発表ばかりで論考にまとめていない…反省!しきりですが…。原稿料なども出ない(会費はちゃんと支払っています)、どこからも研究費などもでない個人的な研究の発表である。このへんは、知人達にも誤解されているようで…。「なぜ金属なのか」はいずれかの機会に…。
 ちなみに『首里城研究』のバックナンバーは首里城公園の首里杜館の売店で購入できます。

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『伊是名村銘苅家の旧蔵品および史料の解説書』

Photo_10 『伊是名村銘苅家の旧蔵品および史料の解説書ー公事清明祭をめぐる公文書とご拝領の品々ー』
 発行日:2007年1月  139P
 発 行:伊是名村教育委員会
      沖縄県伊是名村字仲田1385-1
     電話0980-45-2318
 編集:株式会社 国建
 目次:1、本書の背景ー尚円王を追憶する王国の論理ー
     2、銘苅家美術工芸品の解説
      *漆器(上江洲敏夫)*金工(粟国恭子)
      *陶器(津波古聰) *染織(与那嶺一子)
   3、公事清明祭に関する銘苅家文書の解説(高良倉吉)
   4、その他の銘苅家文書の解説(村史掲載資料)  (高良倉吉)
   5、伊是名玉御殿調査概報 (高良倉吉、安里進、田名真之) 
   コラム
  
 琉球国第二尚氏の尚円王の出身島、伊是名島は、首里城から遠きにありながらその存在は琉球王府にとっては重要な島であった。文献資料、王家ゆかりの墓、そして祭祀用具の品々が残っている。それらを写真や図などを多用しビジュアル化した上で、村史発行以後の最新の研究成果を元に作成された解説書。編集を担当している国建の西村氏(文化人類学)、大城涼子氏(歴史学)の力量も存分に発揮されている。
 金工品の解説を担当した。文書に見られる重要な金工品は多くは残っていないが(簪や耳盃など)、王府祭祀における金工品、香炉、茶道具などの解説を執筆。
 伊是名村教育委員会では、有料(2000円?)で販売している。問い合わせは村、教育委員会まで。
    

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特別展図録『久米のきみはゑ500年』

Photo_9 特別展図録『久米のきみはゑ500年ー祭祀用具にみる神女の世界-』
 
編集・発行:久米島自然文化センター
 発行:2001年
 
 この図録は2001年(平成13)年11月3日(土)~12月9日(日)まで開催された特別展:久米のきみはゑ500年ー祭祀用具にみる神女の世界ーの図録である。
 沖縄民俗研究の中で論考の多い神女関係のテーマの中で、マテリアルな部分、祭祀道具からの研究が少ないとその必要性を地域史などの集まりで語ったり、自ら金工調査を祭祀道具の簪からすすめていた時期に開催された展示会であった。この展示会へも奄美の神女関係資料を、館長の上江洲均先生、担当の山里克也氏とともに資料調査段階から関わった。「神女の祭祀道具ー神女の簪ー」の文章を寄せた。シンポジウムにもパネリストで参加。
 久米島には琉球王国時代からの神女きみはゑ関係の祭祀や道具をはじめとした神女関係資料が多く残されており、現在も祭祀がおこなわれている。具体的に残された祭祀道具の中に、王府時代の技術史や芸術感や信仰の形がある。とても重要な分野で、現在もそのフィールドワークは続行中。東アジアへとつながる資料群でもある。

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『東北学Vol6』「琉球王府の女たち」

Photo_8 『東北学Vol 6-特集<南>の精神史』
 発行:2002年4月
 発行人:赤坂憲雄    371P
 発行所:東北芸術工科大学東北文化研究センター
 発売所:株式会社作品社    定価 :2,000円
 ISBN4-87893-471-9

東北文化研究センターの赤坂憲雄氏が沖縄県立芸術大学附属研究所の波照間永吉所長や田場由美雄氏らの交友で
沖縄で集中講義などをされていた時期に立ち上がった企画ではなかったか?
 谷川健一・藤井貞和・赤坂憲雄氏の<「海上の道」と南島文化ー柳田国男の思想の再検討ー>の座談会と考古学、民俗学、歴史学、思想などの奄美・沖縄の地元研究者を中心に<特集「<南>の精神史」が組まれた。依頼の際の企画書をみて女性執筆者が2人ほどだったので「断ってはいけない」と自身に言い聞かせて、引き受けた。「琉球王府の女性たち」で論考を発表。「王権と民俗のはざま」をテーマに「王府と女性たちの関係」をーとの内容依頼であった。2001年『なは・女のあしあと』で執筆した内容事例を組み立てなおしての内容にしてある。
 特集とは別の巻頭座談会「<新しい歴史>とは何かー国民国家の帰趨と戦争の記憶ー」(姜尚中、上野千鶴子、三浦佑之、赤坂憲雄)があり、姜尚中と同じ雑誌に掲載されたことが感慨深かった記憶がある。

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『那覇女性史(前近代編)なは・女のあしあと

Photo_7 『なは・女のあしあと 那覇女性史(前近代編)』
 編集:那覇市総務部女性室
 発行:2001年3月 定価:1800円    295P
 発行所:株式会社琉球新報社事業局出版部
 ISBN4-89742-038-5

 『なは・女のあしあと』は<前近代編><近代編><現代編>の全三冊が発行。<前近代編>は古琉球から1609年の島津侵入を経て、琉球王国末期(1879年の廃藩置県)までの那覇を中心として女性のあゆみを綴ったもの。近代編、現代編など資料も比較的ある時代と違い琉球王国時代の女性達の歴史に光を当てる作業。書き手も容易に引き受けない中で、編集委員を務めていた責任から第2章首里王府と女性の「王家の女たち」、第3章女の一生の「結婚とその形態」、第6章女性と信仰の「村落・祭祀」「仏教と女性」の執筆担当が半ば強制的に決定し担当することになった。歴史専門ではない私も、歴史文献と格闘しながら書いた記憶がある。
  小野まさこ、稲福みき子らの女性執筆者に加えて、田名真之、豊見山和行、真栄平房昭、池宮正治、古塚達朗氏らの男性執筆者が多いのも特徴である。
 「那覇女性史ではあるが、那覇を中心にしつつ琉球王国時代の女性たちの世界にも考慮して書いてください。」と編集を担当した宮城晴美さんは<沖縄女性史>の認識が強かったと思う。沖縄女性史の世界を取り上げた文献では、2001年段階ではよくまとまった本だと思う。また、その内容を引用、検討、批判などの作業がすすめられて、今後、多くの研究者がより沖縄女性史研究が深まっていくことを願わずにはおれない。

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『沖縄を知る事典』

Photo_6  『沖縄を知る事典』「第16章沖縄の民俗・文化」執筆担当
 編集:「沖縄を知る事典」編集委員会
 発行:2000年5月発行 510p
 発行書:日外アソシエーツ株式会社
 ISBN4-8169-1605-9

 「沖縄を知る事典」は沖縄の地域史研究・特に近代・現代を研究している屋嘉比収、宮城晴美、新城栄徳、伊佐眞一、鳥山淳、宇根悦子、輿石正氏が編集委員をつとめ発刊されました。書き手も50人以上でほとんどが沖縄地元の書き手です。
 その中の第16章沖縄の民俗・文化の章執筆を担当しました。担当した項目は「解説」「シマと御嶽(ウタキ)」「清明祭(シーミー)と亀甲墓」「石敢當と獅子(シーサー)」「トートーメー(位牌)」「風水(フンシー)」「豊年祭・海神祭・イザイホー」「ユタ」「ウナイ・ノロ・カミンチュ(神人)」を担当。いずれも沖縄民俗文化を語る際にはキーワードとしてはずせない項目です。
 ちなみに、その後より現代的な問題項目を充実させた『深く沖縄を知る事典』が発刊されています。

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『沖縄の工芸 紙』

Photo_12  沖縄文化・工芸研究所発行の印刷物『沖縄の工芸 紙』は、沖縄の紙文化を紹介したビジュアル版。2003年に発足した「沖縄の紙を考える会」で編集。監修を沖縄文化・工芸研究所の粟国(紙を考える会の事務局)が担当している。「沖縄の紙を考える会」は職人や学芸員、研究者など約10ほどではじめたささやかな会。年に1回のペースで展示会を開催したりシンポジウムを開催する活動を行なっている。沖縄の工芸分野では、紙文化はマイナーなテーマ。研究者も職人や作家も少ない。「沖縄の紙文化に関してのわかりやすい資料をメンバーでもほしい」ということで、取材や編集まで自分たちで行ない発行することで、情報の共有をはかることにした。ほとんどの文章を書いた手前、監修が粟国になっている。ちなみに出版費用も私の方で出し…自費出版の20Pの薄い冊子だ。でも全てカラーで50P分ほどの情報をコンパクトにおさめた。展示会会場や一般の方達に提供するために1部800円で販売しようということになり、いろいろな事務手続きなども兼て個人事務所「沖縄文化・工芸研究所」設立にいたった。ささやかな活動のスタートのはじまりでした。そろそろ改訂版が必要になっていますが…ということで以下紹介です。
*『沖縄の工芸 紙』 A4版 20P フルカラー
*「沖縄の紙を考える会」編 監修:粟国恭子 発行:沖縄文化・工芸研究所
*発行日:2004年10月
*内容は 紙の歴史・和紙の産地、琉球紙の歴史、芭蕉紙の復元、首里の紙漉きと樋川・井戸、紙の素材・植物、手漉き和紙のできるまで、歴史資料の修復、紙の作家たちー沖縄の現代ー、沖縄の紙を考える会、現在の紙製作活動状況を取り上げています。
*定価:800円  *榕樹書林が販売元ですが、浦添市美術館、沖縄県立博物館(現在閉館中)のミュージアムショップ、おきなわワールド内紙漉き工房「紙芳」で購入出来ます。インターネットでも直ぐ検索できます。

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近代沖縄の芸術研究①ー末吉安恭と鎌倉芳太郎ー

Photo_16 2006年度の沖縄県立芸術大学附属研究所紀要『沖縄芸術の科学』第19号に「近代沖縄の芸術研究①ー末吉安恭(麦門冬)と鎌倉芳太郎ー」の文章を書きました。
 末吉安恭に触れた文章は、10年ぶりぐらいです。2006年度沖縄芸術大学附属研究所公開講座「鎌倉芳太郎をめぐる人々、場所」シリーズの粟国担当の「鎌倉芳太郎と末吉安恭」(11月17日)の内容をまとめたものです。全文掲載は長文のため掲載せずに、以下構成のみお知らせします。
 はじめに、
1、末吉安恭(麦門冬)の人となり
  1)博覧強記な個性
  2)友人達の安恭像
2、末吉安恭の文化観ー近代沖縄文化研究の一翼ー
3、鎌倉と安恭ー二人の交流時期ー
<末吉安恭(麦門冬)関係参考文献・資料1982年以降>

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うりずんの季節ー水底の白い花

 ー2007年5月16日(木) 梅雨入りの日に想うー
 暖かい南国にも、季節を表現する美しい言葉があります。海を渡り、島をなでる風が北の方から吹くのか、南の方から吹いてくるのかで、南島の季節は変わり島々の表情は異なります。
 沖縄では、旧暦の3月頃の南風が吹き始める季節を「うりずん」と呼んでいます。秋冬の乾季が過ぎ、梅雨の時期と強烈な南国の日差しで満ち溢れる白い夏との間に訪れる短い時間です。その頃、静かに降り続ける雨によって黒土が潤うことを、島の言葉で「ウリー」と表現します。このことから「うりずん」は<降り始め説>と、潤いをたっぷり含んだ自然の豊かさへの<熟れはじめ説>とがあるようです。いずれにしても、豊穣の時の到来に、大地が蘇り、島々の潤いや実りを約束する意味の含まれた言葉です。
 その頃に沖縄の山々では、華麗は表情をもったイジュ(伊集:姫椿)の花が、水分をたっぷりと含んだ山肌を白く染め上げます。
 あたかも深き緑色の水底に咲きわたる風情の清純なこの花は、沖縄の言葉で綴られる琉歌にも次のように詠まれています。
 「伊集の木の花や あんきょらさ 咲きゆりわぬも 伊集のごと 真白咲かな」
 (意味)
 「伊集の木の花は、あんなに綺麗に咲いて、とても美しい。私もあの伊集の花のように真白に咲いてみたい。」
 うりずんの頃には、コンクリートの建物が並ぶ街を離れて、沖縄本島を北へ北へと車を走らせます。その頃の沖縄の海も、群青色に淡白いベールを被せたようなぼんやりとした表情です。こうしたおだやかな季節の沖縄もいいものです。 

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「琉球の芸術文化のあり様―古琉球から近世琉球の王朝文化と変容―」

Photo_15 『民族藝術vol.23』民族藝術学会編(2007年3月発行)の特集 沖縄の民族藝術紹介
<目 次>
粟国恭子「カラーグラヴィア:首里城の工芸文化―国宝琉球国王尚家関係資料―」
粟国恭子「琉球の芸術文化のあり様―古琉球から近世琉球の王朝文化と変容―」
伊從 勉「新発見の<首里城古絵図>の測量法について」
板谷 徹「唐躍について」
久貝典子(*)「紅型を通してみた鎌倉芳太郎の琉球工芸観」
児玉絵里子(*)「第2次世界大戦後の琉球紅型像―<紅型復興期>知念績弘・城間栄喜とその弟子達が目指した美の表現と試みー」
乾 淑子(*)「照屋勇賢の世界」
小林純子(*)「表象の沖縄―戦前期における紅型イメージの変遷」
岡本亜紀(*)「戦後アメリカ人向けに作られた琉球漆器についてー<㈱紅房>の漆器を中心に」
倉成多郎(*)「近代壺屋焼の歩み」
大城ミナ(*)「歌舞団と沖縄イメージ」

 今回の<特集:沖縄の民族藝術紹介>の論考の多く(*)は、2006年5月27日(土)28日(日)に沖縄県立芸術大学で開催された第22回民族藝術学会で発表された内容を中心としたものである。学会会員ではない粟国の担当したグラヴィアと「琉球の芸術文化のあり様」は、掲載される論考のほとんどが近代から現代における沖縄芸術文化に触れる論考であったため、その理解を深める役割として琉球王朝時代の芸術文化の紹介する内容の文章をーと、板谷芸大教授からの依頼を受けての執筆掲載になっている。

<『民族藝術』のお問合せ>
発行所 民族藝術学会
〒560-8532 大阪府豊中市待兼山町1-5
 大阪大学大学院文学研究科芸術学・芸術史講座内
 TEL:06-6850-5120 FAX:06-6850-5121
発行者:木村重信   編集:醍醐書房 

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「沈金と堆錦技法の琉球漆器」

『沖縄県立芸術大学紀要N0.15』(沖縄県立芸術大学発行.2007年3月31日発行)紹介
  Img0071 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館の芸術資料館担当として2006年1月から勤務している。
  2006年度沖縄県立芸術大学発行紀要に<附属図書・芸術資料館所蔵品紹介>(カラーグラヴィア)として、琉球漆器の作品を紹介した。「沈金と堆錦技法の琉球漆器―朱漆鳳凰牡丹文沈金東道盆と黒漆山水文堆錦総張文庫」のタイトルで小文を掲載している。73_1   紹介作品は、ともに1980年代に制作された琉球漆器で、所蔵品の朱漆鳳凰牡丹文沈金東道盆と朱漆飛魚文沈金文庫(金城唯喜氏制作)と黒漆山水文堆錦総張文庫(嘉手納並裕氏制作)の三点を取り上げ紹介。
 『沖縄県立芸術大学紀要N0.15』ISSSN0918-8924

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岸秋正氏所蔵資料の世界

1997(平成5)年7月31日(木)『琉球新報』掲載

   「岸秋正氏所蔵資料の世界」

Photo_11  この夏、沖縄関係文献の収集家として高名であった故・岸秋正氏の所蔵資料が沖縄県公文書館で公開される。8月1日から約二ヶ月かけて、「岸秋正文庫の世界~沖縄へのまなざし~」と題した特集企画展である。
 今回紹介される「岸秋正文庫」の資料は、今年1月に寄贈された約1万1千点の資料蔵書群の中から整理された資料の一部である。岸氏の所蔵資料に触れた沖縄研究の各分野の専門家達が、それぞれの分野で「貴重な資料である」と一様に感嘆する全蔵書の整理には、数年が必要と聞いていただけに、大変嬉しい公開である。
 岸氏所蔵の沖縄関係資料群は、昭和30(1955)年ごろから約40年の歳月をかけて収集された。その世界は、あくまでも<沖縄>にこだわり続けた岸氏の私的な知の領域で育まれたものである。
 この膨大な資料群に触れ、氏が丹念に記した資料の「収集日誌」を手にしてみると、沖縄関係の古書類を求めて費やした時間の長さと、その密度の深さに、ただ感動するばかりである。
 時間を見つけ、古書店に佇み、積み上げられた本の中から、沖縄関係の記事や本を丹念に探し出す。手に入れた資料を書斎でじっくり読み込み、その箇所に付箋を挟み込み、保存を考えて大切にパラフィン紙のカバーを丁寧にかける。その資料の命である情報を「収集日誌」と「目録」に詳細に記録していく几帳面な作業が、静かにゆっくりとした時間の中で繰り返される。その資料が存在する意味や価値を確認する事によって、資料に命を吹き込む玄人の仕事である。さらに沖縄県資料編集室(現公文書館内)の史料収集活動や、多くの研究者・機関、『伊波普猷全集』『東恩納寛惇全集』刊行事業等へ、命の吹き込まれた資料を提供する。活用されることで呼吸の出来る場へ資料を導いている。こうした氏の尽力やエピソードは、氏と交流の深かった金城功氏をはじめ、多くの方々の話題に上ることも多い。
 厳選されたコレクションには、沖縄地元の図書館や機関でも所蔵されていない貴重な本や雑誌、史料が多く含まれている。一点ものの古典籍や図版、絵資料の収集はもとより、沖縄資料を捉える視点として、これまであまりなされていない同著作の各版を揃えたり、雑誌の変遷体系に配慮した収集内容で、書誌学的な眼差しも忘れない。
 こうした資料の達人の世界に触れる時の感覚は、幼い頃時間の経つのを忘れる程夢中になって覗いた万華鏡の世界を思い起こさせる。一つ一つの部分が光・視点や角度によって変化し、新しい表情を見せてくれる。けれどもその変化を続ける世界には、乱雑な表情になることはない。何かに魅せられた人々の知の世界は自由でしなやかで、しかも整然とした秩序を生み出し、何かしら凛とした美意識さえ感じられる。そして何よりも、その世界を自ら楽しんだ事を、言葉を使わずに圧倒的なエネルギーで伝えてくれる。
 資料が発行された時間・分野・形態の枠を超えて、<沖縄>というキーワードの下で収集された貴重な資料が公開されるこの企画をぜひ多くの方々に楽しんで頂きたい。そして資料収集という<知の体系>の豊かさと、氏の沖縄への眼差しと豊かな情熱の世界に触れて頂きたい。
 今回は、前期は新発見の「渡地村文書」を含む近世古典籍(冊封使録、江戸上り、為と朝関係や漢詩文集『琉球神道記』『中山伝信録』『南島志』『六諭?義』など)を中心に、後期は<行政資料><沖縄学><文学><考古><自然科学><産業・糖業>の各分野の明治以降に刊行された雑誌類が中心に展示される。岸秋正氏文庫に関しての情報は、沖縄公文書館だより『ARCHIVES第5号』でも特集されており、また展示機関中には「岸秋正文庫の世界展示図録」も発行される。これらを参照しながら展示資料に触れると、より文庫の世界の奥行きが見えてくると思う。
 最後に、今回公開されていない文庫未整理資料には、夫人の朝子氏の父・宮城新昌氏関連の貴重な沖縄産業関係資料や、古い絵葉書など、その他の貴重な資料が多く含まれていると聞いた。こうした資料に触れる日を心待ちに氏ながら、この夏の展示会を楽しみたい。
            (特別展「沖縄へのまなざし 岸秋正文庫の世界」によせて)

 *その後1999年に委託を受け、岸秋正文庫の資料整理を手がける。

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書評『雲南農耕文化の起源ー少数民族農耕具の研究ー』

1999(平成8)年7月18日『琉球新報』書評欄掲載
書 評  『雲南農耕文化の起源―少数民族農耕具の研究―』
     尹 紹亭 著    李 湲 訳      上江洲均  監修・解題
      
