文化人類学

クロード・レヴィストロースの死去

 社会人類学者のクロード・レヴィストロースが、亡くなったというニュース。
「20世紀の知性」といわれた、世界的にも影響力をもったフランスの巨人です。
 フランス民族博物館ケ・ブランリーの開館式典に、参加されているニュースに触れた際、90歳も後半のご高齢で、すごい元気なんだーと感動したものです。
 
 この10年ほど文化人類学講義で12月のクリスマス近くになると、レヴィストロースの若い頃に書かれた「火あぶりにされたサンタクロース」(『サンタクロースの秘密』翻訳:中沢新一)の文章を、紹介することが恒例です。
 90年代に来沖もされて、久高島に関する小文も残しています。
「社会人類学者のクロード・レビストロース氏が死去」のニューズは以下で

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「沖縄の紙文化のあり様」

 2008年12月8日(土)9日(日)にお茶の水大学で開催された日本民具学会に参加しました。
課題発表テーマが「紙」だったので、沖縄の紙を考える会の活動をしている私としては、ぜひ発表を…と思いました。
 発表テーマは「沖縄の紙文化のあり様」と大風呂敷を広げた感のあるタイトルでしたが、内容は東アジアの紙文化にもつながる紙銭文化、祭事に使われる白赤黄の紙などなど、現代の生活で使用される紙を紹介しました。参考資料として、粟国恭子監修の『沖縄の工芸 紙』冊子を配布資料にしました。
 他の発表者は、紙布の研究者、チラシ情報を読み解く研究者などまじめな若手研究者が発表していました。

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現代の東アジアの民族問題

East_asia 1992年~93年頃に、よく聞いていた曲に中島みゆきの「EAST ASIA」musicがある。
 このごろの多く報道されるチベット問題に触れて、思い出し、ここ数日間よく聞いている。
 中島みゆきの特別なファンというわけではないので…この曲の成り立ちにまつわる話はわからないが…聞いているとチベットとか中国の少数民族とか朝鮮民族の歴史とか沖縄のこととか…考えてしまいます。いい歌です。
 チベットととかウイグル自治区の問題とか以前から興味があり、大学の講義とかでも取り上げている。
 Photo 曲を聴きながら、本棚から関連本を取り出し読んでいる今日この頃。
 チベット問題も含めて、中国の55の少数民族は21世紀どのような展開をみせるのか。
 チベットではここ2,3年で100近いホテルが建設され観光化、観光産業が活発に展開されている。でもその資本源は上海あたりで富を持った漢民族の資本家がオーナーで…チベット人を雇用している。チベット内の漢民族とチベット民族の中の経済的格差は計り知れない。
 生活のためにホテルなどで働くチベット人たち…それまでのチベット人の価値観で重要でなかった競争、賃金の能力給制、その格差…に向き合う現代。NHKが昨年この問題を特集で取り上げた番組があった。
 その中では、漢民族のオーナーがホテルのインテリアだとか土産物にチベットの古い民具や仏具などを過疎化が進む村の人々から買い集め、<チベット仏教のイメージ作り>にいそしむ姿も…それを喜んで購入する日本人観光客。
 現在のチベットには、歴史の政治的抑圧に加えて、資本主義と観光化の中での経済格差から生まれる抑圧の部分もあるのではないかと考える。
 ダライ・ラマが「非暴力」を訴えても、生活レベルの格差から生まれる不満を抑えることは可能なのだろうか?
 数日後に聖火は、日本にやってくる。
 チベット問題を考えながら、沖縄問題を考えている。
 

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『伊是名村銘苅家の旧蔵品および史料の解説書』

Photo_10 『伊是名村銘苅家の旧蔵品および史料の解説書ー公事清明祭をめぐる公文書とご拝領の品々ー』
 発行日:2007年1月  139P
 発 行:伊是名村教育委員会
      沖縄県伊是名村字仲田1385-1
     電話0980-45-2318
 編集:株式会社 国建
 目次:1、本書の背景ー尚円王を追憶する王国の論理ー
     2、銘苅家美術工芸品の解説
      *漆器(上江洲敏夫)*金工(粟国恭子)
      *陶器(津波古聰) *染織(与那嶺一子)
   3、公事清明祭に関する銘苅家文書の解説(高良倉吉)
   4、その他の銘苅家文書の解説(村史掲載資料)  (高良倉吉)
   5、伊是名玉御殿調査概報 (高良倉吉、安里進、田名真之) 
   コラム
  
 琉球国第二尚氏の尚円王の出身島、伊是名島は、首里城から遠きにありながらその存在は琉球王府にとっては重要な島であった。文献資料、王家ゆかりの墓、そして祭祀用具の品々が残っている。それらを写真や図などを多用しビジュアル化した上で、村史発行以後の最新の研究成果を元に作成された解説書。編集を担当している国建の西村氏(文化人類学)、大城涼子氏(歴史学)の力量も存分に発揮されている。
 金工品の解説を担当した。文書に見られる重要な金工品は多くは残っていないが(簪や耳盃など)、王府祭祀における金工品、香炉、茶道具などの解説を執筆。
 伊是名村教育委員会では、有料(2000円?)で販売している。問い合わせは村、教育委員会まで。
    

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特別展図録『久米のきみはゑ500年』

Photo_9 特別展図録『久米のきみはゑ500年ー祭祀用具にみる神女の世界-』
 
編集・発行:久米島自然文化センター
 発行:2001年
 
 この図録は2001年(平成13)年11月3日(土)~12月9日(日)まで開催された特別展:久米のきみはゑ500年ー祭祀用具にみる神女の世界ーの図録である。
 沖縄民俗研究の中で論考の多い神女関係のテーマの中で、マテリアルな部分、祭祀道具からの研究が少ないとその必要性を地域史などの集まりで語ったり、自ら金工調査を祭祀道具の簪からすすめていた時期に開催された展示会であった。この展示会へも奄美の神女関係資料を、館長の上江洲均先生、担当の山里克也氏とともに資料調査段階から関わった。「神女の祭祀道具ー神女の簪ー」の文章を寄せた。シンポジウムにもパネリストで参加。
 久米島には琉球王国時代からの神女きみはゑ関係の祭祀や道具をはじめとした神女関係資料が多く残されており、現在も祭祀がおこなわれている。具体的に残された祭祀道具の中に、王府時代の技術史や芸術感や信仰の形がある。とても重要な分野で、現在もそのフィールドワークは続行中。東アジアへとつながる資料群でもある。

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『東北学Vol6』「琉球王府の女たち」

Photo_8 『東北学Vol 6-特集<南>の精神史』
 発行:2002年4月
 発行人:赤坂憲雄    371P
 発行所:東北芸術工科大学東北文化研究センター
 発売所:株式会社作品社    定価 :2,000円
 ISBN4-87893-471-9

東北文化研究センターの赤坂憲雄氏が沖縄県立芸術大学附属研究所の波照間永吉所長や田場由美雄氏らの交友で
沖縄で集中講義などをされていた時期に立ち上がった企画ではなかったか?
 谷川健一・藤井貞和・赤坂憲雄氏の<「海上の道」と南島文化ー柳田国男の思想の再検討ー>の座談会と考古学、民俗学、歴史学、思想などの奄美・沖縄の地元研究者を中心に<特集「<南>の精神史」が組まれた。依頼の際の企画書をみて女性執筆者が2人ほどだったので「断ってはいけない」と自身に言い聞かせて、引き受けた。「琉球王府の女性たち」で論考を発表。「王権と民俗のはざま」をテーマに「王府と女性たちの関係」をーとの内容依頼であった。2001年『なは・女のあしあと』で執筆した内容事例を組み立てなおしての内容にしてある。
 特集とは別の巻頭座談会「<新しい歴史>とは何かー国民国家の帰趨と戦争の記憶ー」(姜尚中、上野千鶴子、三浦佑之、赤坂憲雄)があり、姜尚中と同じ雑誌に掲載されたことが感慨深かった記憶がある。

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『沖縄を知る事典』

Photo_6  『沖縄を知る事典』「第16章沖縄の民俗・文化」執筆担当
 編集:「沖縄を知る事典」編集委員会
 発行:2000年5月発行 510p
 発行書:日外アソシエーツ株式会社
 ISBN4-8169-1605-9