 「どのように食物を生産するのか」の問いは、その土地に生きる人々の生活技術という、最も重要な「知」の在り方を問う事にほかならない。
   本書は、中国の民族学・農業生態学を専門とする研究者(現在雲南民族博物館勤務)によってまとめられた『雲南物質文化』(雲南教育者出版社)シリーズ『農耕巻上・下』の翻訳本である。決して多いとはいえない中国物質文化・民具研究の、本格的で優れた研究に、中国での出版から三年を待たずに触れることが出来た。
 中国西南部に位置する雲南省は、中国の諸民族(55)の約半数を確認できる少数民族の多い社会である。民族間の農耕文化比較の視点が可能な空間、そして隣接するベトナム・ラオス・ミャンマー等の東南アジアの農耕文化をも俯瞰できる場所でもある。雲南の農耕文化研究は、一地域にとどまらず、中国そして東南アジアの農耕文化理解への示唆を十分に与えてくれる。
  「刀斧、竹木鍬・鉄鍬、犁、耖と耙、播種と灌漑用具、蘿(ざる)・籃(かご)・馬幇・車・船などの運搬具、収穫具、穀倉と臼」の農耕具が取り上げられている。千枚を越える写真、古図・実測図等の挿図で、”モノ”と使用する人との関りを、読み物とは異なる手法で雄弁に説示する。各農具は「構造や形態、構成部品の名称、機能及び使用方法、構造と形態の分類、地理的分布の考察・確定」が明確な資料分析方法で整理される。さらに著者の「考古学・農史学、民族史及び民族学資料に配慮し、各具の歴史的根拠、伝播経路、変遷過程及び発展の傾向を探る」という物質文化の学際的・体系的分析研究への意識的な試みを見る。こうした物質文化と対峙する手法は、学ぶべき点が多い。
  翻訳本の監修・解題は、沖縄をはじめとし、日本、台湾、韓国、中国の民具研究に取り組む上江洲均氏。「南九州から南西日本の民具には雲南の少数民族のものと共通するものが多い」ことを実感として語れる存在は、日本農耕文化と比較する視点を解題に取り込んだ。原著の持つ雲南農耕文化の枠を越え、「日本農耕文化の起源」のテーマを立ち上がらせる重要な成果として、新たな意義や位置づけを本著に加えている。沖縄の農耕文化・農具研究においても必読すべき書といえよう。
       (第一書房   1999年5月18日発行  626頁  定価・1万円)

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旅の記憶としての本

2006年12月16日(土)『沖縄タイムス』「本にまつわるエトセトラ」欄掲載

   「旅の記憶としての本」
 旅行やぶらりと立ち寄った街の雑踏を後にして辿り着く場所の多くが、静かな寺・神社や御嶽や歴史・民俗資料館、博物館、美術館である。此等の空間がかもし出す静寂さは一種独特で、何時間いても退屈しない。
 過去に使用され、静かに眠っているかのように展示陳列されている民具や人々の祈りの対象になった宗教作品、作家の思考や技法、時代の息吹までも表現する芸術作品の数々。こうした作品の前に幾人かの人たちが立ちつくしたことだろう。空間を堪能した後、図録や関連の本を購入してその場所から離れる。後日その図録を広げながら自身の思考を確認したり、新しい認識に触れてゆく。
 これらの空間と同様に旅先の本屋を訪うことも欠かせない。私は旅に出る時にガイドブック以外の自前の本を持たずに出かける。日本の各地はもとより、韓国、中国、台湾、インドネシアどの場所を訪れても、街の風景に本屋を探している。時間の合間をみて本屋に飛び込み、そしてジャンルは関係なく書棚の森を探索する。その中で気になった本を手にする。各地の印刷事情や紙の質感を味わう。
 こうして手に入れた本の数々を、時には解することの困難で記号のような活字が並ぶその土地の本を、休息の喫茶タイムや宿舎で夜通し眺めて過ごしている。そうしている内に本の中の文字が語り始める。独特の匂いや音やリズムや様々な風景の立ち上がる世界が広がる。昼間に訪れた場所で生れた印象とは違い、別種類の少し高揚感さえ伴う自由な感覚がとてもいいのだ。お気に入りの時間。勿論自身の旅の土産は、その土地の地図と本になる。本屋に立ち寄ることなく時間に追われ駆け足で過ぎた旅は、どんなにたくさんの場所を訪れても、人に出会っても後悔というか何だか消化不足のようだ。
 時折、自宅にある本が旅の記憶を呼び起こし、旅先で自身を入れた写真をあまり撮ることの無い私の旅の思い出となっている事に気付く。
 最近では、インターネットから本を注文し購入することが、日常生活での購入スタイルとして多くなってきている事も事実。そして日常生活では、仕事関係や情報を得るために計画的に淡々と本を手にすることの方が多い。そうした作業は楽しさの半面感覚を拘束されているような苦痛さえも感じる時が無いわけではない。そうした日常から離れて旅先で偶然に本と出会い、それらを手に過ごす時間はゆったりした快楽の何者でもない。日々の生活でたくさんの本に囲まれて、たくさんの本を広げながら、時折「旅に出たい」と無性に思うことがある。

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シンポジウム「沖縄の紙資料からみえてくるもの」

2006(平成18年)年9月1日(金)『沖縄タイムス』「文化面」掲載

公開シンポジウム「沖縄の紙資料からみえてくるもの」に寄せて
  17世紀以前の琉球にとって、紙は日本や中国・朝鮮から輸入される貴重品であった。王府の重要文書に用いられ、現存する16世紀の紙史料・王府の辞令書は、こうした輸入紙が用いられている。また16世紀、中国の紙を運んで東南アジアと交易する琉球船が記録に残っている。
   琉球の紙抄造の歴史は、17世紀に始まる。康煕25年(1687年)関氏大見武筑登之親雲上憑武(唐名・関忠勇)が王府の命によって鹿児島に出向き、杉原・百田紙(楮紙の一種)紙漉き法を草野五右衛から伝授されたことに始まる(『琉球国由来記』)。
 1717年には、首里の「祖慶清寄」「比嘉乗昌」ら4人によって、芭蕉布の原料である糸芭蕉から、琉球独自の紙・芭蕉紙が漉かれた。首里・山川で抄造する彼らはその後、宮古・八重山・奄美大島へと技術を伝えている。
  18世紀から世紀にかけて、芭蕉紙をはじめとする琉球紙抄造技術と原料栽培は、王府の所在地・首里地区だけでなく、沖縄本島・周辺離島、宮古・八重山の先島地方の琉球全域に広がる。その事業は、王府指導の下に行われていた。
  しかし、琉球紙は国内需要をまかなうだけの生産量はなく、17世紀以前から輸入・使用していた中国の唐紙、上質紙の絵画用・竹紙、青壇、毛辺紙、連史紙、油紙類、甲紙、粗紙、川連紙、色紙、紅紙などの中国からの紙や日本からの和紙が多量に使用されていた。
 琉球内で使用する紙は、輸入された唐紙や和紙は重要文書に、楮木(カビギー)で漉かれた琉球製百田紙も首里王府の公用紙として使用された。芭蕉紙は、地方文書や下書き・控え文書や家内文書として広く使用されている。
 現代の私たちにつながれた紙の文化もある。沖縄の工芸世界でも多くの紙が用いられ、色鮮やかな文様を描く紅型は、下絵や型紙に渋紙を使用。漆工芸の世界では、漆を濾す吉野紙、その他にも芭蕉紙などを用いる。戦前まで首里を中心につくられていた藁紙「打紙」(紙銭)は、藁や古畳や莚を川の水に浸し、それを原料に漉いた黄藁紙に銭型を打ちつけた紙で、死後の世界のお金として沖縄の生活に定着した。お盆や年忌など祖先供養の祀りの際に焼かれる打紙は、今日でも一般的に使用され、沖縄の紙文化の中で生活に広く根ざした紙といえよう。紙銭を焼く文化は、中国を起源に台湾や香港などでも見られる習俗であり、沖縄の打紙文化も東アジア・東南アジアの文化とつながっていることを確認できる。
 沖縄の島々で作られていた杉原紙、百田紙、宇田紙、から紙、美濃紙、芭蕉紙、奉書紙、高檀紙、藁紙などの紙について、そして島々で使用された多様な紙文化を私たちはどのくらい理解しているのだろうか。亜熱帯の豊かな自然が育んだ「紙の島」の風景は、今日の私たちが忘れてしまった島々の大切な記憶である。その研究成果も充実したものではない現状があり、多くの課題が残っている。
 沖縄の紙の文化について、琉球紙の歴史、唐紙文化、近代の紙文化、素材、技術、修復保存、東アジアとの文化比較などの視点から捉えることから「沖縄の紙資料から見えてくるもの」を確認したい。その作業は始まったばかりである。
                                 「沖縄の紙を考える会」事務局

Photo_4 *公開シンポジウム「沖縄の紙資料から見えてくるもの」は、2006年8月15日(火)~9月10日(日)の期間、浦添市美術館で開催された「沖縄の紙の世界500年ー古文書からアートまでー」(主催:沖縄の紙を考える会、浦添市美術館)の企画の一つでした。30人の作家が作品を展示したほか、張子玩具製作や紙漉体験などの企画の一つで開催されました。
以下シンポの構成です。講師は2006年9月段階を使用。

*日時 2006年9月2日(土)午後2時から *場所:浦添市美術館
*内容
 挨   拶 前田考允(浦添市美術館館長)
        朝岡康二(大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事)
 基調講演 上江洲敏夫(沖縄県文化財保護審議貝専門委員)「琉球紙の歴史」
 研究発表 富田正弘(歴史:富山大学教授)「琉球の文書資料について」
        大川昭典(技術:前高知県立紙産業技術センター技術部長)「琉球紙の素材」
        藤田励夫(文化財科学:九州国立博物館保存修復室長)
              「紙資料の修復・保存について」
        真栄平房昭(歴史:神戸女学院大学教授)「唐紙について」
        小野まさ子(歴史:沖縄県史料編集室主任専門員)「近代沖縄の紙について」
        粟国恭子(民俗:沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館学芸員)
                 「
沖縄・東アジアの紙文化」

*シンポジウム内容は2006年9月8日(金)の『沖縄タイムス』に記事掲載されました。なおこのシンポジウム企画はトヨタ財団研究助成「近代化とくらしの再発見」企画で開催されました。

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書評『神々の古層 竜宮ニガイ』

1993(平成5)2月23日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評 比嘉康雄『神々の古層10 竜宮ニガイ』ニライ社
 1989年から始まった写真集「神々の古層」シリーズの10冊目にあたる本書は、漁業をなりわいとする宮古島の狩俣・池間・佐良浜で行われている海の神へ祈願祭祀<竜宮ニガイ>をテーマにしている。海に生きる人々は、北風が南風へと変化する天候の不安定な時期の旧暦2月(佐良浜では旧11月の2回)に<竜宮ニガイ>の祭祀を行い、竜宮神に対しての海鎮めを願い航海安全と大漁への祈りを捧げるのである。
 本書の特徴は、カメラを通して著者自身の感性に触れた「竜宮の神と向き合う人々」をとらえた写真、つまり祭祀の場に身を置いた著者自身の「実感」の表現である写真と、祭祀調査の実証的データーを提供することを重視した文章とがバランスよく配置されていることである。このような著者の一つの祭祀に対して異なるスタンスを持つ写真と文章とを配置する姿勢は、「神々の古層」シリーズを通して一貫して変わらない。
 著者が「切実な祭祀」と語る<竜宮ニガイ>で正面の海に対峙し砂浜に一列に並び祈りをささげる人々の姿は、日常から離れるものではなく生活の中にある。例えば<手>の表情。参加者の供物をささげる手、線香を差し出す手、神女たちの合わせられた祈りの手、両手を胸の前に突き出し招く手、波打ち際で祭祀用の小石を一つ一つ拾う手、供物の豚を解体する男たちの手、座り込んだ子供たちの膝を抱える手、浜辺で祈願のために集まった人々のさまざまな手の表情の中に、海と距離感を置くことができない、漁業を生業とする人々の生活感情があふれ出ている。その手はふだん海とともに淡々と生活の中で動かされる手である。
 本書は、今日の主流的である事象データー記述中心の文章を重視した民俗報告に対して「人々の生活感情をより豊かに表現する方法」への論議が繰り返される中で、一つの方向性を示している。しかも1975年と1992年の写真を配置することで<変化>をとらえる視点も配慮され、民俗社会の変化の激しい現代においてビジュアル資料としての記録性の価値も高いものになっている。

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書評『フォークロアは生きている』

1994年11月1日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評『フォークロアは生きている』下野敏見著、丸山学芸図書
 
自らの足で歩き続ける。自らの目で確かめ続ける。自らの手で記録し続ける。そうした経験と集められた成果は、積極的に世に問わなければならない。こうした民俗学、いや社会を論ずる学問分野に携わる学者の基本中の基本の姿を私たちに示してくれる著者が、「フォークロアは死んだ」と簡単に語られることに対して書名そのもので答えた。
  著者は南九州の民俗、南西諸島の民俗調査を中心に、日本各地を精力的に訪れる。近年は中国や韓国にもその足をのばす。「神々は生きている」では、道教の森山信仰、朝鮮の堂山信仰、日本の御岳信仰、沖縄のウタキ信仰の一連の山岳信仰を比較「なぜ森山は祟るのか」の問いを考察。また「ふるさとの神々は生きている」では、南薩に広く見られる<ウッガン>信仰にふれている。ウッガンが氏神か内神かの問題。その家の祖先神かどうか問題が多くの興味深い事例で論じられる。その中で女性と男性の祖先の位牌がわけられ、女性と夭折した男子の位牌だけを神棚に祀り、正統祖先の男性だけを仏壇に祀る事例が紹介されている。
 こうした分離二重棚は、明治期に入って旧氏族の神道の家が仏教の門徒になった際、仏壇が導入されてひきおこされた現象ではないかと解釈される。仏壇や位牌の導入によって、その地域の持つ男系尊重の「家」存続観念や神・仏感覚が浮き上がってくる。
 また琉球・中国との交流の中で入ってきた航海の神である媽祖(天妃)信仰が、氏神信仰としていきている事例も興味深い。久米島の天妃と似ているボッサドン(菩薩殿の意味)と呼ばれている媽祖像が薩南の山村で今も人々を見守っている。
 その他「琉球の男の祭りと女の祭りーシヌグ・ウンジャミ考―」では、沖縄もヤマト的な男性主導型の祭祀から、大航海時代ごろから沖縄式のウナリガミ的宗教へと変遷したのではとの視点も提示。また、甑島・蒸籠などの民具から<日本の蒸し器>文化を扱う新しい試みも特筆すべきであろう。
 沖縄民俗のさらなる理解のためこのような奄美・南九州の民俗に触れてみたらいかがであろう。 <鹿児島大学院時代の恩師・下野敏見先生著作>

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韓国の史跡ー浦添城跡との関連を求めてー

1995年(平成7)年10月19日(木)『沖縄タイムス』掲載

「韓国の史跡―浦添城跡との関連を求めてー」
 
韓国は、沖縄から距離的にそれほど遠い国ではない。那覇を中心に同心円を描くと、関西地方程度の近さである。1995年を「戦後50年」の節目として迎え、多くの平和事業が催されている沖縄から、「解放50年」として迎えた韓国へ。同じ時間の長さが沖縄とは違う意味を持つその国の風を私は受けたかった。韓国への旅は浦添市の文化課が主催した「沖縄と韓国の城郭・建築比較調査」一行に参加しての訪問であった。13世紀の琉球と朝鮮との交易が盛んに行われた歴史的な背景と浦添城跡から出土した高麗瓦の手がかりを求めている。現在の城郭は私たちに何を語りかけたのか。深く印象に残ったのは首都・ソウルにある李朝王宮の景福宮である。
 この王宮は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略の際と、1910年の日韓併合後の<日帝時代>と二度、日本から破壊を受けた歴史を持っている。王宮内に日本の朝鮮統治の「司令塔」である旧朝鮮総督符庁舎(現、国立中央は区部中間)は建っている。鉄筋5階建てのネオ・ルネッサンス様式の建物は、代表的な日本近代建築としても知られている。
 1916年6月に始まり9年5ヶ月の歳月をかけ1925年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、北漢山を背景にして美しく雄大に広がる景福宮の勤政殿前に建設された。建物の正面に位置する宮殿の正門・光化門は、庁舎の景観を邪魔するとして取り払われた。
 侵略され統治される側には、自らの歴史が育まれた遺産を、自らの意思で保存する力は与えられていなかった。
 日本民芸美術の父・柳宗悦は、朝鮮に対する日本の同化政策を批判し続け、朝鮮民族へ哀燐の言葉を紡いだ。植民地政策が推し進められているなか、1922年7月に「失われんとするー朝鮮建築のためにー」を書き表し、日本による景福宮の破壊を憂いている。

 「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢いに行こう。お前も私を待っていてくれ。お前を生んだお前の親しい民族は今言葉を慎しむ事を命ぜられているのだ。(罫線著者)それ故にそれらの人びとに代わって、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ。」

 現在、景福宮は韓国政府によって5年前から復元工事が進められている。3分の1が2009年までの20年間、総工費約200億円かけて復元される予定である。旧総督府庁舎の上部の採光塔が、今年の開放記念日・8月15日に除去された。旧庁舎は現在も博物館として見学できるが、1年後には全体が本格的に撤去される。
 この時除去された塔は、復元工事でよみがえるのを待つ光化門と対称的に、脇の地面に置かれ展示されていた。この建物の撤去が決定された2年前、国民の9割近くが賛成した。これほどまでに望まれた撤去であった。
 また、同敷地内にある国立民俗博物館では、近代百年をテーマに企画展が開催されていた。朝鮮における近代百年は、まさに日本の植民地としての歴史にほかならない。その中で興味深い展示があった。
 現在アジアは風水ブームの中にある。朝鮮総督府は、朝鮮の風水を研究し、風水理論で建設された王宮が持つ場所の力ち権威を失わせるために景福宮の前に総督府庁舎を建設している。その研究成果が総督府が1931年に出版した『朝鮮の風水』である。
 日本軍によって龍脈(風水でいう気の流れ)が走る山々に深く打ち込まれた鉄の杭は、すべての龍脈にエネルギーを復活させ、韓国の地に活力をとの願いから今年の8月に韓国の人々によって撤去させられた。その模様と鉄の杭が展示されていたのである。
 今年の景福宮は、近代百年と日本からの解放50年を確認するための空間であった。観光で訪れた人々に、王宮に悠久に流れたであろう時間の中の百年間を強烈に浮かび上がらせ、同時に現代の韓国の人々の意識を提示させていた。
 現代の韓国の人々が城郭を通してどのような意志表示をしたのかを、それを支えるエネルギーの意味を受け止めるには、静かで雄弁な空間であった。
 浦添をはじめ沖縄の各地の城跡は、戦跡としての性格をも持っている。歴史を物語る空間、そして今日的な演劇や祭りを取り込んだ新しい文化創造の空間として、その整備保存・活用が検討されている。
 いずれにしても、現在の私たちの鋭い問題意識を漂わせることができなければ、その空間と共に呼吸している事の実感を記憶にとどめることは難しい。

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沖縄学雑感ー内なる文化への眼差しー

1996(平成8)年6月24日(月)『宮古毎日新聞』掲載

  「沖縄学雑感―内なる文化への眼差しー」
 
私は、浦添市立図書館沖縄学研究室に勤務しながら、沖縄関係の資料収集や整理を行っている。また、地元の大学や看護学校で非常勤講師を、ここ数年勤めている。
 うりずんの季節に20歳前後の若者達と出会う。ほとんどが沖縄県・地元出身の学生達である。担当講義の内容は「文化人類学」、「沖縄の歴史と文化」などと異なる科目である。しかし、私は一番最初の講義に、いつも同じ問いを学生達に投げかけている。「①沖縄の地図を作成し知っているだけの離島や地名を書き込むこと。②行ったことのある島の名前を書くこと。」
 毎年同じような内容の沖縄県の地図が白紙に描かれて提出されてくる。輪郭もおぼろ気な白っぽい島が、不安定な位置関係を示し、平均して4から5の地名が記入されている。3ヶ所以上の島に訪れたことのある学生は50人中2,3人いるかいないかである。ほとんどの学生が沖縄本島と周辺の離島の情報を中心に描く。先島地名と位置関係をまとまって記入したのは、間違いなく先島出身の学生。しかし、この学生達も沖縄本島や周辺離島の空間は、白く残されたままである。生活空間である沖縄県に対して、日本地図、世界地図よりもおぼろ気な情報しか持ち得ない現実をどううけとめればよいのか。
 こうした結果に、最初の年は驚きもした。私以上に、彼ら自身の方が戸惑いを隠せない様子である。そんな時、彼らと同年齢だった頃の私に思いをめぐらせてみる。そこには、彼らと余り差異のない認識で精一杯の私がいた。
 沖縄県の若者たちが生活し、そして描けない空間は、毎日の天気予報、そして台風時にはより頻繁に、テレビの画像から提供され、目にする機会が少ないわけではない。けれどもその情報に対して、子供達の中に実感、つまり実在の空間として認識されていないのである。記憶さえもままならないのが現状である。
 複雑な心境で、「沖縄県は160余りの島があり、47の島で人々が生活を営み歴史や文化を育んでおり、その島々の集まりで構成されている」という、基本的なことから話始める。そして「出来るだけ多くの島を訪れ、自分の足で歩き自分の感覚で、その自然や日常生活の風景、島の表情に触れること」を学生達に提案する。その場所や社会を自身の中に実感として位置づける。それは、同時に私自身の課題でもある。
  亜熱帯の島々に悠久に流れた時間に育まれた民俗の世界が、圧倒的なエネルギーをもって、人々の日常の精神世界に息づいている。文化とは何か。それは人々の心の中に深く根ざした吐息であると思う。それは人々の深層での息遣いではないのか。その場所に立ち、息遣いに五感を感応させる。それが文化を学ぶということではないかと考えている。<内なる文化>にこそ、その感覚を研ぎ澄ますことが、<他文化>への理解の始まりではないのか。内なる場所として宮古を持っている私には、同時に様々な沖縄をいかに内なるものとして染み込ませるかが重要であろう。
 沖縄を対象とした様々な分野の研究は<沖縄学>と呼ばれている。地元の研究者も増え、多くの研究成果がある。その対象は専門性も多く、細分化される傾向にある。また、図書館には、沖縄学の内容に関する県外や外国からの問い合わせも多い。こうした研究が盛隆を極めていく一方で、<内なる場所>に触れる機会を失い、その<間取り>にすら迷ってしまう若者がいる。
 沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷は、ニーチェの言葉をかりて「深く掘れ、己の胸中の泉、余所たよて水や汲まぬごと」の琉歌を詠んだ。自分自身の立つ場所を深く理解すれば、そこには泉のように豊かな世界が広がっているという意味だ。その言葉を伝えていきたいと思う。私の沖縄学のテーマは「人々を育んだ沖縄の風景に興味をもってもらう手伝いをする」ことに他ならない。

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沖縄民俗(族)学研究史の視点

沖縄研究はいまー伊波普猷没後50年記念企画『沖縄タイムス』1997年12月2日(火)9日掲載

「民俗(族)学研究史の視点」上

 
伊波普猷は、自らの郷土研究を『古琉球』(1942年改訂版)の中で「私の沖縄学の体系化」と表現している。伊波が体系化を試みた沖縄学の分野は。主として言語、文学、歴史、民俗の四領域に重きが置かれている。
  明治期にその萌芽をみた民俗研究も、1950年代までは、民間学、在野の学としての歴史の方が長い。現在のように、人類学・民族学と同じように民俗学の講義を提供できる大学は多くはなかった。国内の大学でも、ようやく60年代以降に広がり定着している。
  この学問現場において民俗(族)学の評価が低かったことを意味しており、解明されることなく認識されていた。ちなみに沖縄地元の大学で、民俗(族)学の講義が開設され田のは、70年代に入ってからである。70年代は、民俗(族)学内では沖縄研究のピーク時を迎えていた。
 こうした状況下において、大正・昭和期に国文学、日本歴史学の中で、沖縄、アイヌの研究の重要性を取り入れたのは柳田国男や折口信夫の日本民俗(族)学成立の中心となった人々である。伊波の沖縄文化研究においても、その方法論やテーマを当時歴史の浅い人類学・民俗学という学問の場で実践する鳥居龍蔵、柳田、折口等との交流の中で受け入れた。換言すれば伊波の学問を評価したのも、台頭し始めた新しい学問であったと言えよう。このことは、日本民俗(族)学研究史の中でも、沖縄研究は早期の研究に属することに他ならない。
  その点をふまえた沖縄民俗(族)研究に関する伊波の位置づけは、平敷令治によって提示された詳細な研究史(「民族学・民俗学」『沖縄県史5文化1』75年)の中で確認できる。
  平敷は、伊波の沖縄学に焦点をあてた民俗(族)研究史区分の一タイプとして、明治期(沖縄学の出発まで)、大正期(沖縄学の進展)、昭和前期(沖縄学の円熟)の各枠組みを示した。
 その後60年代以降の沖縄民俗(族)研究の総括と展望は、日本民族学編『沖縄の民俗学的研究』(73年)、九学会連合編『沖縄―自然・文化・社会』(82年)、ヨーゼフ・クライナー編『日本民族学の現在―1980年代から90年代へ』(96年)などによって、各時代とテーマによる沖縄研究の動向と現状の課題を踏まえた形で示された。
 ここ10年間でも、沖縄民俗(族)研究の論文・著作は五百をゆうに超え、多様な研究が発表されている。内容の専門性の深まりと同様に今日の研究が扱う空間も広がった。
  伊波の没後から現在では、民俗(族)学、人類学における沖縄研究の扱う空間領域は、日本との対比だけではなく、中国や韓国のアジアの国々へと拡大され、その中で沖縄を捉える視点が重要になっている。
  その他に南島研究でも十分ではなかった先島、奄美、トカラ列島、屋久島等の島々を年頭に入れた空間へのアプローチなど、主にこのような三つの視点からの研究が行われている。
  しかし、沖縄民俗(族)研究史においては、平敷以後、十分な枠組みを持ち得ていないのが現状である。研究史からの視点では、戦後および現在に至る研究はもちろん、戦前に関しても次の問題が残されている。
①明治、大正、昭和初期の研究史の充実、②沖縄地元の郷土研究活動。ここ数年は、伊波普猷と同時期に郷土研究で活動した大田朝敷、真境名安興、末吉麦門冬、島袋全発、島袋源七、仲原善忠などの資料も発掘されている。沖縄地元の郷土研究会の変遷資料も充実してきた。
  柳田、折口が沖縄<南島>研究に取り組む以前、または同時期に別の場面で行われた民俗(族)研究の表情も輪郭が見えてきた。こうした新しい資料を再度編成し、充実した研究史が必要である。
  ③戦争と民俗の問題。沖縄研究では、沖縄戦の記録は多くの成果をあげている。人々からの聞き取り資料も充実した内容で、各団体、市町村誌(史)を通して発表されている。こうした成果と民俗(族)学はどのように取り組むのか、郷土研究と皇民化教育との関連問題も含めて議論されていない問題である。
  その他④台湾大学と沖縄研究。戦後の日本の民族学・人類学の研究に置いて、戦前の台湾大学で活動していた研究者たちの果たした役割は大きい。60年代、70年代において沖縄研究をリードしてもいる。学問の系譜と、新たに植民地と民俗(族)学とのかかわりの問題でも、大きな課題と言えよう。

  「民俗(族)学研究史の視点」下    『沖縄タイムス』1997年12月9日

  伊波普猷が亡くなって間もない1947年(昭和22)年9月、折口信夫は、「新国学としての民俗学」と題した文章を発表。その2年後には、柳田国男も当時の若き人類学者・馬渕東一、岡正雄へ沖縄研究を勧めている。
  大正期に伊波を郷土研究に導いたように、戦前台湾大学で文化人類学の理論と視点を学び、アジアへの関心を注ぐ馬渕らを沖縄へと導いたのである。そして柳田は、自ら主宰する民俗学研究所において沖縄調査を企画し、宮古・八重山調査を組織的に推進したのである。
  こうして沖縄民俗(族)研究が、<内なる文化>である日本と沖縄を捉える民俗学と、研究対象を<異文化>に求める民族学の両方の立場から行われるようになった。
  その後1960年代以降に発展し定着したアカデミックとしての沖縄民俗(族)研究は、県内外研究者の増加と、文化人類学、社会人類学、民俗(族)学など独自の視点での研究テーマが広がった。
  沖縄社会研究としての親族(門中)研究・家族(家)研究(村武精一、比嘉政夫、津波高志ら)の社会構造・機能分析や宗教研究では、祭祀研究のオナリ神研究(馬渕)や祖先祭祀、位牌祭祀の研究、シャーマニズム(ユタ)研究、外来宗教研究などが展開されてきた。著作・論文数においては、かなりの研究成果を蓄積してきた。現在では、ドイツやフランスのヨーロッパ地域やアメリカ、そしてタイ、インドネシア、韓国、中国のアジア諸国との共同研究も盛んである。
①アジアへの視点。沖縄民俗(族)研究をアジアの枠組みへ導いたのは、やはり蓄積の多い宗教研究の分野であった。その中でも「風水」研究(渡辺欣雄、玉木順彦ら)、「道教」研究(窪徳忠)、「儒教」研究(平敷令治の位牌祭祀研究)、「シャーマニズム」(佐々木宏幹、山下欣一)の研究は、中国・韓国などの東アジアとの比較で成果をあげた。
  宗教研究と同様に、先に述べた沖縄社会研究の各分野で、ここ二十年で学際的にも国際的にも広がりを持った展開がなされている。
  最近では、②医療と民俗(族)研究も活発である。現代社会が抱え込む様々な問題と、民俗(族)研究が対峙する時、医療分野関連のテーマと共に議論されることが増えた。現代ストレス社会を反映した「癒し」をキーワードに従来の宗教、民俗研究成果が議論され、また長寿社会・沖縄の文化を「老い」「死」のテーマでも研究が行われている。
  また③多くの離島で構成される沖縄の「都市化」と「過疎化」の問題は、次のテーマで語れるようになった。都市化された場所での墓地不足、家・祭祀継承の揺らぎ、女性の社会的権利と位牌継承問題(トートーメー問題)。多くのシンポジウムが開催され、幅広い議論がなされている。伝統祭祀保存問題(宮古の神役)について。研究・助言から実践に向けて、研究者が積極的にかかわる新しい局面も出てきた。
  ④<民族問題>。現代の民族・人類学では、エスニシティー、民族問題、独立論をテーマにした研究も多い。村井紀『南島イデオロギーの発生』『大東亜民俗学の虚実』が著されているが、沖縄民俗(族)研究ではこれからの課題といえよう。
  同様に⑤産業―観光人類学。新しい祭り(エイサー大会、トライアスロン、ふるさと祭り、首里城祭りなど)と「地域おこし」「観光」などの視点から、社会学との学際的研究も必要であろう。⑥民族文化の記述(地域史編纂事業から)の問題。本土復帰二十五周年を迎えた今年、現代にとっての<民俗>を記述することは、どのような意味を持つのか。
  地域史研究が盛んになり、その成果としての多くの自治体が市町村史(誌)編纂事業を推進している。現在では、よりミクロな共同体の歴史編纂への取り組みも盛んで、多くの字史(誌)が編纂・刊行されている。各市町村とも刊行冊数はそれぞれ異なるが、いずれも人々の日常生活を記録した民俗編(章)は、かなりの紙面が割かれ記述されている。
  こうした多くの民俗資料が盛り込まれた「地域史」刊行物は、内容の質の高さと比較して、目次内容が画一的な項目で構成されることが多い。市町村史(誌)編纂事業の先駆的役割を果たした那覇市史、浦添市史等の目次項目が、他の市町村への民続編へも踏襲されている現状がある。
  半世紀前の戦後から25年前の本土復帰当時、復帰後の沖縄の生活時間は急激に変化し多様化した。こうした時間への配慮が十分に検討されている現状ではない。社会文化の急激な変化に対して、文化(社会)、人類学、民俗(族)学、社会学の各分野は<文化変遷>のキーワードを通して、理論化、議論検証を続けてきた。記述として定着した地域史(誌)の民俗編の構成する時間枠を、そろそろ変える時期ではないのか。沖縄・地域独自の切り口と共に、民俗(族)研究者が早急に議論し、提言すべき問題である。
  今年開催された学会で、ある人類学者から「人類学の沖縄研究に未来はあるのか。現況では危うい」と叱咤にも似た刺激的な提示があった。このような90年代以降、現代において迷走する沖縄民俗(族)研究を指摘する現場の声もないわけではない。膨大な研究論文成果を持つ沖縄民俗(族)研究葉、成果も大きいが、残された課題も巨大である。

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沖縄の金属工芸文化

2003年2月「沖縄タイムス」掲載 南風原文化センタ-企画展「黄金細工と鍛冶屋(くがにせーくとかんじゃーやー)―打つ・曲げる・磨く・匠みの技―」案内


 「沖縄の金属工芸文化ー金細工ー」

 
 沖縄文化の伝統工芸分野の沖縄文化を語る時、どれだけの人が金属工芸文化に思いをよせることができるだろうか? 沖縄の伝統工芸の漆工芸、染色文化の紅型や島々に残る織物、焼き物については、沖縄の伝統工芸として内外に認知され、後継者育成をはじめ専門家による研究も成果をあげている。しかし、その中にあって金属工芸及び鍛冶の伝統技術は、紙漉き技術と同様に急速に失われつつある。現在その技術は、わずか数人の職人によって製作活動が行われている。金属文化を研究テーマにする研究者も極端にすくない。
 金属に熱を加え打つ、曲げる、磨くその技術で製作された生活用品、装飾品、農具の製作、武器、建築装飾品が沖縄の歴史に登場する時期は、314世紀のグスク時代に確認できる。世界遺産に登録された首里城をはじめ大型グスクから、刀、武具装飾品、簪、鏡、香炉など銅製品、釘などの鉄製品と多種の金属製品が出土している。
 
沖縄では、金銀を扱う金具師(チングシ)は黄金細工(クガニゼーク)とも呼ばれ、錫細工(シルカニゼーク)といい銅・真鍮細工をかねている。金属細工技術および職人は、鉄を扱う鍛冶や琉球漆器を生み出す技術職と同時期の16世紀後半には首里王府編纂『球陽』(1745)や家譜資料の文献資料に登場する。金銀錫銅をあつかう金属細工職人は、鉄をあつかう鍛冶職とは異なる技術の認識が古琉球期から確立されており、琉球王府の中で技術職として組織化されていた。つまり沖縄文化の金属技術は、古琉球期から近代まで脈々と生きてきた世界である。
 
この技術文化に陰りが見えるのは、琉球王府の消滅から近代にかけての社会変化だけではなかった。沖縄の金属文化が急激に衰えたのは、第二次世界大戦が契機であった。実は、伝統技術と沖縄の社会との乖離は現代の問題なのである。熱を加えると溶解し、新たな道具に容易に生まれ変わる金属の性質は、戦争と全く無関係ではない。戦時色の濃くなった1941(昭和16)年には、日本全国に金属を献納することを奨励する法律が適応されている。こうした金属献納の運動は、沖縄でも展開された。1944(昭和19)年には、「簪報国」運動の成果として、沖縄だけで短期間に7千数百本の簪が献納されている。この時期に、簪・指輪の装飾品、その他にも金属製の盃などを献納された。また、沖縄戦では多くの金属製の文化財が焼失したり、戦後に海外に流出した文化財も多数存在する。こうした時代的な背景は、沖縄の金属文化を急激に変化させ、金工研究の素材が、他の工芸品と比較して少ない一因にもなっている。
 
1960年代、沖縄を訪れていた浜田庄司が壺屋散策中に金鎚の音に導かれて金細工またよしの六代目又吉誠睦の工房に立ち寄った。時代に応え宝石入りの指輪加工を中心としていた又吉に「もう一度琉球人に帰ってくれ」との浜田の一言に端を発し、芹沢銈介所有の辻にあった古い指輪もとに棟方志功が図案を起した。それをもとに、沖縄の金細工職人又吉が必死の試行錯誤の結果として、指輪の一つである結び指輪はよみがえったのである。
 また現在、結び指輪の系譜をたどろうとしても容易ではない。金細工職人で誠睦の息子・又吉健次郎氏がいろいろな人から聞き取りを行い、「遊郭・辻町の女達が身につけ、時には質屋の質草に利用していた」指輪の表情を確認している。士族層の婚礼指輪であった吉祥の七飾りのついた房指輪は、昭和十一年に琉球芸能東京講演で舞踊家・玉城盛重が起用したのが始まりで、現在でも踊り手にゆらゆらと揺れている。
 
現在、金属工芸で継承されている技術は、銀を主体とした素材で指輪、房指輪、簪などの装飾品が中心である。錫製酒器や島々に残る銅製品を生み出した細工技術は途絶えてしまった。金細工職人が作る簪や指輪などの装飾品の多くは、琉球舞踊の踊り手たちや個人の需要に支えられて製作されている。古い技術は、社会の需要がなければその役割を変化させていく。それらは途絶えること無く現在にいたった技術ではなく、ある人物と職人との出会いのドラマから復活したり、職人の志と熱い情熱から継続させた結果がその技術の系譜を繋いでいる。鉄を中心に製造をする鍛冶屋の技術も同様である。
 
私達は、沖縄の歴史が育んだ金属文化の豊かさを十分に知ってはいない。沖縄文化の重要性をうたう声の多い昨今、ささやかに繋がれた技術の<知>の奥深さに向き合う姿勢が問われている。                                 

南風原文化センタ-企画展「黄金細工と鍛冶屋(くがにせーくとかんじゃーやー)―打つ・曲げる・磨く・匠みの技―」

 2003年225日(月)から310日(日)
*実演…33日(日)・10日(日)午後3時から5時まで
 講演会…39日(土)午後3時から5時まで
 
「沖縄の金属文化」粟国恭子
 
「私にとっての金細工」又吉健次郎(金細工またよし)

展示内容:簪、指輪、房指輪、製作道具類、新聞、文献、写真、復元資料など

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末吉安恭(麦門冬)関係参考文献

<   <末吉安恭(麦門冬)関係参考文献―1982年以降―> 作成:粟国恭子

1)鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』(二分冊)1982、岩波書店
2)仲程昌徳「末吉麦門冬」『沖縄大百科事典』中巻、1983、沖縄タイムス社
3)新城栄徳『琉文手帖 文人・末吉麦門冬―没60年―』1984、琉文庵
  
*伊波眞一の「解説 末吉麦門冬と新聞」と詳細目録
4)粟国恭子「末吉麦門冬と民俗学」(沖縄民俗学会9月例会発表)1991年9月
5)粟国恭子「末吉安恭(麦門冬)の民俗的視点」『地域と文化第68号』1991年12月ひるぎ  社、1984年以降に見つかった大正年間の新聞から伊波眞一の目録に追加文献を紹介。
6)粟国恭子「末吉安恭(麦門冬)と伊波普猷」『地域と文化第72号1992年8月』ひるぎ社

7)粟国恭子「国粋主義の周辺と沖縄-真境名安興の活動を中心に」『浦添市立図書館紀要№5』1993年、浦添市教育委員会
8)粟国恭子「人物列伝・沖縄言論百年-末吉麦門冬1~36」『沖縄タイムス』1994年8月11日~9月30日
9)粟国恭子「南方熊楠と末吉安恭(麦門冬)の交流-『球陽』をめぐって」『地域と文化第91・92合併号』1995年2月
10)粟国恭子「岡崎との交流-志賀重昂の沖縄関係目録』『浦添市立図書館紀要№6』1995年、浦添市教育委員会
11)粟国恭子「南方熊楠所蔵「球陽」調査報告」『熊楠ワ-クス創刊号』1996年、南方熊楠邸保存顕彰会、7月31日発行
12)粟国恭子「発見された「球陽」-南方熊楠書庫の写本」『沖縄タイムス』8月5日~7日13)粟国恭子「南方熊楠と麦門冬」『文学第8巻第1号』1997年1月、岩波書店
14)粟国恭子「伊波普猷と浦添と沖縄学と」『浦添市立図書館紀要№8』1997年3月、浦添市教育委員会
15)粟国恭子「伊波普猷と末吉麦門冬(安恭)の交流」『浦添市立図書館紀要№8』1997年3月、浦添市教育委員会
16)原田あゆみ「鎌倉芳太郎の前期琉球芸術調査と芸術観の変遷」『沖縄芸術の科学』第11号、1999年、沖縄県立芸術大学附属研究所
17)神坂次郎「俺は夏草麦門冬―末吉安恭―」『歴史街道』3・4・5号 2002年、PHP研究所 *粟国資料提供 連載は『南方熊楠の宇宙―末吉安恭との交流』2005年、四季社で刊行。
18)久貝典子「鎌倉芳太郎の琉球芸術調査(上)」『沖縄文化』第38巻2号通巻96号、2003年、『沖縄文化』編集所
19)池宮正治「南方熊楠宛 末吉安恭書簡について」『南方熊楠の学際的研究プロジェクト報告』2004年、奈良女子大学人間文化研究科
20)小峯和明「南方熊楠と沖縄学」『南方熊楠の学際的研究プロジェクト報告』2004年、奈良女子大学人間文化研究科
21)池宮正治・崎原綾乃「南方熊楠宛 末吉安恭の書簡」『南方熊楠の学際的研究プロジェクト報告』2004、奈良女子大学人間文化研究科  *解題:崎原綾乃
22)小峯和明「熊楠と沖縄―安恭書簡と『球陽』写本をめぐるー」『国文学第50巻8号』2005年8月号、学燈社
23)飯倉照平『南方熊楠』ミネルヴァ日本評伝選、2006、ミネルヴァ書房