 「沖縄を知る事典」は沖縄の地域史研究・特に近代・現代を研究している屋嘉比収、宮城晴美、新城栄徳、伊佐眞一、鳥山淳、宇根悦子、輿石正氏が編集委員をつとめ発刊されました。書き手も50人以上でほとんどが沖縄地元の書き手です。
 その中の第16章沖縄の民俗・文化の章執筆を担当しました。担当した項目は「解説」「シマと御嶽(ウタキ)」「清明祭(シーミー)と亀甲墓」「石敢當と獅子(シーサー)」「トートーメー(位牌)」「風水(フンシー)」「豊年祭・海神祭・イザイホー」「ユタ」「ウナイ・ノロ・カミンチュ(神人)」を担当。いずれも沖縄民俗文化を語る際にはキーワードとしてはずせない項目です。
 ちなみに、その後より現代的な問題項目を充実させた『深く沖縄を知る事典』が発刊されています。

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『沖縄の工芸 紙』

Photo_12  沖縄文化・工芸研究所発行の印刷物『沖縄の工芸 紙』は、沖縄の紙文化を紹介したビジュアル版。2003年に発足した「沖縄の紙を考える会」で編集。監修を沖縄文化・工芸研究所の粟国(紙を考える会の事務局)が担当している。「沖縄の紙を考える会」は職人や学芸員、研究者など約10ほどではじめたささやかな会。年に1回のペースで展示会を開催したりシンポジウムを開催する活動を行なっている。沖縄の工芸分野では、紙文化はマイナーなテーマ。研究者も職人や作家も少ない。「沖縄の紙文化に関してのわかりやすい資料をメンバーでもほしい」ということで、取材や編集まで自分たちで行ない発行することで、情報の共有をはかることにした。ほとんどの文章を書いた手前、監修が粟国になっている。ちなみに出版費用も私の方で出し…自費出版の20Pの薄い冊子だ。でも全てカラーで50P分ほどの情報をコンパクトにおさめた。展示会会場や一般の方達に提供するために1部800円で販売しようということになり、いろいろな事務手続きなども兼て個人事務所「沖縄文化・工芸研究所」設立にいたった。ささやかな活動のスタートのはじまりでした。そろそろ改訂版が必要になっていますが…ということで以下紹介です。
*『沖縄の工芸 紙』 A4版 20P フルカラー
*「沖縄の紙を考える会」編 監修:粟国恭子 発行:沖縄文化・工芸研究所
*発行日:2004年10月
*内容は 紙の歴史・和紙の産地、琉球紙の歴史、芭蕉紙の復元、首里の紙漉きと樋川・井戸、紙の素材・植物、手漉き和紙のできるまで、歴史資料の修復、紙の作家たちー沖縄の現代ー、沖縄の紙を考える会、現在の紙製作活動状況を取り上げています。
*定価:800円  *榕樹書林が販売元ですが、浦添市美術館、沖縄県立博物館(現在閉館中)のミュージアムショップ、おきなわワールド内紙漉き工房「紙芳」で購入出来ます。インターネットでも直ぐ検索できます。

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書評『雲南農耕文化の起源ー少数民族農耕具の研究ー』

1999(平成8)年7月18日『琉球新報』書評欄掲載
書 評  『雲南農耕文化の起源―少数民族農耕具の研究―』
     尹 紹亭 著    李 湲 訳      上江洲均  監修・解題
      
 「どのように食物を生産するのか」の問いは、その土地に生きる人々の生活技術という、最も重要な「知」の在り方を問う事にほかならない。
   本書は、中国の民族学・農業生態学を専門とする研究者(現在雲南民族博物館勤務)によってまとめられた『雲南物質文化』(雲南教育者出版社)シリーズ『農耕巻上・下』の翻訳本である。決して多いとはいえない中国物質文化・民具研究の、本格的で優れた研究に、中国での出版から三年を待たずに触れることが出来た。
 中国西南部に位置する雲南省は、中国の諸民族(55)の約半数を確認できる少数民族の多い社会である。民族間の農耕文化比較の視点が可能な空間、そして隣接するベトナム・ラオス・ミャンマー等の東南アジアの農耕文化をも俯瞰できる場所でもある。雲南の農耕文化研究は、一地域にとどまらず、中国そして東南アジアの農耕文化理解への示唆を十分に与えてくれる。
  「刀斧、竹木鍬・鉄鍬、犁、耖と耙、播種と灌漑用具、蘿(ざる)・籃(かご)・馬幇・車・船などの運搬具、収穫具、穀倉と臼」の農耕具が取り上げられている。千枚を越える写真、古図・実測図等の挿図で、”モノ”と使用する人との関りを、読み物とは異なる手法で雄弁に説示する。各農具は「構造や形態、構成部品の名称、機能及び使用方法、構造と形態の分類、地理的分布の考察・確定」が明確な資料分析方法で整理される。さらに著者の「考古学・農史学、民族史及び民族学資料に配慮し、各具の歴史的根拠、伝播経路、変遷過程及び発展の傾向を探る」という物質文化の学際的・体系的分析研究への意識的な試みを見る。こうした物質文化と対峙する手法は、学ぶべき点が多い。
  翻訳本の監修・解題は、沖縄をはじめとし、日本、台湾、韓国、中国の民具研究に取り組む上江洲均氏。「南九州から南西日本の民具には雲南の少数民族のものと共通するものが多い」ことを実感として語れる存在は、日本農耕文化と比較する視点を解題に取り込んだ。原著の持つ雲南農耕文化の枠を越え、「日本農耕文化の起源」のテーマを立ち上がらせる重要な成果として、新たな意義や位置づけを本著に加えている。沖縄の農耕文化・農具研究においても必読すべき書といえよう。
       (第一書房   1999年5月18日発行  626頁  定価・1万円)

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シンポジウム「沖縄の紙資料からみえてくるもの」

2006(平成18年)年9月1日(金)『沖縄タイムス』「文化面」掲載

公開シンポジウム「沖縄の紙資料からみえてくるもの」に寄せて
  17世紀以前の琉球にとって、紙は日本や中国・朝鮮から輸入される貴重品であった。王府の重要文書に用いられ、現存する16世紀の紙史料・王府の辞令書は、こうした輸入紙が用いられている。また16世紀、中国の紙を運んで東南アジアと交易する琉球船が記録に残っている。
   琉球の紙抄造の歴史は、17世紀に始まる。康煕25年(1687年)関氏大見武筑登之親雲上憑武(唐名・関忠勇)が王府の命によって鹿児島に出向き、杉原・百田紙(楮紙の一種)紙漉き法を草野五右衛から伝授されたことに始まる(『琉球国由来記』)。
 1717年には、首里の「祖慶清寄」「比嘉乗昌」ら4人によって、芭蕉布の原料である糸芭蕉から、琉球独自の紙・芭蕉紙が漉かれた。首里・山川で抄造する彼らはその後、宮古・八重山・奄美大島へと技術を伝えている。
  18世紀から世紀にかけて、芭蕉紙をはじめとする琉球紙抄造技術と原料栽培は、王府の所在地・首里地区だけでなく、沖縄本島・周辺離島、宮古・八重山の先島地方の琉球全域に広がる。その事業は、王府指導の下に行われていた。
  しかし、琉球紙は国内需要をまかなうだけの生産量はなく、17世紀以前から輸入・使用していた中国の唐紙、上質紙の絵画用・竹紙、青壇、毛辺紙、連史紙、油紙類、甲紙、粗紙、川連紙、色紙、紅紙などの中国からの紙や日本からの和紙が多量に使用されていた。
 琉球内で使用する紙は、輸入された唐紙や和紙は重要文書に、楮木(カビギー)で漉かれた琉球製百田紙も首里王府の公用紙として使用された。芭蕉紙は、地方文書や下書き・控え文書や家内文書として広く使用されている。
 現代の私たちにつながれた紙の文化もある。沖縄の工芸世界でも多くの紙が用いられ、色鮮やかな文様を描く紅型は、下絵や型紙に渋紙を使用。漆工芸の世界では、漆を濾す吉野紙、その他にも芭蕉紙などを用いる。戦前まで首里を中心につくられていた藁紙「打紙」(紙銭)は、藁や古畳や莚を川の水に浸し、それを原料に漉いた黄藁紙に銭型を打ちつけた紙で、死後の世界のお金として沖縄の生活に定着した。お盆や年忌など祖先供養の祀りの際に焼かれる打紙は、今日でも一般的に使用され、沖縄の紙文化の中で生活に広く根ざした紙といえよう。紙銭を焼く文化は、中国を起源に台湾や香港などでも見られる習俗であり、沖縄の打紙文化も東アジア・東南アジアの文化とつながっていることを確認できる。
 沖縄の島々で作られていた杉原紙、百田紙、宇田紙、から紙、美濃紙、芭蕉紙、奉書紙、高檀紙、藁紙などの紙について、そして島々で使用された多様な紙文化を私たちはどのくらい理解しているのだろうか。亜熱帯の豊かな自然が育んだ「紙の島」の風景は、今日の私たちが忘れてしまった島々の大切な記憶である。その研究成果も充実したものではない現状があり、多くの課題が残っている。
 沖縄の紙の文化について、琉球紙の歴史、唐紙文化、近代の紙文化、素材、技術、修復保存、東アジアとの文化比較などの視点から捉えることから「沖縄の紙資料から見えてくるもの」を確認したい。その作業は始まったばかりである。
                                 「沖縄の紙を考える会」事務局