1982年以前には、岡本恵徳、大城立裕、新城安善、島袋盛敏などが文章で触れている。詳細は3)新城、1984。

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時代の空

1995年12月10日『沖縄タイムス』掲載「随想ーエッセイストー」欄原稿

      
時代の空

 
「あの雲を消して見せましょう。」
 透明感のある夕日で美しく染め上げられた空を指差しながら、その人たちは伝えました。 秋の日に、ぼんやりしたい気分で訪れた海辺です。釣り人もいれば、寄り添う恋人たちや犬を散歩させる人、それぞれに過ごす夕暮時のことです。
 その人達は、少しの緊張とはにかんだ表情で語りかけました。ある力で体の不調な部分の症状を軽くするために勉強をしていると…。そのために協力をしてはもらえないかと…。一人の若い女性は、その団体に参加することで、原因不明の視力低下と歩行困難を克服したという自らの体験を、眩しい程の明るい表情で話しました。私からの矢継ぎ早の質問に、「0だと思いましたか。宗教ではないのです。参加は無料です。」との説明の言葉が選ばれました。
 私達のまわりでは、<宗教>という言葉から離れようとする流れが渦巻いてます。
 <信じること>に向きあう事を戸惑わせる時代になってしまったのでしょうか。<信じるもの>を持つ存在と、持たない存在の間で交わされた言葉の中に、何よりも先に、疑いと非難の気配を読み取ろうと互いの心が動いています。美しい自然の舞台の上での不自然な心の動き。
 人の価値観や生きることのエネルギ-は、その人だけものです。ちっぽけな私の意識などでは捉えられない、それぞれの深淵を隣人には持っていてほしいと思います。何者にも侵すこと出来ない互いの奥深さを、そしてそれに支えられた宗教を尊いと信じられる時を迎えたいと願わずにいられません。質問は非難の言葉ではないことを伝えられぬまま、沈んだ気持ちで彼らの祈りの姿を眺めました。
 傍らでは、釣り人の投げる擬似餌が、大きな弧を描きながら何度も何度も海面に吸いこまれていきます。受け取った案内のチラシを鞄にしまいこみ、どこへともなく消えていった雲の行方を思い見上げた空。夕闇近い彼方から陸に向かって爆音と共に残こされた飛行機雲は、この空からいつまでも消えることはないのでしょうか。生まれては消えていく表情豊かな自然の雲の合間に、黒々とした残像を抱えこんだ空が、私達の見続ける時代の空なのか。
 私の耳元で呪文のように響いた言葉は、いつの間にか表現を変え、別の意味を携えて私の中でささやかれていました。「あの雲を消してください。」

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異人たちの夏

平成8年度(1996)9月22日『沖縄タイムス』「随想ーエッセイストー」掲載

         異人たちの夏

 異人になるために夏を過ごしてきた。
 城壁を隔てた向こう側には、アラブのざわめきがあるという。青過ぎる空の下、ジュラバをまとった老人が通り過ぎる”赤い街”マラケッシュから便りが届く。ある年には、「明日から数日蘭嶼へ渡る予定だ」と台湾・台東の宿や、ドイツや中国からの便りだったりする。
 リゾ-ト観光地を訪れる旅は、どちらかというと用意された非日常の場所を、短い滞在期間だけ自らの場所として独占する楽しみに他ならない。それは、新しき空間との限りない融合が最大限に許される時間へ移動できる幸福だと思う。
  学生の頃、文化人類学に触れた私や友人達は、静かな思考を楽しむより、ただ肉体を使って歩き出すことを覚えた。空間を手に入れる旅ではなく、訪れた場所との微妙な緊張感を覚えるためにただ歩く。
 それは、内なる場所から離れた時、〈文化の違い〉と呼ばれるものへの不快な違和感を消し去る事や、自らが変化し溶け込む事が、その社会を理解する為の最良の方法だという幻想を消し去る作業に近い。「異なるままに向き合う」中から立ち上がる圧倒的なリアルさを感じること…。ただの偉人として佇む日常の場所へ近づくために歩き続きけている。
  あいまいな異人にしかなれないから、また歩く。
 どこで立ち尽くしているのか予想もつかない友人からの便りを受け取るたびにそう感じ
ている。
 私は、お盆の風景を小さな島々で眺めることが多かった。帰省客であふれた船の中、準備の買物客で賑わう市場に身を置いた。暑さの中、迎える祖先もいない墓地でしばらく過ごす。初めてのお宅で仏壇に手を合わせたりする。
 こうしていても、私の〈盆〉は行われることはない。
 「どちらからですか?」と声をかけられる奇妙な存在である。「沖縄からです」と答える事を幾度となく繰り返した。「ご縁があったら又遇いましょう」と穏やかに笑い、ゆら
ゆらと去っていく年寄り達の後姿。こうした何でもない出来事に、自身と祖先のことを、
故郷のことを強烈に思った。
 この夏は、数年ぶりに故郷でお盆を過ごした。春先に他界へ旅立った家族を迎えるために…。異人にならない場所の風景は、のんびりと穏やかに心に染み入った。

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石川賢治『月光浴』

『月光浴』石川賢治・小学館ー『琉球新報』「晴読雨読」1996年掲載ー

 
遠ざかる台風の風がまだ地上で楽しんでいる天候の悪い日に、飛行機を利用した。重たい色の厚い雲を突き抜けてかなりの上空まできた時、読書していた視線をなにげなく窓の外に移した。そこには空中にただ一つの満月が明るく輝いている光景以外みることが出来なかった。そのシュ―ルな光景を見ながら天気とは何なのかを考え、照れた笑いがこぼれた。
 月と太陽とを比べたら、月を眺めることを嗜好する方に入るようだ。暗やみに切れ目のように現れた猫の爪に似た細すぎる月も、肥大した円形がその光りの重さで今にも崩れてしまいそうな十六夜の月も好きである。月を追いかけてドライブをする夜も多い。ちなみに今年の私の手帳は、新暦はもちろん旧暦と毎日の月の位相(絵)が入ったもの。これまでになく楽しい一年の時間を手にしているような気分である。
  何かに魅せられ続けること、そして何かを視続けることは、善し悪しや価値・益の有無を超えた部分で支えられている。写真家・石川賢治は、魅せられた月とおだやかに対話をする。出版されたばかりの写真集『月光浴』を手にした時のやわらかな気持ちは、6年程時間が流れた今も変わることはない。太陽の光のわずか45万6千分の一の月の光りだけで撮影された写真の世界は、ささやかな批評の言葉さえも騒音にしてしまうのではないかと思う程、静かで美しかった。薄闇の中硬質な月の光に映し出された風景や花は、その色を保っており、眠りにつかない自然の姿である。その後、この写真家の世界が、雑誌やテレビで紹介され、写真集と同じように撮られた石川氏のCM作品も流れていたが、深々とした夜に月の光りと向き合った自然の姿の前では、人工の音楽も言葉も活字も、少しうるさい印象であった。
 「昔の学生は、満月の夜にも本を読んだ」のだとお年寄りが時折話してくれる。こうした経験談は、強ち誇張されたものではないことを、以前豊年祭りで八重山・小浜島を訪れた時に実感した。連日続いた祭りのフィナ―レは、満月の夜一晩中を通して行われた。夜が更けるにつれ祭りは勢いづく。そのエネルギ―を増し疲れを知らない島人と違って、怠け者の私は休憩が必要になった。偶然知合った島在住の絵本作家・秋野さんの家でしばらく休ませていただいた。”海”と”空”の名を持つ幼い二人の兄妹が、月の光の中で日課の行水をしてはしゃぐ姿をぼんやり眺めながら、恋の成就を願う女性が月の光の中で神に祈る光景を歌った八重山民謡・〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の世界を思った。真夜中の2時頃、40分程歩いて、祭りの行われている部落へと戻った。周囲に人家も無く、満月の光だけを頼りに砂糖黍と牧場の広がる島の道を歩く。虫の声と蝙蝠の羽音がBGM。足音が眠りを脅かしたのだろう牛が目を醒ましこちらを見ている。祭りの行われている部落からの太鼓・歌声が風に乗って聞こえてくる。月の光は煌々として美しく自然の色彩も浮かび上がらせる。歩きながら秋野さんからいただいた御夫婦の絵本『はまうり』を広げて見た。鮮やかで深い色調の珊瑚礁の海が広がっている。宮古島の浜下りを題材にした話と絵を、十分過ぎる月の光だけで一気に読み終えてしまったのである。
  私達の周囲には枚挙に遑がない程、様々な人工の光が氾濫している。このような状態中で生活する私達にとって、月の光は天上から零れ落ちる僅かなものでしかない。どの位の人が、生活空間や自然界に融けこむ月の光りについて、色やその強さを語れるだろうか。
 〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の夜が小浜島にはあった。光に溢れた都市の満月夜は、明るい様で暗いのかも知れないと思いつつ、それでも楽しく月を追いかけている。

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浜下(ハマオリ・サニツ)行事

浜下(ハマオリ)-サニツ(宮古・平良市)ー

 
観光立県の沖縄の浜辺がシ-ズン中以外に賑わう日がある。旧暦3月3日の「ハマウリ」の行事の日である。女性たちが一日浜に出て巡ってきた季節を祝い、身体を潮で清める意味で潮干狩をして遊ぶ。ご馳走の詰め込んだ弁当を持参して一日浜で過ごすのである。
 この時期沖縄は”うりずん”の中にある。冬が終わりを告げ、風向きも北から南へと変化し、自然に潤いが増して活動的になりはじめる時期である。そう何でもはじまりは戸惑うものだ。この時期の沖縄は、やわらかい太陽の日差しとさらさらとした風が吹き一年を通してぼんやりした風景を見せてくれる。季節の変わり目に時間の速度調節に少し戸惑っているように時間が流れ、季節の変わり目に無意識に戸惑う人間もまた海という自然の中に身を置きながら何かを調節しているのだと思う。
 「ハマウリ(浜下り)」は各地によってサングヮチサンニチ、サングヮチャ-と呼ばれている。もともとは沖縄各地で女性や子供達が海に出て清めと払いの目的で日がな一日遊ぶという行事。宮古ではサニツと呼ばれる。サニツの日には潮干狩りはもちろん、部落によっては浜辺での角力大会、競馬や村芝居も催された。現在のサニツの日の浜辺ではこうしたカ-ニバル的な風景は無く、潮干狩りやピクニックを楽しむ家族連れを見かける。
 宮古島・池間島の北の沖合にサニツの時期に姿を現わす巨大な珊瑚礁群”八重干瀬・ヤエビシ”がある。豊かな海の資源を育むこの珊瑚礁の東西約7㎞、南北約10㎞の広大な範囲は池間島や宮古島の漁師達の漁場として親しまれてきた。サニツの日には、さらに豊かな海からの恵みを人々がそのサンゴ礁に上陸し、その空間から海の幸を受け取れる、一年のなかで短く許された時間なのだ。
 1980年代ごろから宮古島も観光に力をいれ、ダイビングスポットとして有名になった。春に行われるトライアスロンの島としても有名になった。1990年代中ごろあたりから春の観光シーズンにこの「八重干瀬」に上陸し潮干狩りを楽しんでもらおうと「八重干瀬ツアー」がはじまった。チャーターの船便で八重干瀬に多くの観光客が上陸して楽しんでいる。ここ数年のサニツの行事を伝える新聞やテレビ報道は、この楽しむ観光客の様子を伝えることが多くなった。地元の年中行事に地元の人々ではなく、この時期に島を訪れる観光客の姿が映し出されている。地元でまことしやかに流布している話は、八重干瀬ツアー観光客が充分に採るのために、地元の漁協に海産物を確保してもらってこの時期に八重干瀬に移動置きさせるというものだ。確かに海産物は海の中で過ごすわけで生きてはいるが…。年々観光客が上陸して歩き回り、大量に海の幸を無邪気に採取すれば環境破壊にもつながる。リアルな八重干瀬ではなく、イメージを補強する操作が<観光>や<地域起こし>で行われているのが現実とすれば、現代の<浜下り・サニツ>は何を清め払うのか…。考察が必要だ。

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伊計島と宮城島と下地島

平成5年度(1993)12月共著『島々清しゃ』「伊計島」「宮城島」「下地島」執筆担当、ボ-ダ-インク

宮城島
  
  沖縄にはいろんな島がありますが、普通それぞれの島では展望台とかがあって、そこには一般的に「いい風景」がセッティングされていたりするものです。そうした場所から眺 め る風景はハズレたりしないので、「いいね-」と安心して声などを出しながら結構楽しんだりするのだけれど…。ただ場所の持つ不思議さとか、視覚に入ってくる風景からのイマジネ-ションを立ち上らせるという刺激の点で、推薦された風景には少し物足りなさを感じる性分なのでしょう。本当に何気ない風景が私をふらふら、くらくらさせてくれる場所であることを覚えてしまうと、わくわくしてうれしくて、そこが私の「島の風景」になってしまいます。いろんな島を訪れる時には、島の人々の生活や歴史を抱え込んだ要素の中で島を捉える事を大切にしたいとの思いはいつも核として持ってはいますが、全く別のレベルで「島の風景」に出会えた時にその島は私にとって特別な島になっていきます。
  平安座島・宮城島・伊計島は私にとって、実感としての空間把握というか図学理論の体感をさせてくれた島で、中でも宮城島はある種のシュ-ルさを持つ島としてとても気に入っています。直線道路の中央に引かれた線の上を一生懸命に自転車を走らせる少年に動きからはひたすら真っすぐな直線、カ-ブの多い道路が描きだすあらゆる角度と高低を描きだす曲線、ある場所で作られる不思議な円、家屋敷を囲む塀の四隅に置かれた魔よけの貝が描きだす頑なな四角、平坦な畑の中から空へと垂直に伸びた一列の電信柱からは二次元空間から立ち上がる三次元の空間をと、こんな風に島の中を歩いていると空間の中に様々な表情を持つ形に出会えるのです。
 <あらゆる角度と高低を描きだす曲線>と<強引な記号>
 私がこの島をドライブするようになって約10年。毎回訪れる度にオ-トマチック車でつくづく良かったと思う程宮城島の道路はやたらにカ-ブが多く、さらに坂道と一方通行の要素の組合せで迎えてくれます。先ずは平安座島からの直線の続く埋め立て地を走る道路から伊計島への入り口にはとんでもないヘアピンカ-ブが待ち構えています。かつて離れていた二つの島が石油基地開発計画とともに埋め立てられ陸続きになりました。外見的には陸続きかに見える両島の境界にあるこの急カ-ブが描きだす不自然な道路の線・空間がもたらす緊張感は、かつて平安座島と宮城島とが海に隔てられた風景の中で存在していた事を私の中へ刻印する効果を持っています。タイヤの軋む音を気にしながら運転し、体で感じる求心力に戸惑いながら、島から島へ渡ったんだと確認することを忘れないこと、それは「宮城島に入ります」という挨拶がわりです。同じようにこの島から離れる際にこのカ-ブを通過する時に「またきます」という挨拶がわりでもあるのです。
  この他に登り坂・下り坂のカ-ブが何箇所かありそのカ-ブを曲がる度毎に当然ながら視界に入る風景が急に変化します。今まで緑の雑木林かと思うとサトウキビ畑が広がったり、かと思うと入江の漁港と集落に変わったり、迫り出す崖下の薄暗い道だったり、突然に視界いっぱいに海が飛び込んできたりと短時間でいろんな宮城島の風景ショットを楽しむことができます。更に一方通行である区間もこうした視界に入る風景の変化をもたらす一つの装置です。ドライバ-は交通標識という記号に従って道を走らなければなりません。侵入禁止・一方通行のマ-クがあればその指示通り直進もすれば折れたりもするのです。その度に視界に入ってくる風景は強引に変化してしまいます。強引さもたまにはいいものです。例えば宮城島から平安座島へ向かって走る道路のある場所でしか、島肌にいくつもいくつも作られた石油タンクが並び近未来的な様相の基地の設備がある平安座島の表情は見ることはできません。少し道路を進むと急なカ-ブがありその後で見ることの出来るのは一面の海。まさに工業の開発問題と豊かな自然の対比を瞬間的に見せてくれたりするのです。
 車の走れる道路は一本の主要道路ということもあり、この島を訪れる人のほとんどが同じ時間の長さ同じ風景を見て、同じ順序で風景の変化を見ていることになります。交通網の充実をはかった道路整備によって島の人々の生活は便利になり、島外の人達も気軽にドライブが楽しめます。昔も今も島を囲む海も地形も変わらずそこにあるのだけれど、島の風景を眺める人々の視線にはある意味で自由な選択性がなくなり、決められたコ-スの中で与えられる風景にとても人工的なシュ-ルさを見てしまうのです。
<不思議な円>
 今ではこの島の西側の台地状の部分のほとんどにサトウキビ畑が広がっています。その中に立って周囲を見渡すと、自分自身を軸にしてパノラマどころか360度同じ風景が広がる場所があります。視線を上の方に移すと前方、左右、後方どちらの方向にも空が広がり、視線を地上に戻せばやはりサトウキビ畑の風景が、360度取り囲んでいる状態を経験することができます。自分のまわりに「空なら空」、「畑なら畑」のただそれだけの世界が広がっていると、東西南北なんていう決定された方角はどうでもよくなってくるから実に楽しいのです。この地点にいると東の空から差し昇る朝日の光も、西の空に沈む夕日の光も、満天の星空の光も、青白い月の光も、夏の真っ白な光も、風さえもこの地点ならば「どこから」という問いかけも意味をなさないというか、 答え等ありそうもないとそう思わせる場所なのです。こうした光や風はこの場所にどこからでもただふりそそぎ、ふいてくるのだろうと思えてしまうのです。この場所に辿りつくまで通ってきた気持ちのいい直線の海中道路や緊張するヘアピンカ-ブや色々な風景を見せてくれる坂道のカ-ブは行き先という方向がとても重要でした。そうした空間と方角の密接な繋がりを断ち切って一つの方向に意味があることをゼロにしてくれる不思議な場所なのです。ある日いつものようにこの場所に立っていると、たくさんの蜻蛉があらゆる方向にグルグルと飛びかっていました。そのランダムな動きがとても似合う場所で自分が点になり円が描けるこうした状態がとても心地好いのです。空間がいろんな図形を実感として与えてくれる宮城島の中でも最もお気にいりの場所で、この場所に出会うために何度も宮城島に通っているに違いないのです。


伊計島
 
 毎年春分の日を目処に、平安座・宮城・伊計島に弁当を持参してやってくる事がここ数年来の個人的な春の恒例の行事となっている。沖縄には女性達が旧暦3月3日に浜に出て一日過ごす「浜下り・ハマオリ」という年中行事があるけれど、私の場合春分の日の時期に伊計島で過ごす事を「浜下り」と勝手に決めて実行している。旧暦3月3日の「浜下り」は女性たちが一日浜に出て巡ってきた季節を祝い、身体を潮で清める意味で潮干狩をして遊ぶ。けれど私の「浜下り」は何もしないでただボ-っと海を眺めてお腹が空くと持ってきた弁当を食べ、またボ-っと海を眺めるそれだけの内容である。
 場所は多くは伊計ビ-チ。南の島の小さな入江にあるこの伊計ビ-チは大きさといい、こじんまりとした風景といい、しっとりとした海水の色といい落ち着いた感じのビ-チである。白い光がガンガン照りつける夏本番の時期をずらして訪れると、この頃のこの島の空気の色一年で一番ぼんやりしている。晴れているのだけれど少し霞のかかったようにぼんやりとした表情の場に、私の頭が1年で一番ぼんやりしている時期と重なって実に波長が合うので、思う存分ボ-っと出来るのである。シ-ズンオフのビ-チではベンチや売店や休憩小屋の整備、ビ-チ周辺の囲いの金網の壊れた場所の修理するおじさん達の姿も見えたりするのだけれど、あくせく働く様子でも無く実に風景と季節に溶け込んでいる。この時期の伊計島の周辺では”時間が止まっている”、いやこの表現ではない、そう”時間が流れるのを怠けている”そんな感じ。この時期沖縄は”うりずん”の中にある。冬が終わりを告げ、風向きも北から南へと変化し、自然に潤いが増して活動的になりはじめる時期である。そう何でもはじまりは戸惑うものだ。この時期の島は季節の変わり目に時間の速度調節に少し戸惑っているように時間が流れ、季節の変わり目に無意識に戸惑う人間もまた海という自然の中に身を置きながら何かを調節しているのだと思う。
 視線を沖合に向けると平安座島の石油基地へ石油を供給するタンカ-が停泊している。
 こうした風景は1年を通して変わることはないのだけれど、うりずんの季節の太陽が群青の海にぼんやりと柔らかく光りをそそぎ、海面がきらきらと光を反射してすべてを銀色の世界で包み込むと変わらずそこにあるものでも幻のように見えてくる。”うりずん”の中伊計島が至極の伊計島だと私は思っている。
 宮城島が空間ミラクルワ-ルド状態の島ならば伊計島は摩訶不思議コピ-の島ではないだろうか。宮城島と伊計島を結ぶのは真っ赤な伊計大橋。島と島を結ぶ橋の色はどうして真っ赤が多いのか常々疑問に思っている。とにもかくにも沖縄の深いエメラルドグリ-ンの海と深い緑の島肌にこの赤い橋はとても似合うには違いない。こうした橋の上には孤独に釣り糸をたれる釣り人ワイワイガヤガヤと自転車を連ねて釣りを楽しんでいる青少年のグル-プや”橋の上から海を眺める”という定番デ-トを実践中のカップルの姿もちらりほらり。ここまでは沖縄各地に架けられた橋の光景となんら変わらない。がしかしこの伊計大橋は少し違っている。橋の両脇に「橋が泣いている交通マナ-」と書かれた交通安全標識が立っている。橋の上に駐車するドライバ-向けの標識なのだけれど、「この橋泣くんだ~」と思うと「いつ?どんな風に泣くのだろう。涙の色はやはり真っ赤なのかな?」と他愛もない事を考えてしまう。
 コピ-というと、勝連半島と平安座島を結ぶ海中道路へ入ってくるには「時は金なり屋慶名青年会」のコピ-と「ビックタイムリゾ-ト伊計島レストランイチハナリ」と書かれた大看板を必ず目にするはずだ。看板の大きな矢印に導びかれ勝連半島から海中道路を通り平安座・宮城・伊計の一つの”脈 ”が流れている。”脈”の流れがどこへ向かっているのか、伊計島の先にある場はここしかない。ビックタイムのコピ-のリゾ-トのホテルである。夏のシ-ズン中そのホテルのレストランで耳にした会話。リゾ-ト客が夕食のごぼうス-プの作り方を丁寧に説明しているウエ-タ-に「来年もまた来るから、来年は蜂蜜をたくさん入れた苦瓜のドリンクを作っておいてね」と愛想良く話しかける。「かしこまりました」と丁寧に答えるウエイタ-。両者ともお互いに礼儀を外してはいない。けれど地元の私などから言わせると苦瓜ジュ-スぐらいすぐ出来そうなものなのに…と小首を傾げてしまった。「翌日の食事ではなく、来年のメニュ-の会話をする客」と「その注文を丁寧にうけるウエイタ-」。本当に来年その客が来て苦瓜ジュ-スを本当に注文するかどうかはここでは問題でなはい。来年という時間が客と従業員との会話で成立することがまさに「ビックタイムリゾ-ト」のコピ-の世界だと思った。看板に書かれた大きな矢印から発した”脈”の実態はどうもサ-ビスという呼ばれるものだったらしい。


下地島

 
宮古島は一番高い場所で109mと本当に平たい島で海にへばりついているようにも、ゆらゆらと海に漂いながら浮かんでいるようにも見える。宮古島の上空に近付いた飛行機の窓から覗くと海面に三角形のシ-ルを貼りつけた様でもあり…、隣の座席に小さな子供が乗り合わせていたら「この島はね、指でつまむと簡単にめくれちゃうんだよ」と真顔で罪深い大嘘をつきたくなるような、そんな風な島である。宮古島及びその周辺の離島も同じようにさほど高くはない。高さを感じないこの島で暮らす人々のイマジネ-ションは、高さを求めて膨らみはしなかった。例えば”この世”とは違った場所を、より高い所へと求める志向は生まれなかったのである。イマジネ-ションの流れはどこへ流れたのか。宮古島の神秘は、沖縄の島々と同じように海の彼方はもちろんだがその他に穴の中、つまり地底の方へ下へ下へと降りていくものであった。「穴への志向」とでもいう他界観が確かに存在する。穴から誕生するモチ-フの来訪神もあるくらいなのだから。
 穴。下地島には直径50m以上も巨大な穴があいている。しかも二つも…。”通り池”と呼ばれているこの巨大な穴を初めて見たのは小学校の頃。断崖の端に立って覗き見るその場所で、通り池というネ-ミングに「”池”なんかじゃない。これは”穴”だ。」と思った。案内の人が最初にしてくれた説明は二つの池?の大きさから始まり、深さ40㍍もある海の色とは微妙に違った深い青色半分は真水で半分は海水だということだった。そしてこの二つの池?は眼に見えない深い場所でつながっていて、更に海にもちゃんとつながっているということだった。多分”自然の造形”という観点から子供に理解を求めたのだろう。そして石を投げて見るとどの位深いのか解るとアドバイスされ、その通りに石を放り込んだ。群青よりも深い色合の水底へ白い石がゆらゆらと揺れながらゆっくりと落ちていくのが、かなり長いこと見えた。私は石を投げた事をものすごく後悔した。いつまでも白い石の落ちていくのが見える想像以上の透明度に惹かれるというより、その深さを気味悪いと感じた。その気味悪さは、通り池にまつわる「継子いじめ」の伝説を聞いた瞬間に恐怖に近いものとなった。多分大人はこうした感覚を神秘と呼ぶのだろう…。「こわい」気持ちいっぱいの私がその後案内されたが、通り池の近くに”ナベ”と呼ばれる摺り鉢状の穴であった。またしても穴…。ここはイラブ鰻がたくさんとれる場所だと説明され、蛇に近い生きものが穴いっぱいに群れている光景を想像するだけで「こわい・こわい」気持ちは固まってしまって、「鍋の蓋はどこにあるのかね-ハハハ」と笑っている大人の冗句には全然反応することが出来なかった。その時から現在に至るまで、巨大な穴の水の底にゆらゆらと白い石が落ちていく夢を何度見たことだろう。
 今では下地島周辺の海や通り池は、沖縄でも知る人ぞ知るダイビングポイントとか…。美しい珊瑚礁や通り池の構造等楽しめるのだそうだ。とにもかくにも底へ底へと降りていく事が下地島の印象なのである。
 昔から牛馬の放牧地として利用され、生活を営む人の少なかったこの島に1979年に国内で唯一のパイロット訓練飛行場が出来、パイロット達の家族の住宅宿舎が建設され、若干ではあるが人が住むようになった。飛行場が出来た当時は、不便な島の生活かと思えばさにあらず、下地-東京、下地-大阪、下地-福岡間の飛行訓練時に家族達も便乗して、そちらの方で生活用品等を買物をしてくるらしいという噂がまことしやかに流れていたけれど…。多分に事実ではないこの噂は、大小の島々が集まった沖縄という島社会の中でも住む人の少ない下地島に、最先端の技術の装備された空港が出来、沖縄出身以外の人々が住むようになった事へのある種の戸惑いだったのではないだろうか。今では地元の航空会社が沖縄本島間の路線を確保し、人々を運ぶ窓口となったこの島は、底へという降りるだけではなく、空という登るという高さの要素が新しく加わった。観念は下降し、現実の身体は上空で移動する、これが私の下地島像である。

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新井白石

平成8年度(1996) 4月 「白石と地図と南島と」『がじゅまる通信7号』風樹社掲載
     
             「地図と新井白石と南島と」

 ”書斎に座して世界に遊ぶ”
  南蛮地図の傑作とされる『坤輿万国全図』(1602年刊行、1608年重修、宮城県立図書館、京都大学図書館、内閣文庫等が所蔵)の作者であるイエズス会士マテオ・リッチが、その序文に述べた言葉である。
  『坤輿万国全図』は、横62㌢、縦165㌢の図画内に描かれた図を横に6枚つなげた大型 図幅である。図には、球形の地球が中央に位置し、その中心部に大明帝国とその周辺を取り巻くアジアの国々が描かれている。日本もほぼ中央に描かれているため、日本人にとっては世界を理解しやすいという特徴をもっていた。この地図を眺めながら、一人の人物が思考を繰り返していた。
  近世、特に<鎖国>下の江戸期の日本人にとって、世界とアジア、世界と日本、アジアの中心と周辺への認識は、<地図>なくしては語れない。同時に本州の北に位置する蝦夷地と南に位置する琉球は、大いなる関心を喚起せずにはおれない、重要な空間であった。
  江戸中期の儒学者(朱子学派)であり、政治家でもある新井白石は、地誌編纂者としてもすぐれた先駆者でもあった。白石と南島との関わりも深い。
  白石が世界への認識を試みた『西洋紀聞』、『采覧異言』は、当時の世界の事情を日本へ紹介した最も早い時期の著述として知られている。 また北と南の空間への関心は、『 蝦夷志』、『南島志』、『琉球国事略』等、その地に関する最初の地誌研究書へと結晶化
されていった。
 それらをまとめるあげる白石にとって<地図>は、欠かせない情報源であり、思考が辿り着く場所でもあった。そして多くの文献史料や最新の<地図>ともに、欠くことが出来ない存在が、江戸へ来訪する異人達であった。紙面に描かれた地図の世界に、異文化の話で生き生きと彩りを添える彼等は、書斎に座して未知の世界へ<思考の航海>を続ける白石にとって、まさに水旅先案内人であったに違いない。
 例えば『西洋紀聞』を著すにあたって…。1708(宝永5)年、鹿児島(大隅国)に上陸したロ―マの使節ヨハン・バッティスタ・シドッチが、将軍の特令で、長崎を経て江戸に護送されてきた。白石は懐にコンパスを入れ、オランダの地図製作者ヤン・ブラウが作図した東西両半球図(『世界新地図』1648年刊行・現東京国立博物館所蔵)を持参して、その4回にわたる取り調べにあたった。
 「ロ-マはどこか」と尋ねる白石。シドッチは、両者の前にひろげられた206×298㌢の大図上に、縮尺に合わせた距離と角度を測って、正確に位置を示した。それからの3日間、西洋の文化からキリスト教の教理にいたるまで様々な質問が繰り返された。この聞き取りの成果だろうか。白石によって添付されたと思われる付箋が、この地図には多く残っている。
 花の季節には、徳川将軍表敬訪問のための長崎オランダ商館長一行が、江戸を訪れた。「カピタンの参府」と呼ばれた異人達は、当時の江戸の人々に、春の到来を告げる使者でもあった。白石は、その一行とも交流している。シドッチとの会談で得た知識を訂正する絶好の機会でもあった。
 白石とオランダ人との会談は、1712(正徳2)年に2回。2年後の1714年と1716(享保元)年にそれぞれ1回の計4回。当時、白石は将軍(6代家宣・7代家継)の政治顧問的な立場であった。そのため、白石はこの会談を通して、長崎貿易の改革に関する情報や、朝鮮・琉球二国をめぐり緊張関係の生じていた清帝国の最新ニュ-スを必要としていた。こうした政治的背景からのさまざまな役割を担っての会談であった。
 このオランダ人との会談や別の機会で朝鮮使節と対談する際に、白石が持参した地図は、マテオ・リッチ『坤輿万国全図』。この地図を利用して、地名について読み方をオランダ通詞、唐通詞に尋ねている。当時では機会の少ない、異人達からの直接の聞き取りで『西洋紀聞』は誕生した。当時の日本にとって、体系的世界地理を基礎づけるに価値あるものとなった。
 また、この時期の白石は、西洋と同様に強い関心を抱いていた琉球についても思考を重ねる日々を過ごしていたようだ。
 江戸を訪れた琉球の異人達にも出会い、<南島の地図>を道具にその認識を膨らませていもいる。
 1719年(享保4)に新井白石によって脱稿された『南島志』は、1710(宝永7)と1714(正徳4)年に江戸を訪れた琉球使節の一行と会見することで、内容の濃いものになっている。特に1714年の使節の一人であった、当時の琉球の碩学、儒者・詩人の程順則(名護親方)や組踊の祖といわれる玉城朝薫との面談は、白石にとって意義深いものであった。政治・経済・社会・地理物産・文化・言語・習俗・宗教関係・生活様式等の内容が質問されている。(『白石先生琉人問対』)
 『南島志』には、こうした聞き取りの情報の他に、特に引用の多い『使琉球録』、『琉球神道記』、他に『隋書』、『山海経』、『日本書紀』、『万国全図』、『延喜式』、『大明会典』、『大明一統志』、『南浦文集』等、多くの和漢の文献史料が登場する。豊かな文献知識に支えられ、白石特有の合理的・実証的な見解が「地理・世系・官職・宮室・冠服・礼刑・文芸・風俗・食貨・物産」の文化軸を中心に展開された。
 内容的には、文献や聞き取りからの記事で大部分が占められているが、冒頭には「琉球国全図」「琉球各島図」の地図が挿入されている事も注目できる。「琉球国全図」は、薩摩藩山川・坊津から与那国・波照間島までの全域を描き、航路を実線で記している。「琉球各島図」は、大島、沖縄島、宮古島、八重山島を描き、それぞれに村名、間切が記入されている詳細なものである。南島の地図の情報充実にかなりの質問がされたのだろう。
 このように、白石によって巧みに織り成された『南島志』の世界は、近世時における琉球書の白眉とされている。
 また名声の高い詩人でもある白石の詩集『白石余稿』は、後年南島の地図に示された海路にのり、琉球を媒介に中国へも渡っている。そして「オキナワ」の音に、「沖縄」の文字をあてた白石の発想は、現在の地図の上でも「沖縄県」として確認でき、より広く深く使用されるようになっている。
 白石は、南島をどのように認識していたのだろう。
 『南島志』、『琉球国事略』での新井白石の「琉球観」の特徴は、①源為朝を琉球王朝の始祖として認識、②文献や聞き取りからの琉球の文化から日本との共通文化を発見しようとする恣意がみられる点にある。こうした白石の意識は、琉球を古代日本の一部とする確信的な認識を生み出すことになり、その後の南島認識に影響を与えていく。
 『増補・華夷通商考』(西川如見・1708)、『紅毛談』(後藤梨春・1765)、『琉球雑話』(華坊素善・1788)、『紅毛雑話』(森島中良・1787)、『琉球談』(森島中良・1790)、それらを参考にして書かれた『椿説弓張月』(滝沢馬琴)等、白石以後に出された琉球関係の読み物の中には、「源為朝の末裔である琉球王」としての基本的な発想が言説として受け継がれていく。この言説の背景に、白石の「南島志」の影響を指摘する学者も多い。白石が解き放った「日本の中の琉球」の発想は、近世琉球学が集積されていく過程でも力強い流れで生きぬくことになる。そして現在「日本の中の沖縄」として、確かなの位置付けを与えられた南島が存在している。
  国が堅持されていた江戸中期にあって、白石は、江戸幕府の朝鮮、アイヌ、オランダ及び琉球への対応政策の担当者でもあった。そのため白石は、<鎖国>という現実的視線を持ちながら、多くの課題をかかえつつ、様々な国の異人たちと交流しなければならなかった。その立場は、「海外の文化」の濾過装置的な役割をあわせもつ、オピニオンリ-ダ-だったといえるだろう。
 書斎に座して日本と琉球の<地図>を眺めながら、思考を組み立てていく白石は、日本の南方に広がる空間に”日琉同祖”の意識の流れをかぶせ描いてみせた。それ、”新井白石”というフィルタ―を通った「南島」であった。

参考文献
*横山 學『琉球国使節渡来の研究』1987、吉川弘文館
*宮崎道生『新井白石断層』1987、近藤出版
     『新井白石』1988、吉川弘文堂
*田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995、朝日出版社
*『月刊しにか 特集・地図に描かれたアジア』1995、2月号、大修館書店

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1997(平成9)年7月~12月後半月『沖縄タイムス』紙面批評

< 1997(平成9)年7月~12月後半月『沖縄タイムス』紙面批評>

(1) 沖縄戦と教科書問題―比較する視点を掘り下げてー
        1997年7月前半紙面批評
    
  1997年8月16日(土曜日)掲載

 ある夜自宅のFAXが、静かに受信をし始めた。毎月後半期の紙面批評担当依頼の話である。「批評」の言葉に戸惑った。色々な情報が詰め込まれた新聞と、未熟な私との付き合いは、多くの情報を得て「なるほど」と感心するやら、頷くやら、紙面に向かって甘口辛口の質問の独り言を繰り返すという、ささやかな日常的スケジュ―ルとして組み込まれたものだ。こうした独り言の域を越えられるか不安ではあるが、半年間愚見を述べてみたい。
 今回は、「人物」についての報道記事を、テ―マに取り上げたい。
 先ず喜屋武真栄氏死去を伝えた記事。〈「小指の痛み」訴え続け〉た人物の生涯が、そのコピ―を通して強烈に浮かびあがった。つまり活字と言葉の響きの力が印象深く記憶に残った記事である。人物の生涯はもとより、その人が取り組んだ「小指の痛み」の方向へ読者を導いてゆく。一連の報道に触れる度に、自らの指先を眺めながら、現代の沖縄社会を思った。
 1980年をピ―クに、年々売り上げ部数が減少している『防衛庁白書』。沖縄では、97年版白書について社説及び識者等のコメントを交えて、連日詳しく報道された。月下旬の1972年〈5・15メモ」10覚書公表〉の全文を紹介した記事、解説記事も同様に詳細でよかった。書評紙面で取り上げられた本よりも、興味がでる刊行物や内容の記事であった。復帰25周年の沖縄で、故喜屋武氏と同様に一人の人物の時間を思った。高校用日本史教科書の検定意見への不服から32年間訴訟を継続した家永三郎氏に関しての報道である。沖縄戦に関しての記述を含む内容だけに、上記の記事と同様に詳細に語られた。沖縄内外への歴史認識を触発する意味でも有意義な企画であったかと思う。今後一人の人物を通して議論される〈沖縄戦〉の時間ではなくなる。そういう意味でも、現在議論されている〈日本史教科書〉問題と比較する視点をもっと深く掘り下げてほしかった。
 文化紙面では、目取真俊氏の「水滴」が、第117回芥川賞を受賞した関連記事が展開された。昨年の又吉栄喜氏の受賞時のいささかお祭りム―ドとは異なり、比較的落ち着いた報道で好感が持てた。そういえば、昨年は、何かと〈豚〉をキ―ワ―ドに文学以外でも特集記事が多く、その活字が頻繁に紙面踊っていたと記憶している。どうやら今年のキ―ワ―ドは、独断的?にいえば〈水〉の気配である。24日からはじまった〈生かせ玉水(たまみじ)〉の連載は、記者の個性が出ているせいか、暑い夏日に開く新聞紙面の特集としては楽しい。
 最後に、毎週火曜日におもろ、沖縄学の父・伊波普猷の没50年記念企画が掲載されている。こうした企画の膨らみをもたせるように、「おもろ研究会」が本年度サントリ―地域文化賞を受賞した記事も丁寧な扱いがなされていて好感が持てた。