Photo_4 *公開シンポジウム「沖縄の紙資料から見えてくるもの」は、2006年8月15日(火)~9月10日(日)の期間、浦添市美術館で開催された「沖縄の紙の世界500年ー古文書からアートまでー」(主催:沖縄の紙を考える会、浦添市美術館)の企画の一つでした。30人の作家が作品を展示したほか、張子玩具製作や紙漉体験などの企画の一つで開催されました。
以下シンポの構成です。講師は2006年9月段階を使用。

*日時 2006年9月2日(土)午後2時から *場所:浦添市美術館
*内容
 挨   拶 前田考允(浦添市美術館館長)
        朝岡康二(大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事)
 基調講演 上江洲敏夫(沖縄県文化財保護審議貝専門委員)「琉球紙の歴史」
 研究発表 富田正弘(歴史:富山大学教授)「琉球の文書資料について」
        大川昭典(技術:前高知県立紙産業技術センター技術部長)「琉球紙の素材」
        藤田励夫(文化財科学:九州国立博物館保存修復室長)
              「紙資料の修復・保存について」
        真栄平房昭(歴史:神戸女学院大学教授)「唐紙について」
        小野まさ子(歴史:沖縄県史料編集室主任専門員)「近代沖縄の紙について」
        粟国恭子(民俗:沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館学芸員)
                 「
沖縄・東アジアの紙文化」

*シンポジウム内容は2006年9月8日(金)の『沖縄タイムス』に記事掲載されました。なおこのシンポジウム企画はトヨタ財団研究助成「近代化とくらしの再発見」企画で開催されました。

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書評『神々の古層 竜宮ニガイ』

1993(平成5)2月23日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評 比嘉康雄『神々の古層10 竜宮ニガイ』ニライ社
 1989年から始まった写真集「神々の古層」シリーズの10冊目にあたる本書は、漁業をなりわいとする宮古島の狩俣・池間・佐良浜で行われている海の神へ祈願祭祀<竜宮ニガイ>をテーマにしている。海に生きる人々は、北風が南風へと変化する天候の不安定な時期の旧暦2月(佐良浜では旧11月の2回)に<竜宮ニガイ>の祭祀を行い、竜宮神に対しての海鎮めを願い航海安全と大漁への祈りを捧げるのである。
 本書の特徴は、カメラを通して著者自身の感性に触れた「竜宮の神と向き合う人々」をとらえた写真、つまり祭祀の場に身を置いた著者自身の「実感」の表現である写真と、祭祀調査の実証的データーを提供することを重視した文章とがバランスよく配置されていることである。このような著者の一つの祭祀に対して異なるスタンスを持つ写真と文章とを配置する姿勢は、「神々の古層」シリーズを通して一貫して変わらない。
 著者が「切実な祭祀」と語る<竜宮ニガイ>で正面の海に対峙し砂浜に一列に並び祈りをささげる人々の姿は、日常から離れるものではなく生活の中にある。例えば<手>の表情。参加者の供物をささげる手、線香を差し出す手、神女たちの合わせられた祈りの手、両手を胸の前に突き出し招く手、波打ち際で祭祀用の小石を一つ一つ拾う手、供物の豚を解体する男たちの手、座り込んだ子供たちの膝を抱える手、浜辺で祈願のために集まった人々のさまざまな手の表情の中に、海と距離感を置くことができない、漁業を生業とする人々の生活感情があふれ出ている。その手はふだん海とともに淡々と生活の中で動かされる手である。
 本書は、今日の主流的である事象データー記述中心の文章を重視した民俗報告に対して「人々の生活感情をより豊かに表現する方法」への論議が繰り返される中で、一つの方向性を示している。しかも1975年と1992年の写真を配置することで<変化>をとらえる視点も配慮され、民俗社会の変化の激しい現代においてビジュアル資料としての記録性の価値も高いものになっている。

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書評『フォークロアは生きている』

1994年11月1日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評『フォークロアは生きている』下野敏見著、丸山学芸図書
 
自らの足で歩き続ける。自らの目で確かめ続ける。自らの手で記録し続ける。そうした経験と集められた成果は、積極的に世に問わなければならない。こうした民俗学、いや社会を論ずる学問分野に携わる学者の基本中の基本の姿を私たちに示してくれる著者が、「フォークロアは死んだ」と簡単に語られることに対して書名そのもので答えた。
  著者は南九州の民俗、南西諸島の民俗調査を中心に、日本各地を精力的に訪れる。近年は中国や韓国にもその足をのばす。「神々は生きている」では、道教の森山信仰、朝鮮の堂山信仰、日本の御岳信仰、沖縄のウタキ信仰の一連の山岳信仰を比較「なぜ森山は祟るのか」の問いを考察。また「ふるさとの神々は生きている」では、南薩に広く見られる<ウッガン>信仰にふれている。ウッガンが氏神か内神かの問題。その家の祖先神かどうか問題が多くの興味深い事例で論じられる。その中で女性と男性の祖先の位牌がわけられ、女性と夭折した男子の位牌だけを神棚に祀り、正統祖先の男性だけを仏壇に祀る事例が紹介されている。
 こうした分離二重棚は、明治期に入って旧氏族の神道の家が仏教の門徒になった際、仏壇が導入されてひきおこされた現象ではないかと解釈される。仏壇や位牌の導入によって、その地域の持つ男系尊重の「家」存続観念や神・仏感覚が浮き上がってくる。
 また琉球・中国との交流の中で入ってきた航海の神である媽祖(天妃)信仰が、氏神信仰としていきている事例も興味深い。久米島の天妃と似ているボッサドン(菩薩殿の意味)と呼ばれている媽祖像が薩南の山村で今も人々を見守っている。
 その他「琉球の男の祭りと女の祭りーシヌグ・ウンジャミ考―」では、沖縄もヤマト的な男性主導型の祭祀から、大航海時代ごろから沖縄式のウナリガミ的宗教へと変遷したのではとの視点も提示。また、甑島・蒸籠などの民具から<日本の蒸し器>文化を扱う新しい試みも特筆すべきであろう。
 沖縄民俗のさらなる理解のためこのような奄美・南九州の民俗に触れてみたらいかがであろう。 <鹿児島大学院時代の恩師・下野敏見先生著作>