2) 気になるアジアの風―情報量にアンバランス感―
     1997年8月後半紙面批評
  1997年9月17日(水曜日)掲載 

 8月後半の紙面は、様々に吹く強い「風」の真っ只中にある沖縄社会の表情を報道した内容が大半であった。自然(台風、水)、スポ―ツ(甲子園、世界古武道大会)、経済(全県自由貿易圏構想)、文化(エイサ―、旧盆)、政治(基地・平和問題)、福祉など、それぞれ「風」の表情が興味深い。中には今後嵐になりそうな予感の風もあるが…。
 気になる風がある。アジアからの風は通りがいいのか悪いのか見えてこない。つまりアジア諸国関係の報道について、時期によって情報量のアンバランスが印象として残る。八月後半は少なかった。アジアに向ける視点には、凹凸の少ないスタンスを持つ配慮も必要ではないのか。連続性をもった視点から、風の表情も読み取れるのではないだろうか。
 感動した時、身近な老人達が情感を込めて「えらいね―。」と洩らす口癖を、幼い頃から何度となく耳にした。この短い言葉に、賛美だけではなく、喜びや慈しみ、時には微妙な悲しみや切なさなどを含めた表現であることが、年齢を重ねるにつれ解ってきた。
 今月は紙面を開く度に、そのシンプルな言葉を繰り返す日が続いた。大きく扱われた浦添商業球児達の活躍する旋風記事を読む度に、そして台風時にも毎朝変わらずに配達された新聞を手にした時、その紙面で数日掲載された「遅配、欠配のお詫び」の文章を眼にした時にも、また強い風の吹く中で取材されたお盆行事や台風被害に関してのインパクトの強い記事に触れた時、その他…、思わず洩らしていたのである。紙面というよりは、「風」の中で存在する新聞に、感動した部分が大きいのかもしれないが…。
 こうした感覚的な反応は、掲載される写真の効果を抜きに生まれない。年々サイズも大きくなり、カラ―とモノクロ写真が効果的に使われている。
 旧盆時期になると、市場風景、アンガマが絵になる八重山のお盆風景、仏壇前に手をあわせる一家など、例年通り見慣れた風景写真が掲載される。こうした繰り返される写真情報も、年中行事の訪れを読者に確認させてくれる意味では、ある役割効果を持ち始めている。それから朝刊1面の天気のコ―ナ―は、色どりも多く見易く楽しめることを台風時に気付いた。
 今年は旧盆をテ―マに、興味深い関連記事か多かった。文化面外の紙面で、沖縄文化を強く感じさせてもらった。①旧盆前一人暮らしの老人宅を清掃する若者達を取り上げた記事(15日)、②ヒヌカン(火の神)もある沖縄市役所内で続けられている無縁仏への盆行事(16日)、③お中元詐欺の事件(16日)、④大宜味村の一日だけの旧盆(22日)、連載
を含めた⑤エイサ―大会、などの記事である。特に②に関しては、宜野湾市へ無縁仏供養を要請する読者からの反応も後日(26日)紹介され、沖縄民俗文化の一面が興味深かった。 その他に、吉田朝啓氏の水を科学することを示唆した「視座・水の館」(21日)、連載「共生社会―心痛んでも」(21、28日)、「筋ジズの若者が空を飛ぶ」(24日)、「ハンセン病と闘った半生『花に逢わん』の著者」(30日)、〈アニメ映画「もののけ姫」から沖縄をひもとく〉(21日)などの記事は、今後も同様なテ―マ企画で続けていただきたい記事であった。

3) 「敬老」への主張と提言―歯がゆい、なかなか出ない対応記事―
        1997年9月後半紙面批評
 1997年10月16日(木曜日)掲載
     
 しんしんと肺碧きまで海の旅
 実家近くの公園に建つ篠原鳳作のその歌碑を、子供の頃実感も出来ないままによく眺めていた。大人になり、海を渡って南の島々を歩くことが増えた。どの島の海にあってもこの句が立ち上がる。寄せ遭わせた言葉の響きは深い。「篠原鳳作忌・全国俳句大会」関連記事(20、23日)でその事を思い出した。又、歌詠みは難しくてできないが、紙面「俳壇」の作品にゆっくりと眼を通しながら日曜の朝を迎えている。
 曜日毎に、そして開く場所毎に新聞のある風景は変化する。「新聞のある風景コンテスト入賞作品」(28日)で最優秀賞の「南の島でも…」(安田氏)が紹介された。赤瓦屋根の縁側で新聞を開く老人…ゆったりした日常に新聞が溶け込んでゆく。お年寄りの多い島々には、こうした読者が沢山いるのだろう。
 9月後半の紙面は、敬老の日関連の記事が数日続いた。60歳以上の成人を対象に実施された総務庁意識調査結果が一面トップ記事で取り上げられた(15日)。「78㌫が生きがいを感じており」、「延命医療八割がノ―」「45㌫が恋愛を肯定」の内容が報道された。
 その内容を反映?して、仲睦まじい老夫婦や生き生きと畑仕事を楽しむ高齢者や亀釣り名人(19日)等の素朴で明るい話題記事が大半である。こうした話題は、毎年の様に楽しく読み終えた。そして敬老の日のオピニオンの紙面では、60歳以上の読者からの主張を全面に掲載し、社説は〈「敬老」政策は変わったか〉の内容で展開され、この内容も興味深かった。しかし、気になる点もある。社説には「21日までの7日間は老人保健福祉週間である。」「県や市町村の「敬老」政策がどう変わったか、点検することは重要である。市町村によって担当の差があるはずである。」との提言が述べられている。後日の紙面でこの提言と対応した取材記事を楽しみに待ったが、なかなか出ない。識りたい欲求だけが刺激され消化されないはがゆさが残った。
 時間を重ねた一人一人の言葉にはいつも敬服するが、今月は特に〈芸能〉面での狂言師・野村万蔵師から「21世紀の組踊をつくる気概を―」との若手へ提言記事(18日)や、「伝える」で紹介された豆腐作り五十年の玉城幸子氏の記事(16日)は心に響いた。後日(27日)に扱われたシマド―フ業界の現状記事も膨らみをもたせる内容で、今月の「伝える」(月一回火曜日)で取り上げた意図が十分に伝わってきた。
 先に紹介した「新聞のある風景写真」の記事と同様に〈新聞〉をキ―ワ―ドにした記事は今月は多かった。広島で開催された全国地方新聞社ブックフェア(15日)、日本新聞教会の新聞週間初のテレビCM中止(19日)、横浜市での新聞博物館施工式(26日)等である。いずれにしても紙面での扱いが小さいのは何故なのだろうか。沖縄にとっては地味な話題かもしれないが、お知らせ的な記事ではなくて、新聞現場からの分析等もあれば新聞メディアの理解へ近付くことが出来たのにと残念である。
 連載では、写真・文ともに個性的で力強い石川真生氏の「地元に言わせてよ・海上ヘリポ―ト案」と「論評知事代行応諾から一年」(終了?)が面白かった。

4)敬老問題多様に展開―オピニオンの構成も面白いー
      1997年10月後半紙面批評
  1997年11月17日(月曜日)掲載

 9月紙面批評「県や市町村・敬老・政策の点検の重要性」を指摘した社説提言に、対応した記事がなかなかでない点を指摘した。
 その原稿が掲載された10月前半から、関連記事が紙面に登場した。読み応えのある関連記事の連載に、自身の批評が早急過ぎたことを反省した。じっくり気長に取り組む取材情報との向き合い方、読者側としての間の取り方を考えさせられた。
 老人問題の連載記事は、老人医療の問題「点検・老人ディケア―長寿沖縄の中で」(稲福、親泊、宮城記者)20回の連載、老人施設を扱った「共生社会を□く二部・老いを生きる場所」(山城記者、16・23・30日)、個性ある人物紹介の「カンジュ―でぇびる」(21・28日)等、それぞれ担当記者の切り口で紙面を充実させた。特に24日の見開き前面での特集は、取材の総括的な役割で、老人医療の問題が読み手には解りやすかった。記者の良質の仕事に触れた感がある。
 特に〈老いを生きる場所〉の記事は、沖縄の各地(佐敷、与那城、恩納、渡名喜、名護、沖縄市、渡名喜)で取材された今年のカジマヤ―(生年祝い)の記事(地方面)の多くが、施設でなされたことを、改めて気付かせてくれた。
 10後半の紙面は、副知事再任問題(17日~)、全県フリ―ゾ―ン問題(連日)、ウォ―ル街を震撼させたNY株暴落・反騰(28・29日)など、沖縄や世界の大事な問題もかなり報道された。けれども、近頃の私には、沖縄の日常の話題の方が気になる。
 秋である。秋には古くからのお祭り(竹富島・種取祭、17日)や、生涯学習フェスティバル(16日)、全島獅子舞フェスタ(23日)、沖縄の産業まつり、学会(日本国際政治学会秋季研究会、19日)やシンポジウム、各種スポ―ツ大会などの新しいイベント多彩も催され、記事も興味深く読んだ。その中では月光と群星をあおいで走る伊平屋ム―ンライトマラソンの記事(24日)が、その微妙な色合のカラ―写真とともに印象に残った。
 「一行が伝える鼓動を読む感動」「思いやり人にも記事にも取材にも」「情報の迷路を明かす確かな目」「新聞が高める社会の透明度」などの新聞週間標語が、連日記される中、「地元紙の報道は〈偏向〉か」をテ―マに対論記事が掲載された(23日)。言論の多様性が無いとする田久保忠衛氏と、反対意見の門奈直樹氏の意見の記事は、新聞週間を意識した掲載であったかと思う。しかし、従来通りのありきたりな取り上げ方で、刺激的な印象を受けなかった。
 担当記者の切り口?では、〈オピニオン〉紙面の構成が、以前と異なっておもしろい。
当初ぼんやりしていたその印象は、毎日毎日新聞を開く毎に、確信となっている。「わたしの主張・あなたの意見」では、投稿者の年代・テ―マの幅も広がっている。テ―マによっては、紙面幅が拡張され、固定枠の紙面より読者の反響の強弱が感じられる。
 また、21日から連載の始まった徳武敏夫氏「家永教科書裁判の32年・真実の教育をめざして」を、文化面でなく〈オピニオン〉の紙面で扱うことで、教科書問題の課題に加えて「言論の自由」の核なる問いを提言する効果も持ち得ている。こうした紙面づくりも、またさり気ない良質の仕事であろう。

5) 沖縄の未来を語る言葉―理念と現実に大きな相違を痛感―
     1997年11月後半紙面批評   
1997年12月18日(木曜日)掲載

 サッカ―日本代表チ―ムのW杯フランス大会出場をめぐって人々は熱狂し(17日)、3万人の人々が沖縄を訪れたスポレクおきなわ97の記事(15日~)や、宇宙への旅立ちが報道された11月後半の紙面を読み続けているうちに、思い出した小説がある。
 ポ―ランドの小説家、S・レムの『ソラリスの陽のもとに』は、タルコフスキ―監督によって映画化された『惑星ソラリス』で有名になった。惑星全体が生命体として思考を続け、謎の部分が大きいその惑星と、人類が向きあう時、様々な言葉が語られる。「我々は人間以外の誰をも求めていない。我々には地球以外の別の世界など必要ない。我々に必要なのは自分をうつす鏡だけだ。」 価値観という大切にしていたものさしで構築された世界。ある時、少しの隙間からその枠組みが壊れ、別のものさしがあらわれる。
人は、そして社会は、新しいものさしと、自らの言葉の力で枠組みを作り直し続けなければ、生き続けられない。
 言葉は、魔法の力を持っている。新聞も言葉で満ち溢れる世界である。人間には、それぞれの知性があり、それぞれに語られる言葉は、それぞれの力をもっている。沖縄の未来の枠組みについて多くの言葉が語られている。そうした記事を目にするたびに「何を得、何を失ったのか」の問いと、「何を得たくて、何を失うつもりなのか」の問いの間、そして沖縄を語る理念と現実には限りない相違があることを痛感している。
 沖縄経済学会シンポジウム「21世紀 沖縄のグランドデザインを問う」(15、16日)、沖縄国際シンポジウム―国際貢献の在り方―」(27日)記事では歴史、国際関係論、情報科学、人類学などの専門領域からの発言がなされた。
 政治家についての報道では、「原点を問う―基地と知事発言の軌跡の連載」(連日)。
そして復帰25周年記念式典関係の記事「ちらつく「取引」の姿勢市民投票一段と重みを増す」の見出し(22日)、同紙面に江上琉球大教授の論評を掲載することで、新聞社側の主張を明確にした。「沖縄のメディアは民衆の立場で報道」と立教大学報告書結果の記事(28日)の掲載も同様の紙面構成である。
 曖昧模糊とした世界を、はっきりした基準のものさしで計ろうとすれば、多少の硬直化はやむを得ないのか。
 立場からやそれぞれの集団の言葉と同様に、一人の存在や言葉は重い。ささやかな日常の中に、以外に未来への隙間を予感することもある。そんな記事を楽しんだ。
 好きな映画「グラン・ブル―」、そのモデルになった世界的なダイバ―、ジャック・マイヨ―ルと与那国島の海底遺蹟の記事(19日)、何百年もの国頭の森に生育する最大級のオキナワウラジロガン(26日)。これからの大切な物がはっきりしてくる。
 マルタ共和国に活動拠点を置く画家・金城美智子氏のまわりから文化交流の輪が広がり(20日)、沖縄の瓦屋根ふき45年の大城幸裕氏(25日)の仕事に支えられた沖縄「伝統の」風景がある。八重山育成円での注連縄つくりの記事(22日)。東風平中学校文化祭で組踊りを上演する記事、愛知県富山村・「日本一小さい村」で就職する沖縄女性(26日)。
真喜志勉氏の「美術館はどうなるのだろう」(29日)。人材育成の必要性を説く言葉をよく目にするが、すべての存在が人材の可能性を秘めていることを再認識した。
         
                                                   

6) 読者の視線導いた「市民投票」―おもしろかった本土五紙社説―
    1997年12月後半  紙面批評 
 1998年1月20日(火曜日)掲載

 12月後半の紙面批評のために、新しい年の中で紙面をめくり続ける。1年の終わりを締め括る多くの特集記事は、一年という時間枠を読者に提示する。
 「97年回顧」、県内、海外・国内、スポ―ツなど各分野の「10大ニュ―ス」として総括されている。どの記事も1年を通して新聞紙面を賑わせた内容であった。
 私自身は、昨年について回顧・回想することをあえて行わない年にした。忘年を拒否する一年にしようと決意している。
 様々な表情で流れたその時間を、批評に必要な紙面記事情報に変換するために、グレン・グ―ルドの奏でるピアノの硬質な音が必要になった。それほどにリアルな一年であった。 
 12月後半紙面の総合面・社会面のトップは、21日に行われた名護市民投票の関係記事が連日続いた。見出しも大きく強調され、厳しい言葉が続く。
 文化面でも「海上基地と市民投票―自己決定の行方」(16日から5回連載)に姜尚中、鎌田慧、山口二郎らの県外論客の文章を配置することで、総合・社会・文化面を最大に利用し、読者の視線を一点(21日)に導いた。
また、投票日までに二回も投票用紙の説明記事を大きく扱い、投票への関心を高めていく。21日のドキュメントを詳細に記事にし、識者・両派のコメントを載せた。
 12月後半の紙面は、重要なテ―マを取り上げる際の新聞の表情が極端に出ていたように思う。一つは、連日の主要紙面独占の表情である。新聞社の関心・立場を表現することを重視した紙面は、いい意味でも悪い意味でも硬直化する。もう一点は、情報を整理し報道する中で、先に述べたような徹底したシナリオ的構成で、紙面に表情を与えたことである。その中でも、普段の紙面では見ることのできない本土5紙の社説転載記事(24日)は、おもしろい紙面であった。
 市民投票の結果から、海こそ豊かさをもたらすものであるとの主張を、翌年の国際海洋年をふまえて論じた社説(25日)も興味深かった。
 一つ疑問も残った。報道量の割りには、客観的な事実として知りたい事が提示されていないことである。それは、市民投票における地区毎、年代別、性別の投票率と投票結果の数字をもとにした結果分析である。こうした情報は作成可能なのか不可能なのかさえも、一般読者は予想できないで戸惑っている。
 文化的には、国立組踊劇場の建設が浦添市に決定され(21日)、歴史文化と観光の融合を検討する琉球歴史回廊調査委員会の記事(21日)が掲載された。この他にも現在すすめられている文化的な事業について、じっくりと新聞ならではの構成力をもって文化面で取り上げてほしい。文学や美術やアカデミズムの情報だけが文化ではないように思う。地方面と文化面、芸能面と文化面の違いを、切り口で個性豊かに展開してほしいと期待している。
 毎週火曜日に一年間掲載された「伊波普猷没後50年企画」も終了。担当記者のじっくり取り組んだ企画は成果も大きかった。 
 98年の大蔵省原案・沖縄関係予算も提示され(26日)、沖縄タイムス社創立50年にあたる新しい企画も提示された(27日)。国際海洋年の今年、海洋地域・沖縄での出来事を、これまで同様に紙面を通して出会いたい。                                                                                 

               

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もういくつ寝ると

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ13 「もういくつ寝ると」

 数年ぶりに郷里で正月を過ごすことを楽しみにしている。昨年の大晦日は、鹿児島県姶良郡のある神社で過ごしたが、沖縄出身の私には、とても新鮮だった。
 夜十二時近くなると地元の人達が続々と集まって来る。多くの人々は郷里を離れ、各々仕事を持ち、各地で生活を営んでいる。正月を郷里で過ごすために帰省している人にとって大晦日の夜は、地元の知人に忽ちのうちに会える機会だ。神社のあちらこちらで再会の挨拶が交わされる光景が見られる。年配の方や家族連れが多いが、結構高校を卒業したばかりの若者の姿も目に入ってくる。〈生まれ育った土地の懐かしい人・会いたい人に会える場所〉、大晦日の神社はそういう場所なのだと感慨を新たにした。
 新年の振る舞い汁(薩摩汁)で体を温め、木の臼と杵の昔ながらの餅つきで出来上がったばかりの白い餅を頬張りながら、しみじみと集まった人々の幸多かれと心から祈らずにはおれない気持ちになるのは不思議だった。
 境内で地元の青年達の奉納する太鼓の音が、薄闇の空気に融け、絶え間なく体に入ってくる。0℃近い気温の中で太鼓からの様々なリズムと強弱の音々ー悴む手足を火に当てながら聞くその音は、我々の体内にどのような効果を生み出すのか。それは時間の音、近付いてくる時間の音だ。一年の終わりと一年の始まりを境界の場所に立ち、去りゆく時間と訪れる時間の両方をあの太鼓の音に感じている。
 音…。人は聴覚を捨て切れはしない。その存在は、見えない振動を以て感情に結びつく。懐かしさや憂いや様々な思いの込められた時間を自分の体内から禊ぎする様に遊離させ、そこまで来ている透明な時間の獲得を、微かな期待や予感・希望を持って願っている多くの人々がいる。除夜の鐘の音もそうだが、最近年末に多いメサイヤコンサートで聞く「第九」も、多くの人達が見る「紅白」で流れる歌もそういった種類の音なのかもしれない。
                       1990年12月22日(木)「沖縄タイムス」掲載

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形ある時間

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ12 「形のある時間」

 今年のカレンダーも一枚になり、そろそろ来年のカレンダー選びを考える時期になった。 私達には時間幅を見ることは出来ない。日常生活の中で、私達の未来、来年の時間を具体的な数字としてそれほど意識してはいない。けれども不思議なもので、その年のカレンダーを手にした時初めて、これから訪れる一年という時間を「細切れの一日の単位、一日や月の単位として手に入れる」感覚が起ってくる。抽象概念としての〈未来〉から具体的に数字という形の〈現実〉味を帯びた一年分の時間を切り取って手元に置くー、そんな感じである。
 日本では、明治六年からの太陽暦の採用され、今日に至っている。けれどもそれまでには、各藩や地域ごとにその地方独特の暦製作技術を以て作られ、色々な種類の暦で示された〈一年〉という時間があった。農耕儀礼との関わりあいが深い陰暦が中心ではあったが中には、地震鯰の絵のついた「伊勢暦」や謎解きのように読まなければならない「田山暦」や代表的な絵暦の「盛岡絵暦」等個性的なものがつくられたりした。一年一月の時間感覚を太陽暦でならされている私からみると、時間がこれほどまでに多様の表現が出来るのかと驚くほどである。
 今日でも沖縄では、伝統的な祭祀は旧暦で行う事が多い。しかし現代の人々の方が、太陽暦の示す時間と以前の農耕サイクルとの深い関わりあいによって管理されていた時間とを日常の生活の中で、うまくバランスを保ちながら「暦に従うのではなく、二種類の暦の時間を使いこなす」より主体的で、暦(一つの限定された時間概念)の呪縛から解き放たれ自由なのではないだろうか。
 思うに、同じようにカレンダーによって示された時間ならば、幻想でもいいからランブール兄弟の傑作《ベリー公のいとも豪華なる時祷書》中の月暦画に流れるような美しい時間がほしいし、選べたらどんなにいいだろう。
                   1990年12月6日(木)「沖縄タイムス」掲載

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終わりの無い作業

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ11 「終わりの無い作業」

 人は、多々ある情報をどのように頭の中で整理しているのだろうか。
 未熟な判断から別々の整理箱の中に仕舞い込み関連性の薄いと思っていた情報が、時として重いもかけない展開で結びつくことがある。その偶然性が強いほど、刺激的に豊かなイメージが広がる経験は、一つの〈事件〉である。
 先日、一九四五年以前の県外発行雑誌の沖縄関連記事を集めた「沖縄学の萌芽展」が県立図書館で開催された。記事目録を見て気が付いた。
 南方熊楠が四編ほど沖縄関係の短い文章を書いている。人類学・民俗学から粘菌観察など幅広い博物学的な知識とその強烈な個性を持つ南方熊楠は、最近見直され、注目されている人物である。
 一つは、「出産と蟹」。その中で、沖縄のジャーナリストとして活躍した末吉麦門冬(末吉安恭)の〈博覧強記〉を驚き、その考証を「凌駕(りょうが)するもの多し」と評価している。
 そのほか『球陽』を読みその内容を事例として紹介した「琉球の鬼餅」、石垣島や与那国の事例に触発されて書かれた「椰子蟹に関する俗信」や方言学、沖縄学研究者・金城朝永の「琉球の猥談」を読み書かれた「一目の虫」、「煉粉を塗る話」などがある。
 南方熊楠が小さいながら、〈琉球への視点〉を持っていた事を知り、そのきっかけを与えた末吉麦門冬や金城朝永を新しい側面から捉えられると思うと〈うれしい〉気分である。
 ある事柄への情報を持つ事は、一つ一つのパーツを組み立てて完成されるものでもない。
偶然のわくわくする〈事件〉と出会いながら自由に、そしてしなやかな変化を続けていく種類のものである。その整理箱の中を引っかき回したり、時に中身をそこら中に散乱させたままでいたり、懲りもぜす腕組みをして箱の中に並び帰る作業に似ている。それは終わりの無い、けれどスリリングな作業である。
                         1990年11月22日(木)「沖縄タイムス」掲載

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<香り>雑感

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ10 「〈香り〉雑感」
                         
 いつ頃からか気分を落ち着かせたい時、特に読書をする時に〈香〉を薫くようになった。当初友人達は、この習慣を「弱齢らしからぬ」と戸惑いの色を隠さなかった。何時の間に寛容になったのか、嗅覚が慣れたのか、効能に目覚めたのか、今では愛好者が二、三人程いる。
 また最近ではエスニックブームということもあって、色々な種類の香が市販され簡単に手に入る。日本従来の香というよりもインド産、中国産の物が多い。時折、若者が多く集まる空間にその香りをひろうことがある。 
 香の原料は、動物性の麝香、植物性の沈香、百檀、丁字、伽羅等の天然の物と樟脳等の人造香料にわかれている。その配合は国によって違いが出てくる。あくまでも個人的な印象だが、インド香は比較的〈重い〉香りがするし、中国産の香は、空間に〈静かに溶け込む〉嫋やかさを持っている。特に沈香系と百檀系の香りを持つ中国の香は絶品だと思っている。これらの原産国による違いは、気温・湿度に関係しているのではないだろうか。
 沖縄での香作りは、16世紀中頃に始まったといわれる。沖縄の伝統的な香(ヒラウコー)は、香りの存在が乏しい。しかし王家御用達の物〈官香〉には丁子等の香料が入っていた。現在と違って、香料が輸入の天然物に限られていた時代は、この種の〈香り〉は特権階級のものであったといえる。
 庶民の〈香り〉はどうだろうか。沖縄では50種以上の香料植物のうち15種程が使用されているという。その中でタブノキは平御香(ヒラウコー)に使用され、モロコシソウ(方言:ヤマクニブー)は防虫効果を箪笥の奥で発揮している。またご存じ月桃(サンニン)はムーチーをはじめ賦香剤として食物を包むのに使用している。ちなみに最近は〈月桃香〉も販売されている。こうしてみると沖縄の独特の〈香り〉は、生活に不可欠で、我々を最上に酔わせていたことに改めて気づいた。
                         1990年11月8日(木)「沖縄タイムス」掲載

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月の真昼間

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ9 「月の真昼間」

 月の光りが美しい季節になった。私達の周囲には枚挙に遑がない程、様々な人工の光が氾濫している。このような状態中で生活する私達にとって、月の光は天上から零れ落ちる僅かなものでしかない。どの位の人が、生活空間や自然界に融けこむ月の光りについて、色やその強さを語れるだろうか。
 太陽の光のわずか45万6千分の1の月の光りだけで撮影したという写真集『月光浴』(石川賢治、小学館)が最近出版された。薄闇の中硬質な光に映し出された風景や花は、結構色を保っており、眠りにつかない自然の姿である。
 昔の学生の「満月の夜に本を読んだ」経験談は、強ち誇張されたものではない。今年の豊年祭りで八重山の小浜島を訪れた時に実感した。祭りは満月の夜一晩中を通して行われる。夜が更けるにつれ、そのエネルギーを増し疲れを知らない島人と違って、休憩が必要になった。偶然知合った島在住の絵本作家秋野さんの家で3時間程休ませていただいた。
真夜中の2時頃、歩いて40分程かけて、祭りの行われている部落へ戻った。周囲に人家も無く、満月の光だけを頼りに砂糖黍と牧場の広がる島の道を歩く。
 虫の声と蝙蝠の羽音、眠りを脅かしたのだろう牛が目を醒ましこちらを見ている。祭りの行われている部落からの太鼓・歌声が風に乗って聞こえてくる。月の光は煌々として美しく自然の色彩も浮かび上がらせる。
 秋野さんからいただいた御夫婦の絵本『はまうり』を広げて見た。鮮やかで深い色調の珊瑚礁の海が広がっている。宮古島の浜下りを題材にした話を月の光だけで一気に読み終えてしまったのである。
 恋の成就を願う女性が〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の中で神に祈る光景を歌った八重山民謡の夜が小浜島にはあった。光に溢れた都市の満月夜は、明るい様で暗いのかも知れないとぼんやり思う秋の夜長である。
                        1990年10月25日(木)「沖縄タイムス」掲載

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蝶・空飛ぶ線の動揺

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ8 「蝶・空飛ぶ線の動揺」

 「生命というものは、動いてやまない境界線からなっている。線の舞踏、それが生命の自己表現なのだ。ー中略ー空飛ぶ蝶、それは黄色い線の動揺なのかもしれない。」(岩田慶治『カミと神 アニミズム宇宙の旅』)
 蝶を空飛ぶ線の動揺とした表現を目にした時、妙な安心感を覚えた。うららかな日に、色鮮やかな自然の中で自由に飛び回る蝶の姿をぼんやり眺めていると、それらが描きだす線の動揺が、浮遊感を伴い囚われたような感覚が生じてくる。
 蝶ー日本でも古来から人間の魂の象徴として文学、絵画はもちろん民俗事例においても多く描かれている。雅楽の〈胡蝶楽〉の舞や中国の故事「荘子ー 物論」の中の〈胡蝶の夢〉、泉鏡花の『春昼・春昼後刻』等でも、蝶を人間の魂にたとえ、その神秘性と幻想の世界が描かれていた。
 奄美地方では、蝶のことを〈ハブリ〉と呼んでいる。
 家の中に蝶がまぎれこむと「誰かの魂があの世に行くことが出来ずにさ迷っている」として嫌がる。また子供の頃「蝶は人の魂なのでむやみに殺さないよう」と言われたという話も聞く事が出来る。このように蝶は死者の魂を象徴している事例が多い。しかし「祖父が亡くなって四十九日もならないうちに畑で仕事していると、一匹の蝶が自分の回りを飛んでいるのを見て、ああ(祖父は)まだあの世には行ってないんだと感じた」と愛情と悲しみの中に淡々と静かに語られる存在である。
 また生者を守護してくれる存在であるともとらえられ、魔を払う力として、赤ちゃんの着物の背に蝶型の守りを縫い着けたりする。
 そして村落祭祀の司祭者の手にする扇にも鮮やかな蝶の絵柄が描かれ、簪や首からかける〈玉ハブル〉と呼ばれる飾りも蝶をかたどった布がひらひらと取り付けられている。
私は、南島の人々の感覚ー蝶を通して語る生命表現の〈軽やかさ〉をとても気に入っている。
  沖縄の民俗の事例のなかにも鮮やかに、そして「ゆらり」とした様子で、翼を持つ存在が登場してくる。
                     1990年10月11日(木)「沖縄タイムス」掲載

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一つの移民物語

「空と飛ぶ線の動揺」シリーズ7 「一つの移民物語」 

 今年の沖縄は、「世界のうちなーんちゅ大会」等が開催され、夢を持ち海を渡り、そして生きた人々が注目されている。 鹿児島県種子島に沖縄の人々が移住してつくられた部落がある。海に面し小さな入江にある塩屋部落は、糸満の漁夫達が移り住んで大きくなった。はかり知れない恵みを持つ海との対話において、卓越した能力を持つ漁師達は〈海〉に受け入れられる。ぐんぐんと波を切り進みどこまでもいく彼等が、海の幸を人々に与えるために、そして体を休めるために陸ヘあがる。その繰り返しの中で沖縄以外の場所が生活の空間として選ばれていく。
  現在は漁業を営む人もごくわずかで、年々過疎化が進み、沖縄出身で移住してきた人達も高齢化がすすみ数人しか残っていない。 師走というのにほわほわと暖かい日であった。穏やかにお話をなさる97歳と86歳の糸満出身というご夫婦と2、3人曾孫が団欒の最中にお邪魔した。
 古老はサバニで海を歩いていた30代に糸満から移り住み、沖縄出身の奥さんと結婚して子供が生まれ、歳月が流れて孫が生れたという。時間の流れと共に沖縄での習慣が、種子島の習慣へと変化した。仏壇を見せてもらったが位牌も沖縄式の物ではなかった。家の中に祀られている神々も本土風になっている。 彼等にとって〈沖縄〉とは何なのか。「生きている場所に合わせていくのが一番いい。だんだん沖縄の事は忘れてしまった。でも楽しく暮らせたよ。」とお婆さんが笑って答えてくれた。
 けれど、訪れたほとんどが九州出身の学生20人の中で沖縄出身だと言う私の手をこっそり握り「沖縄の人と結婚しなさいね。」と涙声の方言で話し掛けてくれた。お婆さんの皺だらけの手から、文化の異なる地で流れた50年近い時間が私に押し寄せてくる。この一言は、夫婦が生活上忘れなければならなかった〈沖縄〉への思いを伝えるのに十分過ぎるほどで、私の心に強く染み込んだ。
                      1990年9月27日(木)「沖縄タイムス」掲載

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新しい時間軸

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ6 「新しい時間軸」

 夏休みも終わり、真っ黒に日焼けした子供達が学校に戻ってきた。約四十日の長い夏休みの出来事をお互いに話し合っている。 夏休みの宿題はこなさなくてはいけないし、水泳教室、野外学習会、地域の年中行事等の多くの催物に参加したり、彼等は彼等なりに〈子供の時間〉の中で忙しく過ごしている。 ところで情報化社会の今日、日本中の〈子供の時間〉の均一性は驚くべき物がある。
 定期航路が三日に一度しか運航されていない吐喝喇列島・平島は、約三十戸の島で、人々は昔ながらにゆったりと半農半漁の生活を送っている。自動販売機や公衆電話もなく、生活に必要な日用雑貨は島にある二つの小さな店で調達する。若者達は中学を卒業すると島外に出ていくこの島では、伝統的な行事・習慣が多く残されている。この島の時間の流れは緩やかである。 ところが子供達の間で話される言葉や口ずさむ歌は、都会の子供達でも流行している言葉であり歌である。また多くの子供達(男の子)が手にしている玩具は、最新式の〈四輪駆動〉のラジコンであった。更に驚いたことに、多量のしかも些細な部分まで網羅した情報の質の高さである。
 平島の時間には、〈古〉と〈新〉極端な性格の二つの時間軸が存在している。
 また〈子供の時間〉の均一性といえば、現在流行している「ちびまる子ちゃん」というアニメがある。このアニメの主題歌は、ラジオやテレビから一日に何度となく流れる程。今年の盆踊りには、このアニメが放映されていない地域(先島など)でも頻繁に採用され、踊られたという。 情報化社会の日本の中で、地域という空間とその地域の文化が生み出す〈時間〉枠を超え、限りなく同質に近い文化に支えられた時間軸を持つ現代の子供達の〈時間〉は、あたかも螺旋を描く竜巻のように巨大で迅く、何を生み出し何処へ行くのか測り知れない。
                       1990年9月13日(木)「沖縄タイムス」掲載

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鬼の持つ民具

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ5 「鬼の持つ民具」

 人類学という学問に興味を持ったせいか、旅行やぶらりと立ち寄った街の雑踏を後にして辿り着く場所の多くが、静かな寺・神社や御嶽や歴史・民俗資料館、博物館、美術館である。此等の場所の静寂さは一種独特で、何時間いても退屈しない。
 特に最近では、博物館や民俗資料館等の〈民具〉の展示見学にたいそう時間を費やしてしまう。〈民具〉を簡単に言えば、人々が日常生活の要求から作られた道具の事である。
衣食住(調理用具、衣服など)関係、産業(農具など)関係、信仰(呪具、祭具など)関係をはじめ、多くの分類がなされている。民具は名称・材料・製作法・形態・日常の使用法と時代といった多くの情報を与えてくれる。
 過去に使用され、静かに眠っているかのように展示陳列されている民具ではあるが、一つ一つが日常にそれを使用した人々の生活感情や信仰や呪術的心意をひそやかに語っている。
 また、思いがけないところで民具の語りに触れることがある。
 〈地獄絵〉をご存じだろうか。人がこの世で悪いことした報いに落ちた地獄で、亡者の受ける責め苦の光景を描いた絵である。よく注意して見ると、この地獄絵に展開される鬼達の拷問に使われる様々な道具の中に、よく知られている臼や箕といった物が何気なく描かれていることに気づく。
 この世とは異なる観念の世界である地獄を〈絵〉という表現方法で描こうとすれば、作者(絵師)の想像・観念が中心になる。しかしその観念の中のわずかな隙間を通って、一文化の中で生活する一個の人間〈絵師〉の現実が、鬼の持つ道具として滑り込んでいく。
 例えば、箕は沖縄では、本土の片口型でなく円形の箕を使用する。こうした民具の地域のわずかな特徴が、地獄を現実世界(地域文化)に引き寄せてしまう。民具は雄弁である。沖縄の地獄の釜の開く日はもうすぐである。
                    1990年8月30日(木)「沖縄タイムス」掲載

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石を拾うという事

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ4  「石を拾うという事」

 机の上に1個の石がある。先日知人にプレゼントされた物で、手のひらで包み込める程の大きさ、あまりにも有名なナスカの巨大な地上絵の猿と鳥の図柄が描かれている。
 人は不思議なもので、意識をそらすことの出来ない対象をいくつか数えることが出来る。多くの人、空間、時間、物質の中で意識を捕えるもの…それらを思う時間はゆるりと流れている感じがする。私にとって石もその中の一つである。確かに小さな石が机の引き出しの中から一つまた一つと出てくる。その中には何時何処で拾ったのか記憶を辿ることが困難なものもある。けれどもその石を拾い手にした瞬間の感情は確かに、玩具を手にした子供のように石へと向かっている。玩具についてボードレールは「大部分の子供というものは、玩具の生命を見たがる。玩具の寿命を長引かせるか否かは、この欲望が早く襲うか遅く襲うかに係わっている。私にはこうした子供の奇癖を咎める勇気はない。何しろこれは子供の最初の形而上学的傾向なのだから」という。
 大人にとって石が玩具だとすれば、人は石に生命を見ていることになる。ところで沖縄だけでなく全国各地に石に神霊がこもるという信仰は多い。石が神の依代として神聖視されたり、石をスタティックな物質と捉えずに石そのものが成長したり、増殖したり動きを伴うものとして信仰されたり、昔話として伝承されたりする。沖縄の民俗信仰の中で石に関係し、広く知られているものに子供が病気になった時や人が驚いた際に〈マブイ・魂〉を落としたとして、石を拾い〈マブイ〉を戻す儀礼がある。この儀礼には多くの石の中から特定の石を選び取る行為が伴っている。拾われた石はマブイの込められた後捨てられてしまう。
 玩具としての石に生命を見るために破壊・放棄する時まで所有するのが子供ならば、生命があると感じていられる間持ち続ける事が出来るのが大人なのか、難しい問題である。

                        1990年8月16日(木)「沖縄タイムス」掲載

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赤と緑の夜想曲

「空飛ぶ線の動揺シリーズ」3-「赤と緑の夜想曲」

 赤と緑の組合せとくれば、最近は小説『ノルウェイの森』の装丁を思い出す方が多いのではないか。両方ともにインパクトの強い色で、小説がベストセラーになったのもあながち無関係ではないと思う。
 人にとって〈視ること〉の意味は何だろう。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」と梶井基次郎はいう。 私は、〈赤と緑〉の組合せを見ると吐喝喇列島・悪石島のシャーマンの事を思い出す。 お年は八十歳前後の、少し女性的な雰囲気のする話し好きな男性のシャーマン。宗教的職能者の家ということもあって、部屋の祭壇には神器の鏡や天照大神が祀られ、いろいろな供え物がある。部屋の中は薄暗く、その暗闇の中にぼんやりと浮き上がってみえる〈赤い花〉。大人の腕の一抱え程の真赤なアマリリスが、祭壇前の二ヵ所に飾られている。 人は、特定の視覚イメージの属性を聴覚イメージの方に付着させて、いろいろ新しい隠喩のもとを用意することができる。
 アカ…赤、紅、緋、紅、私の記憶を刺激し、〈AKA〉の音からふくらむイメージと記憶のつながり…。〈閼伽(あか)〉の花は、梵語でいう閼伽(argha )つまり仏に供えた清水に浮かべた花や仏に供える花のことをさしている。アマリリス、ヒガンバナ科(ヒガンバナは死人花、幽霊花とも呼ばれる)に属するこの花からは甘い香りが漂い、その真赤な花の茎の部分は緑。薄暗い部屋の中で見るこの色は、深い海底のように神秘的である。シャーマンの無意識の選択は、一つ一つの要素を美しい糸を紡ぐ行為のように結びつけ、他界に近付けていくかのようである。
  帰り際にシャーマンが、お土産にと数本のアマリリスを手渡した。ここでも〈赤と緑〉の世界が私を捕えている。視覚とそれをこえたメッセージは、心がくらくらして気持ち良い程。今日も彼は、部屋中の花の中で祈るのだろう。                                                   

                       1990年8月2日(木)「沖縄タイムス」 掲載

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名護岳を歩く

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ2 「名護岳を歩く」

 

 先日、南風原町の子供達と名護岳を訪れました。

 夏の季節風が高温多湿の空気を運ぶ猛暑の侯。まさに〈夏炎ゆる〉言葉通りに、自然も人もの中で息をひそめ、蝉時雨だけが降り注いでいます。

 植物や生物の観察学習をしながら遊歩道を歩く…美しい薄紫蝸牛や野牡丹をながめながら進んでいくと、次第に道幅が狭く、勾配が急になり山道らしくなります。

 片足に重心を置き、膝を伸ばす間に体は山頂へと近づきます。体を上方へと移す動きの繰り返しー魂を天に近づけていく動きのようです。汗も流れはじめ、おしゃべりな子供達も黙々と山頂を目指します。120名が一列になり、時折吹く風に励まされながら一歩一歩足を踏み出します。足元には藪蘭の花。

 人は思いを抱えながら足を踏み出します。この名護岳に多くの人達が、それぞれの思いを抱きながら登ったのでしょう。

 かつて、本土に出稼ぎに旅立つ娘を見送るために名護岳で松の木を燃やし白い煙を上げた年老いた親の思いのように…。

 稲垣国三郎の「白い煙と黒い煙」の情景です。名護岳だけでなく、沖縄の各地でこうした旅立ちの別れの光景が見られたといいます。

 〈旅〉ー現在でもお年寄りの方は、子や孫が仕事や進学で島外に暮らすことを〈旅に出る〉と表現します。「家族は何人ですか。」との質問に、何年も沖縄を離れている子供や孫を加えた数を答える事も少なくありません。各村落の御嶽や家で、島外で暮らす(旅に出ている)人々の無事を祈る伝統的な祭祀が行なわれている場面に出会うことがあります。