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韓国の史跡ー浦添城跡との関連を求めてー

1995年(平成7)年10月19日(木)『沖縄タイムス』掲載

「韓国の史跡―浦添城跡との関連を求めてー」
 
韓国は、沖縄から距離的にそれほど遠い国ではない。那覇を中心に同心円を描くと、関西地方程度の近さである。1995年を「戦後50年」の節目として迎え、多くの平和事業が催されている沖縄から、「解放50年」として迎えた韓国へ。同じ時間の長さが沖縄とは違う意味を持つその国の風を私は受けたかった。韓国への旅は浦添市の文化課が主催した「沖縄と韓国の城郭・建築比較調査」一行に参加しての訪問であった。13世紀の琉球と朝鮮との交易が盛んに行われた歴史的な背景と浦添城跡から出土した高麗瓦の手がかりを求めている。現在の城郭は私たちに何を語りかけたのか。深く印象に残ったのは首都・ソウルにある李朝王宮の景福宮である。
 この王宮は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略の際と、1910年の日韓併合後の<日帝時代>と二度、日本から破壊を受けた歴史を持っている。王宮内に日本の朝鮮統治の「司令塔」である旧朝鮮総督符庁舎(現、国立中央は区部中間)は建っている。鉄筋5階建てのネオ・ルネッサンス様式の建物は、代表的な日本近代建築としても知られている。
 1916年6月に始まり9年5ヶ月の歳月をかけ1925年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、北漢山を背景にして美しく雄大に広がる景福宮の勤政殿前に建設された。建物の正面に位置する宮殿の正門・光化門は、庁舎の景観を邪魔するとして取り払われた。
 侵略され統治される側には、自らの歴史が育まれた遺産を、自らの意思で保存する力は与えられていなかった。
 日本民芸美術の父・柳宗悦は、朝鮮に対する日本の同化政策を批判し続け、朝鮮民族へ哀燐の言葉を紡いだ。植民地政策が推し進められているなか、1922年7月に「失われんとするー朝鮮建築のためにー」を書き表し、日本による景福宮の破壊を憂いている。

 「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢いに行こう。お前も私を待っていてくれ。お前を生んだお前の親しい民族は今言葉を慎しむ事を命ぜられているのだ。(罫線著者)それ故にそれらの人びとに代わって、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ。」

 現在、景福宮は韓国政府によって5年前から復元工事が進められている。3分の1が2009年までの20年間、総工費約200億円かけて復元される予定である。旧総督府庁舎の上部の採光塔が、今年の開放記念日・8月15日に除去された。旧庁舎は現在も博物館として見学できるが、1年後には全体が本格的に撤去される。
 この時除去された塔は、復元工事でよみがえるのを待つ光化門と対称的に、脇の地面に置かれ展示されていた。この建物の撤去が決定された2年前、国民の9割近くが賛成した。これほどまでに望まれた撤去であった。
 また、同敷地内にある国立民俗博物館では、近代百年をテーマに企画展が開催されていた。朝鮮における近代百年は、まさに日本の植民地としての歴史にほかならない。その中で興味深い展示があった。
 現在アジアは風水ブームの中にある。朝鮮総督府は、朝鮮の風水を研究し、風水理論で建設された王宮が持つ場所の力ち権威を失わせるために景福宮の前に総督府庁舎を建設している。その研究成果が総督府が1931年に出版した『朝鮮の風水』である。
 日本軍によって龍脈(風水でいう気の流れ)が走る山々に深く打ち込まれた鉄の杭は、すべての龍脈にエネルギーを復活させ、韓国の地に活力をとの願いから今年の8月に韓国の人々によって撤去させられた。その模様と鉄の杭が展示されていたのである。
 今年の景福宮は、近代百年と日本からの解放50年を確認するための空間であった。観光で訪れた人々に、王宮に悠久に流れたであろう時間の中の百年間を強烈に浮かび上がらせ、同時に現代の韓国の人々の意識を提示させていた。
 現代の韓国の人々が城郭を通してどのような意志表示をしたのかを、それを支えるエネルギーの意味を受け止めるには、静かで雄弁な空間であった。
 浦添をはじめ沖縄の各地の城跡は、戦跡としての性格をも持っている。歴史を物語る空間、そして今日的な演劇や祭りを取り込んだ新しい文化創造の空間として、その整備保存・活用が検討されている。
 いずれにしても、現在の私たちの鋭い問題意識を漂わせることができなければ、その空間と共に呼吸している事の実感を記憶にとどめることは難しい。

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沖縄学雑感ー内なる文化への眼差しー

1996(平成8)年6月24日(月)『宮古毎日新聞』掲載

  「沖縄学雑感―内なる文化への眼差しー」
 
私は、浦添市立図書館沖縄学研究室に勤務しながら、沖縄関係の資料収集や整理を行っている。また、地元の大学や看護学校で非常勤講師を、ここ数年勤めている。
 うりずんの季節に20歳前後の若者達と出会う。ほとんどが沖縄県・地元出身の学生達である。担当講義の内容は「文化人類学」、「沖縄の歴史と文化」などと異なる科目である。しかし、私は一番最初の講義に、いつも同じ問いを学生達に投げかけている。「①沖縄の地図を作成し知っているだけの離島や地名を書き込むこと。②行ったことのある島の名前を書くこと。」
 毎年同じような内容の沖縄県の地図が白紙に描かれて提出されてくる。輪郭もおぼろ気な白っぽい島が、不安定な位置関係を示し、平均して4から5の地名が記入されている。3ヶ所以上の島に訪れたことのある学生は50人中2,3人いるかいないかである。ほとんどの学生が沖縄本島と周辺の離島の情報を中心に描く。先島地名と位置関係をまとまって記入したのは、間違いなく先島出身の学生。しかし、この学生達も沖縄本島や周辺離島の空間は、白く残されたままである。生活空間である沖縄県に対して、日本地図、世界地図よりもおぼろ気な情報しか持ち得ない現実をどううけとめればよいのか。
 こうした結果に、最初の年は驚きもした。私以上に、彼ら自身の方が戸惑いを隠せない様子である。そんな時、彼らと同年齢だった頃の私に思いをめぐらせてみる。そこには、彼らと余り差異のない認識で精一杯の私がいた。
 沖縄県の若者たちが生活し、そして描けない空間は、毎日の天気予報、そして台風時にはより頻繁に、テレビの画像から提供され、目にする機会が少ないわけではない。けれどもその情報に対して、子供達の中に実感、つまり実在の空間として認識されていないのである。記憶さえもままならないのが現状である。
 複雑な心境で、「沖縄県は160余りの島があり、47の島で人々が生活を営み歴史や文化を育んでおり、その島々の集まりで構成されている」という、基本的なことから話始める。そして「出来るだけ多くの島を訪れ、自分の足で歩き自分の感覚で、その自然や日常生活の風景、島の表情に触れること」を学生達に提案する。その場所や社会を自身の中に実感として位置づける。それは、同時に私自身の課題でもある。
  亜熱帯の島々に悠久に流れた時間に育まれた民俗の世界が、圧倒的なエネルギーをもって、人々の日常の精神世界に息づいている。文化とは何か。それは人々の心の中に深く根ざした吐息であると思う。それは人々の深層での息遣いではないのか。その場所に立ち、息遣いに五感を感応させる。それが文化を学ぶということではないかと考えている。<内なる文化>にこそ、その感覚を研ぎ澄ますことが、<他文化>への理解の始まりではないのか。内なる場所として宮古を持っている私には、同時に様々な沖縄をいかに内なるものとして染み込ませるかが重要であろう。
 沖縄を対象とした様々な分野の研究は<沖縄学>と呼ばれている。地元の研究者も増え、多くの研究成果がある。その対象は専門性も多く、細分化される傾向にある。また、図書館には、沖縄学の内容に関する県外や外国からの問い合わせも多い。こうした研究が盛隆を極めていく一方で、<内なる場所>に触れる機会を失い、その<間取り>にすら迷ってしまう若者がいる。
 沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷は、ニーチェの言葉をかりて「深く掘れ、己の胸中の泉、余所たよて水や汲まぬごと」の琉歌を詠んだ。自分自身の立つ場所を深く理解すれば、そこには泉のように豊かな世界が広がっているという意味だ。その言葉を伝えていきたいと思う。私の沖縄学のテーマは「人々を育んだ沖縄の風景に興味をもってもらう手伝いをする」ことに他ならない。

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沖縄民俗(族)学研究史の視点

沖縄研究はいまー伊波普猷没後50年記念企画『沖縄タイムス』1997年12月2日(火)9日掲載

「民俗(族)学研究史の視点」上

 
伊波普猷は、自らの郷土研究を『古琉球』(1942年改訂版)の中で「私の沖縄学の体系化」と表現している。伊波が体系化を試みた沖縄学の分野は。主として言語、文学、歴史、民俗の四領域に重きが置かれている。
  明治期にその萌芽をみた民俗研究も、1950年代までは、民間学、在野の学としての歴史の方が長い。現在のように、人類学・民族学と同じように民俗学の講義を提供できる大学は多くはなかった。国内の大学でも、ようやく60年代以降に広がり定着している。
  この学問現場において民俗(族)学の評価が低かったことを意味しており、解明されることなく認識されていた。ちなみに沖縄地元の大学で、民俗(族)学の講義が開設され田のは、70年代に入ってからである。70年代は、民俗(族)学内では沖縄研究のピーク時を迎えていた。
 こうした状況下において、大正・昭和期に国文学、日本歴史学の中で、沖縄、アイヌの研究の重要性を取り入れたのは柳田国男や折口信夫の日本民俗(族)学成立の中心となった人々である。伊波の沖縄文化研究においても、その方法論やテーマを当時歴史の浅い人類学・民俗学という学問の場で実践する鳥居龍蔵、柳田、折口等との交流の中で受け入れた。換言すれば伊波の学問を評価したのも、台頭し始めた新しい学問であったと言えよう。このことは、日本民俗(族)学研究史の中でも、沖縄研究は早期の研究に属することに他ならない。
  その点をふまえた沖縄民俗(族)研究に関する伊波の位置づけは、平敷令治によって提示された詳細な研究史(「民族学・民俗学」『沖縄県史5文化1』75年)の中で確認できる。
  平敷は、伊波の沖縄学に焦点をあてた民俗(族)研究史区分の一タイプとして、明治期(沖縄学の出発まで)、大正期(沖縄学の進展)、昭和前期(沖縄学の円熟)の各枠組みを示した。
 その後60年代以降の沖縄民俗(族)研究の総括と展望は、日本民族学編『沖縄の民俗学的研究』(73年)、九学会連合編『沖縄―自然・文化・社会』(82年)、ヨーゼフ・クライナー編『日本民族学の現在―1980年代から90年代へ』(96年)などによって、各時代とテーマによる沖縄研究の動向と現状の課題を踏まえた形で示された。
 ここ10年間でも、沖縄民俗(族)研究の論文・著作は五百をゆうに超え、多様な研究が発表されている。内容の専門性の深まりと同様に今日の研究が扱う空間も広がった。
  伊波の没後から現在では、民俗(族)学、人類学における沖縄研究の扱う空間領域は、日本との対比だけではなく、中国や韓国のアジアの国々へと拡大され、その中で沖縄を捉える視点が重要になっている。
  その他に南島研究でも十分ではなかった先島、奄美、トカラ列島、屋久島等の島々を年頭に入れた空間へのアプローチなど、主にこのような三つの視点からの研究が行われている。
  しかし、沖縄民俗(族)研究史においては、平敷以後、十分な枠組みを持ち得ていないのが現状である。研究史からの視点では、戦後および現在に至る研究はもちろん、戦前に関しても次の問題が残されている。
①明治、大正、昭和初期の研究史の充実、②沖縄地元の郷土研究活動。ここ数年は、伊波普猷と同時期に郷土研究で活動した大田朝敷、真境名安興、末吉麦門冬、島袋全発、島袋源七、仲原善忠などの資料も発掘されている。沖縄地元の郷土研究会の変遷資料も充実してきた。
  柳田、折口が沖縄<南島>研究に取り組む以前、または同時期に別の場面で行われた民俗(族)研究の表情も輪郭が見えてきた。こうした新しい資料を再度編成し、充実した研究史が必要である。
  ③戦争と民俗の問題。沖縄研究では、沖縄戦の記録は多くの成果をあげている。人々からの聞き取り資料も充実した内容で、各団体、市町村誌(史)を通して発表されている。こうした成果と民俗(族)学はどのように取り組むのか、郷土研究と皇民化教育との関連問題も含めて議論されていない問題である。
  その他④台湾大学と沖縄研究。戦後の日本の民族学・人類学の研究に置いて、戦前の台湾大学で活動していた研究者たちの果たした役割は大きい。60年代、70年代において沖縄研究をリードしてもいる。学問の系譜と、新たに植民地と民俗(族)学とのかかわりの問題でも、大きな課題と言えよう。

  「民俗(族)学研究史の視点」下    『沖縄タイムス』1997年12月9日

  伊波普猷が亡くなって間もない1947年(昭和22)年9月、折口信夫は、「新国学としての民俗学」と題した文章を発表。その2年後には、柳田国男も当時の若き人類学者・馬渕東一、岡正雄へ沖縄研究を勧めている。
  大正期に伊波を郷土研究に導いたように、戦前台湾大学で文化人類学の理論と視点を学び、アジアへの関心を注ぐ馬渕らを沖縄へと導いたのである。そして柳田は、自ら主宰する民俗学研究所において沖縄調査を企画し、宮古・八重山調査を組織的に推進したのである。
  こうして沖縄民俗(族)研究が、<内なる文化>である日本と沖縄を捉える民俗学と、研究対象を<異文化>に求める民族学の両方の立場から行われるようになった。
  その後1960年代以降に発展し定着したアカデミックとしての沖縄民俗(族)研究は、県内外研究者の増加と、文化人類学、社会人類学、民俗(族)学など独自の視点での研究テーマが広がった。
  沖縄社会研究としての親族(門中)研究・家族(家)研究(村武精一、比嘉政夫、津波高志ら)の社会構造・機能分析や宗教研究では、祭祀研究のオナリ神研究(馬渕)や祖先祭祀、位牌祭祀の研究、シャーマニズム(ユタ)研究、外来宗教研究などが展開されてきた。著作・論文数においては、かなりの研究成果を蓄積してきた。現在では、ドイツやフランスのヨーロッパ地域やアメリカ、そしてタイ、インドネシア、韓国、中国のアジア諸国との共同研究も盛んである。
①アジアへの視点。沖縄民俗(族)研究をアジアの枠組みへ導いたのは、やはり蓄積の多い宗教研究の分野であった。その中でも「風水」研究(渡辺欣雄、玉木順彦ら)、「道教」研究(窪徳忠)、「儒教」研究(平敷令治の位牌祭祀研究)、「シャーマニズム」(佐々木宏幹、山下欣一)の研究は、中国・韓国などの東アジアとの比較で成果をあげた。
  宗教研究と同様に、先に述べた沖縄社会研究の各分野で、ここ二十年で学際的にも国際的にも広がりを持った展開がなされている。
  最近では、②医療と民俗(族)研究も活発である。現代社会が抱え込む様々な問題と、民俗(族)研究が対峙する時、医療分野関連のテーマと共に議論されることが増えた。現代ストレス社会を反映した「癒し」をキーワードに従来の宗教、民俗研究成果が議論され、また長寿社会・沖縄の文化を「老い」「死」のテーマでも研究が行われている。
  また③多くの離島で構成される沖縄の「都市化」と「過疎化」の問題は、次のテーマで語れるようになった。都市化された場所での墓地不足、家・祭祀継承の揺らぎ、女性の社会的権利と位牌継承問題(トートーメー問題)。多くのシンポジウムが開催され、幅広い議論がなされている。伝統祭祀保存問題(宮古の神役)について。研究・助言から実践に向けて、研究者が積極的にかかわる新しい局面も出てきた。
  ④<民族問題>。現代の民族・人類学では、エスニシティー、民族問題、独立論をテーマにした研究も多い。村井紀『南島イデオロギーの発生』『大東亜民俗学の虚実』が著されているが、沖縄民俗(族)研究ではこれからの課題といえよう。
  同様に⑤産業―観光人類学。新しい祭り(エイサー大会、トライアスロン、ふるさと祭り、首里城祭りなど)と「地域おこし」「観光」などの視点から、社会学との学際的研究も必要であろう。⑥民族文化の記述(地域史編纂事業から)の問題。本土復帰二十五周年を迎えた今年、現代にとっての<民俗>を記述することは、どのような意味を持つのか。
  地域史研究が盛んになり、その成果としての多くの自治体が市町村史(誌)編纂事業を推進している。現在では、よりミクロな共同体の歴史編纂への取り組みも盛んで、多くの字史(誌)が編纂・刊行されている。各市町村とも刊行冊数はそれぞれ異なるが、いずれも人々の日常生活を記録した民俗編(章)は、かなりの紙面が割かれ記述されている。
  こうした多くの民俗資料が盛り込まれた「地域史」刊行物は、内容の質の高さと比較して、目次内容が画一的な項目で構成されることが多い。市町村史(誌)編纂事業の先駆的役割を果たした那覇市史、浦添市史等の目次項目が、他の市町村への民続編へも踏襲されている現状がある。
  半世紀前の戦後から25年前の本土復帰当時、復帰後の沖縄の生活時間は急激に変化し多様化した。こうした時間への配慮が十分に検討されている現状ではない。社会文化の急激な変化に対して、文化(社会)、人類学、民俗(族)学、社会学の各分野は<文化変遷>のキーワードを通して、理論化、議論検証を続けてきた。記述として定着した地域史(誌)の民俗編の構成する時間枠を、そろそろ変える時期ではないのか。沖縄・地域独自の切り口と共に、民俗(族)研究者が早急に議論し、提言すべき問題である。
  今年開催された学会で、ある人類学者から「人類学の沖縄研究に未来はあるのか。現況では危うい」と叱咤にも似た刺激的な提示があった。このような90年代以降、現代において迷走する沖縄民俗(族)研究を指摘する現場の声もないわけではない。膨大な研究論文成果を持つ沖縄民俗(族)研究葉、成果も大きいが、残された課題も巨大である。