 沖縄の人達にとっての〈旅〉概念に思いをめぐらしているうちに下山の時間です。

 南部から名護への小さな旅を終え、58号線沿いを走る帰りのバスの中でふと振り向くと、名護岳に風にゆらりと揺れる一筋の白い煙が見えたような気がしました。

                                      1990年7月19日(木)「沖縄タイムス」掲載

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フクロウ・孤独な翼

「空とぶ線の動揺」シリーズ1 「フクロウ・孤独な翼」

  人々の心の中に、他界のイメージを与え、生活するレベルで、他界を現世に接触させ引き寄せる象徴的存在の生物は少なくありません。
 奄美を題材に多くの絵を残している画家・田中一村の〈奄美の杜〉と題された作品の中にフクロウが描かれています。南国の強い太陽の陽射しもとどくことの無い程に、亜熱帯の植物がうっそうと繁る杜の中で、片目を閉じたフクロウが浜木綿とともに杜に流れる時間を静かに見つめています。
 この絵のフクロウには、魔性だけでなく幻想・神秘の雰囲気の中に孤独の悲しみが漂うのです。
 奄美大島宇検村の民俗調査の際にお聞きした話。
 夜更けに集落近くでフクロウがホゥホゥと鳴く時不安になるという。集落の中で葬式が出る時の予兆…。この鳥は(青鳩とともに)あの世で死者の歓迎にふるまわれるご馳走の材料として考えられていました。人々は、フクロウが病人や老人の家の近くでにきて鳴くことを「(私は)あなたのあの世でのご馳走として出されるために、これからあの世に旅立たなくてはならない。それが悲しくて鳴いている…。」と解釈しています。
 この世とあの世との媒介者としての存在と同時に、フクロウそのものにも〈死〉という抵抗することのない不条理な運命の悲しみを人々は見ています。<死>の悲しみ、恐怖を人々とともに共有する存在といえましょう。フクロウのホゥホゥと鳴く声を聴く時、これから訪れる両者の<死>は、自然を舞台としたドラマの中で受け入れられてしまいます。
 森羅万象にカミがやどるとするアニミズム的なものとは少し異なる感覚の構図。
 沖縄周辺離島・農村の人々の生活様式は年々都市化が進み、それに伴う自然環境の破壊。人が自然の中で同じ命を持つ生物達へ目を向けていた時が遠くなります。もう悲しい旅立ちを知らせる声は微かに聞こえるばかりです。
                      1990年7月5日(木)「沖縄タイムス」掲載

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空飛ぶ線の動揺シリーズー序ー

幻空叢書「空飛ぶ伝の動揺」シリーズ  序

 雨の降る夜更け、稲光の眩しさに眠れず過去の時間と戯れていた。ふと、これまで綴った文章を冊子にしようと思い立った。冊子は、『幻空叢書』シリーズとする事にした。関心のあるテーマ毎にまとめる予定である。幻空は、ペンネームの一つ。 創刊号に収録した文章は、1990年7月から12月の半年間、地元新聞紙『沖縄タイムス』文化面のコラム欄「唐獅子」に、二週間に一度掲載(十三回)された文章群を選んだ。鹿児島大学大学院を出て、沖縄に戻ったばかりの私に舞い込んできた初めての原稿依頼だった。ある意味では思い出深い文章群である。経験と呼ぶにはあまりにも小さな出来事や、ふらふらと各地を歩くことしかわからなかった時間の中で、ぼんやり考えていたことを、ただただ素直に綴った。友人から、無防備過ぎると注意された事を懐かしく思い出す。読者への配慮に乏しい文章の拙さは、文章表現の奥深さや怖さに気づかない未熟さの表出以外の何者でもない。

                           2007年 うりずんの季節に 粟国 恭子

目 次

1、 フクロウ・孤独な翼

2、 名護岳を歩く

3、 赤と緑の夜想曲

4、 石を拾うという事

5、 鬼の持つ民具

6、 新しい時間軸

7、 一つの移民物語

8、 蝶・空飛ぶ線の動揺

9、 月の真昼間

10、 <香り>雑感

11、 終わりのない作業

12、 形のある時間

13、 もういくつ寝ると

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書評『オキナワ女たちは今』

1997年4月4日『沖縄タイムス』書評欄掲載
  書評『オキナワ女たちは今』ゆいまーるセミナー編、ドメス出版

 
<―何十年教師として働いてきた母を想いながらー>
 私は、仕事を持ち生き生きと働く女性達が好きである。娘であり、妻であり、母であり、そして職業人として、社会に向きある女たちー。幼い頃から、周りの女性達のこうした姿を、自然に受け入れてきた。私自身の年齢を重ねるにつれ、彼女達は尊敬すべき存在へと変化している。
 <太平洋の要石>と呼ばれる島々に生きる女達の語りが10編寄せられている。執筆者は、ジャーナリスト(由井晶子「’95から’96年オキナワの女たち)、裁判官(稲葉耶季「やんばる賛歌」)、医者(上里和美「キーストン・アイランドの女たち」、竹下小夜子「女たちの怒り」)、労働経済の専門家(内海恵美子「海と女―沖縄のWID問題」)、大学教師(原喜美「沖縄の希望と輝き」、伊波美智子「働く女たち」、富永美由紀「子どもの問題は大人の問題」)、女性問題活動家(島袋由記「マザーランドの彼方から」、薄妙子「離婚率日本一の内実」)達のメンバー。3年程まえから月2回、朝7時半からセミナーを続け、女性の視点を通して「沖縄の特殊性の中から普遍性」を求め議論してきたグループである。
 平成8年うりずんの季節に『沖縄タイムス』紙面で連載された「女たちの見たオキナワ」に加筆(内海、由井)してまとめあげた。前向きに、しなやかに、そして豊かに、時には論理的に怒りえる、圧倒的にリアルな女たちの物語。
 時折、男性達から「女性史と敢えて強調する必要があるのか。人間の歴史の概念で捉えれば、その必要はない。」と冗談混じりの揶揄を耳にすることがある。
 終戦直後の沖縄は、20歳~50歳の沖縄の成年人口比が、男性2割に対して女性が8割でスタートした社会である。戦後の沖縄を男性と共に<沖縄びと>として確実に歩んできた女性たちは、約50年の時間を刻んできた。そうした社会が、女性史の成立と充実を必要としない場所だとは思えない。そして、女たちの語りが面白くないわけはないのである。

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書評『まんが偉人伝 沖縄史の五人』

1992年(平成4)年5月19日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評『まんが偉人伝 沖縄史の五人』琉球新報社
 
本書は、17世紀初頭から19世紀後半に活躍した5人(儀間真常、羽地朝秀、程順則、蔡温、宜湾朝保)の政治家の生き方を通して、当時の沖縄の歴史を知る手軽な入門書といえる。
 本書の特徴の一つである「漫画」という表現方法を用い歴史を捉える手法は、社会科教育の分野では一応の成果を挙げているといえよう。確かにビジュアル資料の示す情報量は幅が広くインパクトも強い。人々が生き生きとした表情で行動し語りかける。生命ある人間が生きていることが歴史だという基本点が、より実感できるのがうれしい。また読者は、衣食住などの生活習慣、風景や生活空間や士族と平民の階級、中国系の久米村の人々、貿易や留学地の中国や薩摩の様子もたたずまいで認識で「琉球」の文化の独自性を、また現代との時代間の差異を用意に理解することが出来る。
 特徴の二つめは、重要な用語の説明、写真資料や年表、参考文献などの補足資料を提示することで読者の理解を深められるよう配慮されている点である。さらに現代の琉球史研究の成果をふまえた巻末の解説は、当時の時代背景や時代が漫画とはまた別の視点でとらえられており特筆に値する。
 5人の主人公たちに共通しているのは、日本本土・中国への旅を通して、琉球とは異なる文化・価値観を持った国や人間に影響を受けながら、一人の人間として魂を成熟させている点である。それは「自分」とは異なる「他者」を発見していく過程にほかならない。本書は大正期に伊波普猷、真境名安興が著した「沖縄史の五偉人」と同じ人物を取り上げている。なぜ現代という時代にこの5人なのだろうか。この時代を生きていた精神の在り方が、今の私たちにとって一番近い「他者」の役割を果たすのならば、沖縄の歴史に触れることで私たちは、現代に生きる自分の意識について分析する作業をしていかなければならない。
 最後に、この5人にとどめず、想像力の回路を閉ざすことなく、新しい偉人像を自由にしなやかに描き出すための試みとしての第二弾を期待したい。

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活動・研究業績

【研究業績及び活動】

*昭和62年度(1987)24歳
・ 3月 卒業論文「上野村宮国部落における諸祭祀」

*平成元年度(1989)26歳
・ 3月 修士論文「南九州・沖縄の祭祀変遷過程の研究」(鹿児島大学大学院人文科学 研究科・文化人 類学専攻提出)
・ 3月 「ウッガン信仰と社会組織」(知覧町民俗資料調査報告書1『知覧町の民具』鹿児島県知覧町 教育委員会)

*平成2年度(1990)27歳
 ・7月 「文献資料と現行祭祀-宮古島南部の事例より-」(沖縄民俗学会7月例会発表)
・ 11月 「空間と集団からの社会構造」(笠沙町民俗文化財調査報告書3『笠沙町の民俗  下巻』鹿児 島県笠沙町教育委員会)
・ 7月~12月『沖縄タイムス』「唐獅子」執筆-文化人類学関係小文-「フクロウ・孤独な翼」「名護 岳を歩く」「赤と緑の夜想曲」「石を拾うという事」「鬼の持つ民具」「新しい<時間軸 >」「一つの移民物語」「蝶・空飛ぶ線の動揺」「月の真昼間」「<香り>雑感」「終わりの 無い作業」「形のある時間」「もういくつ寝ると」
・3月 「折口信夫と南風原」『南風の杜』南風原文化センタ-紀要創刊号

*平成3年度(1991)28歳
・9月 「末吉麦門冬と民俗学」(沖縄民俗学会9月例会発表)
・12月 「末吉安恭(麦門冬)の民俗的視点」『地域と文化第68号』ひるぎ社

*平成4年度(1992)29歳
・6月 「宮古島のユ-神」(沖縄民俗学会6月例会発表)
・7月 「『琉文手帖』」『私の好きな100冊』ボ-ダ-インク
・8月 「末吉安恭(麦門冬)と伊波普猷」『地域と文化第72号』ひるぎ社
・3月 「各家庭の対応と子供」『津嘉山大綱曳調査報告書』南風原町教育委員会
・3月 「下野敏見著『フォ-クロアは生きている』」『沖縄民俗研究第14号』沖縄民俗学会

*平成5年度(1993)30歳
・12月 共著『島々清しゃ』「伊計島」「宮城島」「下地島」執筆担当、ボ-ダ-インク
・ 12月 「国粋主義の周辺と沖縄-真境名安興の活動を中心に」『浦添市立図書館紀要№5』浦添市教 育委員会
・首里城正月儀式「朝拝御規式」調査報告書・(海洋博覧会記念公園管理財団)作成協力

*平成6年度(1994)31歳
・8月11日~9月30日「人物列伝・沖縄言論百年-末吉麦門冬1~36」『沖縄タイムス』
・11月 「宮古の祭祀」(沖縄県立芸大市民講座担当)
・12月 「トカラの民俗信仰」(沖縄民俗学会12月例会発表)
・12月 「アイルランド雑感」『地域と文化第 』ひるぎ社<琉球・アイルランド友好協会>事務局担 当
・7月 沖縄学講座「洞穴動物を見る」企画担当
・8月 沖縄学講座・展示「伊波普猷展」企画担当
・11月 沖縄学講座「島々の世界」企画担当
・12月 沖縄学講座・展示「吐喝喇列島展」企画担当
・冊封使関係調査業務報告書(海洋博覧会記念公園管理財団)作成協力

*平成7年度(1995)32歳
・9月 *<シンポジウム戦後50年宮古研究の現状と課題>事務局担当
・10月 「韓国の史跡-浦添城跡との関連を求めて4」『沖縄タイムス』
・ 2月 「南方熊楠と末吉安恭(麦門冬)の交流-『球陽』をめぐって」『地域と文化第91・92合併号』 ひるぎ社
・ 3月 「裏石垣を行く・開拓地を訪ねて-地域史協議会・石垣市で開催」『浦添市立図書館紀要№6』 浦添市教育委員会
・ 3月 「浦添市立図書館10周年を迎える-『浦添市立図書館10周年記念誌』紹介」『浦添市立図書 館紀要№6』浦添市教育委員会
・3月 「岡崎との交流-志賀重昂の沖縄関係目録』『浦添市立図書館紀要№6』浦添市教育委員会
・ 3月 「民俗研究者・源武雄氏蔵書の「寄贈資料」報告」『浦添市立図書館紀要№6』浦添市教育委 員会
・3月 「沖縄の女性と祭祀」『戦後50年おきなわ女性のあゆみ』沖縄県総務部女性政策室

*平成8年度(1996)33歳
・4月 「白石と地図と南島と」『がじゅまる通信7号』風樹社
・ 7月 「南方熊楠所蔵「球陽」調査報告」『熊楠ワ-クス 創刊号』南方熊楠邸保存顕彰会、7月3 1日発行
・8月5日~7日「発見された「球陽」-南方熊楠書庫の写本」『沖縄タイムス』
・8月21日 「伊波普猷と言論人 (上)」『沖縄タイムス』
・9月22日 「異人たちの夏」『沖縄タイムス』
・ 『冊封使関係調査業務報告書』(海洋博覧会記念公園管理財団)作成協力
・1月 「南方熊楠と麦門冬」『文学第8巻第1号』岩波書店
・3月「伊波普猷顕彰碑について」『浦添市立図書館紀要№8』浦添市教育委員会
・3月「伊波普猷と浦添と沖縄学と」『浦添市立図書館紀要№8』浦添市教育委員会
・3月「伊波普猷と末吉麦門冬(安恭)の交流」『浦添市立図書館紀要№8』浦添市教育委員会
・3月「沖縄学研究室所蔵の伊波普猷関係資料」『浦添市立図書館紀要№8』浦添市教育委員会
・3月「”沖縄学講座・物外忌記念講座”概要」『浦添市立図書館紀要№8』浦添市教育委員会

*平成9年度(1997)34歳
・4月「心惹かれる写真の世界」『うらそえ文芸第2号』浦添市文化協会
・ 4月4日 「ゆいま-るセミナ-編『オキナワ女たちは今』書評」『沖縄タイムス』
・7月17日 「視座・伊波普猷没50年」『沖縄タイムス』
・7月31日 「岸秋正氏所蔵資料の世界」『琉球新報』
・8月16日 「私の紙面批評 7月後半」『沖縄タイムス』(半年担当)
・11月10日 「耳盃について」『首里城研究№3』
・ 12月2、9日 「民俗(族)研究史の視点から-沖縄研究はいまー伊波普猷没50年企画ー」沖縄タイ ムス
・『首里城公園制服検討調査業務報告書』(海洋博覧会記念公園管理財団)作成担当事務局
・12月 沖永良部琉球関係資料調査
・ 3月「沖永良部島の琉球関係資料―漆器と神女関係資料を中心にー」(他4名共著)『浦添市美術館紀 要NO。7』

* 平成10年度(1998)35歳
・6月~9月 沖縄地域の神女簪資料調査
・ 7月「琉球と錫について」『首里城研究 No.4』
・ 9月 「神女の簪について」沖縄民俗学会例会発表
・ 3月 「<天>の字を解くー琉球王朝文化財と刻印」(座談会)『琉球新報』

* 平成11年度(1999)36歳
・ 5月9日 「シンポジウム戦後50年をふりかえる」参加 沖縄文化協会
・7月18日 「書評『雲南農耕文化の起源』」『琉球新報』朝刊
・9月18日 沖縄県立博物館講座「金属文化の風景~神女の簪や盃を中心に」講師
・3月 「金属文化の素描~神女の簪(1)」『首里城研究NO5』

* 平成12年度(2000)37歳
・4月 『沖縄をしる事典』文化関係執筆
・3月 東京国立博物館簪・沖縄美術関係調査
・3月 『那覇女性史 前近代 』執筆

* 平成13年度(2001)38歳
・6月ごろ 奄美・沖永良部調査
・ 11月「神女の祭祀道具~神女の簪~」『特別展図録 久米のきみはゑ500年―祭祀にみる神女の世界   ―』、久米島自然文化センター
・ 「神女の祭祀道具について」『久米島自然文化センター紀要2号』
・「王府時代の女性たち」『東北学』

* 平成14年度(2002)39歳
・2月 台湾調査
・「歴史を学ぶということ」『もえぎ』てだこ大学院報告冊子
・3月 岡山・広島調査
・「女性リーダー部会研修に参加して」『経営者協会報告書』
・9月 韓国調査
・「平良市女性の歩み」

* 平成15年度(2003)40歳
・ 8月 北中城郷土研究会主催「東廻り」巡見コース講師
・9月 インドネシア、韓国調査
・9月10日~15日 浦添市美術館第2室 展示会「沖縄の紙の世界」開催 沖縄で紙を考   える会立ち上げ事務局担当
・ 11月17,8日 「京都国立博物館特別展示「金色のかざりー金属工芸にみる日本の美―」と沖縄」『沖縄タイムス』

* 平成16年度(2004)41歳
・2月6日~15日 中国北京、福州、泉州、厦門の金属文化関係調査
・11月沖縄民具学会発表「沖縄の紙文化」
・8月~9月 沖縄本島内紙関係調査
・11月 『沖縄の工芸 紙』製作・発行(沖縄の紙を考える会編)
・12月 「沖縄の紙の世界」開催(会場:南風原文化センター)

* 平成17年度(2005)42歳
・1月 「金属祭祀道具」 『沖縄タイムス』2回掲載
・8月 久米島自然自然文化センター「沖縄の紙の世界」開催
・11月日本民具学会発表「沖縄の金属文化」 「沖縄の民具」企画展示担当(会場:沖縄県立芸術大学)
・10月~12月 沖縄県立芸術大学附属研究所公開講座「金属関係」3回担当

* 平成18年度(2006)43歳
・ 7月 沖縄文化協会発表「琉球の内侍について」・ 鹿児島紙文化調査
・ 8月 「沖縄の紙の世界500年―古文書からアートまでー」(会場:浦添市美術館)開催
・ 9月2日 シンポジウム「沖縄の紙文化」企画発表「沖縄の紙文化―民俗文化」
・ 11月 「沖縄の文化―つながれてゆくもの・わざー」(会場:沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館)企画展示、同展パンフレット製作
・11月 沖縄県立芸術大学附属研究所公開講座「鎌倉芳太郎と那覇ー波ノ上・崇元寺周辺ー」(10日)「鎌倉芳太郎と末吉安恭」(17日)「鎌倉芳太郎と比嘉朝健ー琉球絵画研究の光と影ー」合計3回担当
・ 12月16日(土)「旅の記憶としての本」『沖縄タイムス<本にまつわるエトセトラ>』
・ 1月「銘苅家美術工芸品の解説―金工―」『伊是名村銘苅家の旧蔵品及び史料の解説書―公事清明祭をめぐる公文書とご拝領の品々』伊是名教育委員会
・ 3月「近代沖縄の芸術研究①―末吉安恭(麦門冬)と鎌倉芳太郎」『沖縄芸術の科学』沖縄県立芸術大学 附属研究所
・3月13日から5日 沖縄県金工調査で日光調査
・3月「附属図書・芸術資料館収蔵品紹介」『沖縄県立芸術大学紀要』
・3月「近代沖縄の芸術研究①ー末吉安恭(麦門冬)と鎌倉芳太郎ー」『沖縄芸術の科学』第19号、沖縄県立芸術大学附属研究所
・3月「琉球芸術文化のあり様ー古琉球から近世琉球の王朝文化と変容ー」「首里城の工芸文化ー国宝琉球国尚家関係資料ー」『民族藝術』、民族藝術学会

*平成19(2007)年度 44歳 
・4月6日沖縄県立芸術大学附属芸術資料館に寄贈された第四次「鎌倉芳太郎関係資料」記者会見に担当学芸員として参加
・5月16日沖縄県立芸術大学主催「県指定文化財・三線・富盛開鐘を聴く会」附属芸術資 料館学芸員としてスタッフ参加
・5月19日首里城研究会発表「奉納された香炉」
・7月那覇市第四次総合計画委員会(担当:文化・教育部会)会議に出席
・8月28日「<沖縄の金細工展>に寄せて」『沖縄タイムス』
・8月31日~9月9日展示会「沖縄の金細工~うしなわれてゆくわざ・その輝き~」(会場:浦添市美術館)展示企画・チラシ制作。実行委員会の弁バーとして活動。
・9月2日講演「沖縄の金属文化」(会場:浦添市美術館)
・9月7日~8日「第2回東アジア紙文化財保存修理シンポジウム」(会場:九州国立博物館)に参加。

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