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沖縄の金属工芸文化

2003年2月「沖縄タイムス」掲載 南風原文化センタ-企画展「黄金細工と鍛冶屋(くがにせーくとかんじゃーやー)―打つ・曲げる・磨く・匠みの技―」案内


 「沖縄の金属工芸文化ー金細工ー」

 
 沖縄文化の伝統工芸分野の沖縄文化を語る時、どれだけの人が金属工芸文化に思いをよせることができるだろうか? 沖縄の伝統工芸の漆工芸、染色文化の紅型や島々に残る織物、焼き物については、沖縄の伝統工芸として内外に認知され、後継者育成をはじめ専門家による研究も成果をあげている。しかし、その中にあって金属工芸及び鍛冶の伝統技術は、紙漉き技術と同様に急速に失われつつある。現在その技術は、わずか数人の職人によって製作活動が行われている。金属文化を研究テーマにする研究者も極端にすくない。
 金属に熱を加え打つ、曲げる、磨くその技術で製作された生活用品、装飾品、農具の製作、武器、建築装飾品が沖縄の歴史に登場する時期は、314世紀のグスク時代に確認できる。世界遺産に登録された首里城をはじめ大型グスクから、刀、武具装飾品、簪、鏡、香炉など銅製品、釘などの鉄製品と多種の金属製品が出土している。
 
沖縄では、金銀を扱う金具師(チングシ)は黄金細工(クガニゼーク)とも呼ばれ、錫細工(シルカニゼーク)といい銅・真鍮細工をかねている。金属細工技術および職人は、鉄を扱う鍛冶や琉球漆器を生み出す技術職と同時期の16世紀後半には首里王府編纂『球陽』(1745)や家譜資料の文献資料に登場する。金銀錫銅をあつかう金属細工職人は、鉄をあつかう鍛冶職とは異なる技術の認識が古琉球期から確立されており、琉球王府の中で技術職として組織化されていた。つまり沖縄文化の金属技術は、古琉球期から近代まで脈々と生きてきた世界である。
 
この技術文化に陰りが見えるのは、琉球王府の消滅から近代にかけての社会変化だけではなかった。沖縄の金属文化が急激に衰えたのは、第二次世界大戦が契機であった。実は、伝統技術と沖縄の社会との乖離は現代の問題なのである。熱を加えると溶解し、新たな道具に容易に生まれ変わる金属の性質は、戦争と全く無関係ではない。戦時色の濃くなった1941(昭和16)年には、日本全国に金属を献納することを奨励する法律が適応されている。こうした金属献納の運動は、沖縄でも展開された。1944(昭和19)年には、「簪報国」運動の成果として、沖縄だけで短期間に7千数百本の簪が献納されている。この時期に、簪・指輪の装飾品、その他にも金属製の盃などを献納された。また、沖縄戦では多くの金属製の文化財が焼失したり、戦後に海外に流出した文化財も多数存在する。こうした時代的な背景は、沖縄の金属文化を急激に変化させ、金工研究の素材が、他の工芸品と比較して少ない一因にもなっている。
 
1960年代、沖縄を訪れていた浜田庄司が壺屋散策中に金鎚の音に導かれて金細工またよしの六代目又吉誠睦の工房に立ち寄った。時代に応え宝石入りの指輪加工を中心としていた又吉に「もう一度琉球人に帰ってくれ」との浜田の一言に端を発し、芹沢銈介所有の辻にあった古い指輪もとに棟方志功が図案を起した。それをもとに、沖縄の金細工職人又吉が必死の試行錯誤の結果として、指輪の一つである結び指輪はよみがえったのである。
 また現在、結び指輪の系譜をたどろうとしても容易ではない。金細工職人で誠睦の息子・又吉健次郎氏がいろいろな人から聞き取りを行い、「遊郭・辻町の女達が身につけ、時には質屋の質草に利用していた」指輪の表情を確認している。士族層の婚礼指輪であった吉祥の七飾りのついた房指輪は、昭和十一年に琉球芸能東京講演で舞踊家・玉城盛重が起用したのが始まりで、現在でも踊り手にゆらゆらと揺れている。
 
現在、金属工芸で継承されている技術は、銀を主体とした素材で指輪、房指輪、簪などの装飾品が中心である。錫製酒器や島々に残る銅製品を生み出した細工技術は途絶えてしまった。金細工職人が作る簪や指輪などの装飾品の多くは、琉球舞踊の踊り手たちや個人の需要に支えられて製作されている。古い技術は、社会の需要がなければその役割を変化させていく。それらは途絶えること無く現在にいたった技術ではなく、ある人物と職人との出会いのドラマから復活したり、職人の志と熱い情熱から継続させた結果がその技術の系譜を繋いでいる。鉄を中心に製造をする鍛冶屋の技術も同様である。
 
私達は、沖縄の歴史が育んだ金属文化の豊かさを十分に知ってはいない。沖縄文化の重要性をうたう声の多い昨今、ささやかに繋がれた技術の<知>の奥深さに向き合う姿勢が問われている。                                 

南風原文化センタ-企画展「黄金細工と鍛冶屋(くがにせーくとかんじゃーやー)―打つ・曲げる・磨く・匠みの技―」

 2003年225日(月)から310日(日)
*実演…33日(日)・10日(日)午後3時から5時まで
 講演会…39日(土)午後3時から5時まで
 
「沖縄の金属文化」粟国恭子
 
「私にとっての金細工」又吉健次郎(金細工またよし)

展示内容:簪、指輪、房指輪、製作道具類、新聞、文献、写真、復元資料など

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末吉安恭(麦門冬)関係参考文献

<   <末吉安恭(麦門冬)関係参考文献―1982年以降―> 作成:粟国恭子

1)鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』(二分冊)1982、岩波書店
2)仲程昌徳「末吉麦門冬」『沖縄大百科事典』中巻、1983、沖縄タイムス社
3)新城栄徳『琉文手帖 文人・末吉麦門冬―没60年―』1984、琉文庵
  
*伊波眞一の「解説 末吉麦門冬と新聞」と詳細目録
4)粟国恭子「末吉麦門冬と民俗学」(沖縄民俗学会9月例会発表)1991年9月
5)粟国恭子「末吉安恭(麦門冬)の民俗的視点」『地域と文化第68号』1991年12月ひるぎ  社、1984年以降に見つかった大正年間の新聞から伊波眞一の目録に追加文献を紹介。
6)粟国恭子「末吉安恭(麦門冬)と伊波普猷」『地域と文化第72号1992年8月』ひるぎ社

7)粟国恭子「国粋主義の周辺と沖縄-真境名安興の活動を中心に」『浦添市立図書館紀要№5』1993年、浦添市教育委員会
8)粟国恭子「人物列伝・沖縄言論百年-末吉麦門冬1~36」『沖縄タイムス』1994年8月11日~9月30日
9)粟国恭子「南方熊楠と末吉安恭(麦門冬)の交流-『球陽』をめぐって」『地域と文化第91・92合併号』1995年2月
10)粟国恭子「岡崎との交流-志賀重昂の沖縄関係目録』『浦添市立図書館紀要№6』1995年、浦添市教育委員会
11)粟国恭子「南方熊楠所蔵「球陽」調査報告」『熊楠ワ-クス創刊号』1996年、南方熊楠邸保存顕彰会、7月31日発行
12)粟国恭子「発見された「球陽」-南方熊楠書庫の写本」『沖縄タイムス』8月5日~7日13)粟国恭子「南方熊楠と麦門冬」『文学第8巻第1号』1997年1月、岩波書店
14)粟国恭子「伊波普猷と浦添と沖縄学と」『浦添市立図書館紀要№8』1997年3月、浦添市教育委員会
15)粟国恭子「伊波普猷と末吉麦門冬(安恭)の交流」『浦添市立図書館紀要№8』1997年3月、浦添市教育委員会
16)原田あゆみ「鎌倉芳太郎の前期琉球芸術調査と芸術観の変遷」『沖縄芸術の科学』第11号、1999年、沖縄県立芸術大学附属研究所
17)神坂次郎「俺は夏草麦門冬―末吉安恭―」『歴史街道』3・4・5号 2002年、PHP研究所 *粟国資料提供 連載は『南方熊楠の宇宙―末吉安恭との交流』2005年、四季社で刊行。
18)久貝典子「鎌倉芳太郎の琉球芸術調査(上)」『沖縄文化』第38巻2号通巻96号、2003年、『沖縄文化』編集所
19)池宮正治「南方熊楠宛 末吉安恭書簡について」『南方熊楠の学際的研究プロジェクト報告』2004年、奈良女子大学人間文化研究科
20)小峯和明「南方熊楠と沖縄学」『南方熊楠の学際的研究プロジェクト報告』2004年、奈良女子大学人間文化研究科
21)池宮正治・崎原綾乃「南方熊楠宛 末吉安恭の書簡」『南方熊楠の学際的研究プロジェクト報告』2004、奈良女子大学人間文化研究科  *解題:崎原綾乃
22)小峯和明「熊楠と沖縄―安恭書簡と『球陽』写本をめぐるー」『国文学第50巻8号』2005年8月号、学燈社
23)飯倉照平『南方熊楠』ミネルヴァ日本評伝選、2006、ミネルヴァ書房

1982年以前には、岡本恵徳、大城立裕、新城安善、島袋盛敏などが文章で触れている。詳細は3)新城、1984。

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時代の空

1995年12月10日『沖縄タイムス』掲載「随想ーエッセイストー」欄原稿

      
時代の空

 
「あの雲を消して見せましょう。」
 透明感のある夕日で美しく染め上げられた空を指差しながら、その人たちは伝えました。 秋の日に、ぼんやりしたい気分で訪れた海辺です。釣り人もいれば、寄り添う恋人たちや犬を散歩させる人、それぞれに過ごす夕暮時のことです。
 その人達は、少しの緊張とはにかんだ表情で語りかけました。ある力で体の不調な部分の症状を軽くするために勉強をしていると…。そのために協力をしてはもらえないかと…。一人の若い女性は、その団体に参加することで、原因不明の視力低下と歩行困難を克服したという自らの体験を、眩しい程の明るい表情で話しました。私からの矢継ぎ早の質問に、「0だと思いましたか。宗教ではないのです。参加は無料です。」との説明の言葉が選ばれました。
 私達のまわりでは、<宗教>という言葉から離れようとする流れが渦巻いてます。
 <信じること>に向きあう事を戸惑わせる時代になってしまったのでしょうか。<信じるもの>を持つ存在と、持たない存在の間で交わされた言葉の中に、何よりも先に、疑いと非難の気配を読み取ろうと互いの心が動いています。美しい自然の舞台の上での不自然な心の動き。
 人の価値観や生きることのエネルギ-は、その人だけものです。ちっぽけな私の意識などでは捉えられない、それぞれの深淵を隣人には持っていてほしいと思います。何者にも侵すこと出来ない互いの奥深さを、そしてそれに支えられた宗教を尊いと信じられる時を迎えたいと願わずにいられません。質問は非難の言葉ではないことを伝えられぬまま、沈んだ気持ちで彼らの祈りの姿を眺めました。
 傍らでは、釣り人の投げる擬似餌が、大きな弧を描きながら何度も何度も海面に吸いこまれていきます。受け取った案内のチラシを鞄にしまいこみ、どこへともなく消えていった雲の行方を思い見上げた空。夕闇近い彼方から陸に向かって爆音と共に残こされた飛行機雲は、この空からいつまでも消えることはないのでしょうか。生まれては消えていく表情豊かな自然の雲の合間に、黒々とした残像を抱えこんだ空が、私達の見続ける時代の空なのか。
 私の耳元で呪文のように響いた言葉は、いつの間にか表現を変え、別の意味を携えて私の中でささやかれていました。「あの雲を消してください。」

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異人たちの夏

平成8年度(1996)9月22日『沖縄タイムス』「随想ーエッセイストー」掲載

         異人たちの夏

 異人になるために夏を過ごしてきた。
 城壁を隔てた向こう側には、アラブのざわめきがあるという。青過ぎる空の下、ジュラバをまとった老人が通り過ぎる”赤い街”マラケッシュから便りが届く。ある年には、「明日から数日蘭嶼へ渡る予定だ」と台湾・台東の宿や、ドイツや中国からの便りだったりする。
 リゾ-ト観光地を訪れる旅は、どちらかというと用意された非日常の場所を、短い滞在期間だけ自らの場所として独占する楽しみに他ならない。それは、新しき空間との限りない融合が最大限に許される時間へ移動できる幸福だと思う。
  学生の頃、文化人類学に触れた私や友人達は、静かな思考を楽しむより、ただ肉体を使って歩き出すことを覚えた。空間を手に入れる旅ではなく、訪れた場所との微妙な緊張感を覚えるためにただ歩く。
 それは、内なる場所から離れた時、〈文化の違い〉と呼ばれるものへの不快な違和感を消し去る事や、自らが変化し溶け込む事が、その社会を理解する為の最良の方法だという幻想を消し去る作業に近い。「異なるままに向き合う」中から立ち上がる圧倒的なリアルさを感じること…。ただの偉人として佇む日常の場所へ近づくために歩き続きけている。
  あいまいな異人にしかなれないから、また歩く。
 どこで立ち尽くしているのか予想もつかない友人からの便りを受け取るたびにそう感じ
ている。
 私は、お盆の風景を小さな島々で眺めることが多かった。帰省客であふれた船の中、準備の買物客で賑わう市場に身を置いた。暑さの中、迎える祖先もいない墓地でしばらく過ごす。初めてのお宅で仏壇に手を合わせたりする。
 こうしていても、私の〈盆〉は行われることはない。
 「どちらからですか?」と声をかけられる奇妙な存在である。「沖縄からです」と答える事を幾度となく繰り返した。「ご縁があったら又遇いましょう」と穏やかに笑い、ゆら
ゆらと去っていく年寄り達の後姿。こうした何でもない出来事に、自身と祖先のことを、
故郷のことを強烈に思った。
 この夏は、数年ぶりに故郷でお盆を過ごした。春先に他界へ旅立った家族を迎えるために…。異人にならない場所の風景は、のんびりと穏やかに心に染み入った。

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石川賢治『月光浴』

『月光浴』石川賢治・小学館ー『琉球新報』「晴読雨読」1996年掲載ー

 
遠ざかる台風の風がまだ地上で楽しんでいる天候の悪い日に、飛行機を利用した。重たい色の厚い雲を突き抜けてかなりの上空まできた時、読書していた視線をなにげなく窓の外に移した。そこには空中にただ一つの満月が明るく輝いている光景以外みることが出来なかった。そのシュ―ルな光景を見ながら天気とは何なのかを考え、照れた笑いがこぼれた。
 月と太陽とを比べたら、月を眺めることを嗜好する方に入るようだ。暗やみに切れ目のように現れた猫の爪に似た細すぎる月も、肥大した円形がその光りの重さで今にも崩れてしまいそうな十六夜の月も好きである。月を追いかけてドライブをする夜も多い。ちなみに今年の私の手帳は、新暦はもちろん旧暦と毎日の月の位相(絵)が入ったもの。これまでになく楽しい一年の時間を手にしているような気分である。
  何かに魅せられ続けること、そして何かを視続けることは、善し悪しや価値・益の有無を超えた部分で支えられている。写真家・石川賢治は、魅せられた月とおだやかに対話をする。出版されたばかりの写真集『月光浴』を手にした時のやわらかな気持ちは、6年程時間が流れた今も変わることはない。太陽の光のわずか45万6千分の一の月の光りだけで撮影された写真の世界は、ささやかな批評の言葉さえも騒音にしてしまうのではないかと思う程、静かで美しかった。薄闇の中硬質な月の光に映し出された風景や花は、その色を保っており、眠りにつかない自然の姿である。その後、この写真家の世界が、雑誌やテレビで紹介され、写真集と同じように撮られた石川氏のCM作品も流れていたが、深々とした夜に月の光りと向き合った自然の姿の前では、人工の音楽も言葉も活字も、少しうるさい印象であった。
 「昔の学生は、満月の夜にも本を読んだ」のだとお年寄りが時折話してくれる。こうした経験談は、強ち誇張されたものではないことを、以前豊年祭りで八重山・小浜島を訪れた時に実感した。連日続いた祭りのフィナ―レは、満月の夜一晩中を通して行われた。夜が更けるにつれ祭りは勢いづく。そのエネルギ―を増し疲れを知らない島人と違って、怠け者の私は休憩が必要になった。偶然知合った島在住の絵本作家・秋野さんの家でしばらく休ませていただいた。”海”と”空”の名を持つ幼い二人の兄妹が、月の光の中で日課の行水をしてはしゃぐ姿をぼんやり眺めながら、恋の成就を願う女性が月の光の中で神に祈る光景を歌った八重山民謡・〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の世界を思った。真夜中の2時頃、40分程歩いて、祭りの行われている部落へと戻った。周囲に人家も無く、満月の光だけを頼りに砂糖黍と牧場の広がる島の道を歩く。虫の声と蝙蝠の羽音がBGM。足音が眠りを脅かしたのだろう牛が目を醒ましこちらを見ている。祭りの行われている部落からの太鼓・歌声が風に乗って聞こえてくる。月の光は煌々として美しく自然の色彩も浮かび上がらせる。歩きながら秋野さんからいただいた御夫婦の絵本『はまうり』を広げて見た。鮮やかで深い色調の珊瑚礁の海が広がっている。宮古島の浜下りを題材にした話と絵を、十分過ぎる月の光だけで一気に読み終えてしまったのである。
  私達の周囲には枚挙に遑がない程、様々な人工の光が氾濫している。このような状態中で生活する私達にとって、月の光は天上から零れ落ちる僅かなものでしかない。どの位の人が、生活空間や自然界に融けこむ月の光りについて、色やその強さを語れるだろうか。
 〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の夜が小浜島にはあった。光に溢れた都市の満月夜は、明るい様で暗いのかも知れないと思いつつ、それでも楽しく月を追いかけている。

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浜下(ハマオリ・サニツ)行事

浜下(ハマオリ)-サニツ(宮古・平良市)ー

 
観光立県の沖縄の浜辺がシ-ズン中以外に賑わう日がある。旧暦3月3日の「ハマウリ」の行事の日である。女性たちが一日浜に出て巡ってきた季節を祝い、身体を潮で清める意味で潮干狩をして遊ぶ。ご馳走の詰め込んだ弁当を持参して一日浜で過ごすのである。
 この時期沖縄は”うりずん”の中にある。冬が終わりを告げ、風向きも北から南へと変化し、自然に潤いが増して活動的になりはじめる時期である。そう何でもはじまりは戸惑うものだ。この時期の沖縄は、やわらかい太陽の日差しとさらさらとした風が吹き一年を通してぼんやりした風景を見せてくれる。季節の変わり目に時間の速度調節に少し戸惑っているように時間が流れ、季節の変わり目に無意識に戸惑う人間もまた海という自然の中に身を置きながら何かを調節しているのだと思う。
 「ハマウリ(浜下り)」は各地によってサングヮチサンニチ、サングヮチャ-と呼ばれている。もともとは沖縄各地で女性や子供達が海に出て清めと払いの目的で日がな一日遊ぶという行事。宮古ではサニツと呼ばれる。サニツの日には潮干狩りはもちろん、部落によっては浜辺での角力大会、競馬や村芝居も催された。現在のサニツの日の浜辺ではこうしたカ-ニバル的な風景は無く、潮干狩りやピクニックを楽しむ家族連れを見かける。
 宮古島・池間島の北の沖合にサニツの時期に姿を現わす巨大な珊瑚礁群”八重干瀬・ヤエビシ”がある。豊かな海の資源を育むこの珊瑚礁の東西約7㎞、南北約10㎞の広大な範囲は池間島や宮古島の漁師達の漁場として親しまれてきた。サニツの日には、さらに豊かな海からの恵みを人々がそのサンゴ礁に上陸し、その空間から海の幸を受け取れる、一年のなかで短く許された時間なのだ。
 1980年代ごろから宮古島も観光に力をいれ、ダイビングスポットとして有名になった。春に行われるトライアスロンの島としても有名になった。1990年代中ごろあたりから春の観光シーズンにこの「八重干瀬」に上陸し潮干狩りを楽しんでもらおうと「八重干瀬ツアー」がはじまった。チャーターの船便で八重干瀬に多くの観光客が上陸して楽しんでいる。ここ数年のサニツの行事を伝える新聞やテレビ報道は、この楽しむ観光客の様子を伝えることが多くなった。地元の年中行事に地元の人々ではなく、この時期に島を訪れる観光客の姿が映し出されている。地元でまことしやかに流布している話は、八重干瀬ツアー観光客が充分に採るのために、地元の漁協に海産物を確保してもらってこの時期に八重干瀬に移動置きさせるというものだ。確かに海産物は海の中で過ごすわけで生きてはいるが…。年々観光客が上陸して歩き回り、大量に海の幸を無邪気に採取すれば環境破壊にもつながる。リアルな八重干瀬ではなく、イメージを補強する操作が<観光>や<地域起こし>で行われているのが現実とすれば、現代の<浜下り・サニツ>は何を清め払うのか…。考察が必要だ。

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伊計島と宮城島と下地島

平成5年度(1993)12月共著『島々清しゃ』「伊計島」「宮城島」「下地島」執筆担当、ボ-ダ-インク

宮城島
  
  沖縄にはいろんな島がありますが、普通それぞれの島では展望台とかがあって、そこには一般的に「いい風景」がセッティングされていたりするものです。そうした場所から眺 め る風景はハズレたりしないので、「いいね-」と安心して声などを出しながら結構楽しんだりするのだけれど…。ただ場所の持つ不思議さとか、視覚に入ってくる風景からのイマジネ-ションを立ち上らせるという刺激の点で、推薦された風景には少し物足りなさを感じる性分なのでしょう。本当に何気ない風景が私をふらふら、くらくらさせてくれる場所であることを覚えてしまうと、わくわくしてうれしくて、そこが私の「島の風景」になってしまいます。いろんな島を訪れる時には、島の人々の生活や歴史を抱え込んだ要素の中で島を捉える事を大切にしたいとの思いはいつも核として持ってはいますが、全く別のレベルで「島の風景」に出会えた時にその島は私にとって特別な島になっていきます。
  平安座島・宮城島・伊計島は私にとって、実感としての空間把握というか図学理論の体感をさせてくれた島で、中でも宮城島はある種のシュ-ルさを持つ島としてとても気に入っています。直線道路の中央に引かれた線の上を一生懸命に自転車を走らせる少年に動きからはひたすら真っすぐな直線、カ-ブの多い道路が描きだすあらゆる角度と高低を描きだす曲線、ある場所で作られる不思議な円、家屋敷を囲む塀の四隅に置かれた魔よけの貝が描きだす頑なな四角、平坦な畑の中から空へと垂直に伸びた一列の電信柱からは二次元空間から立ち上がる三次元の空間をと、こんな風に島の中を歩いていると空間の中に様々な表情を持つ形に出会えるのです。
 <あらゆる角度と高低を描きだす曲線>と<強引な記号>
 私がこの島をドライブするようになって約10年。毎回訪れる度にオ-トマチック車でつくづく良かったと思う程宮城島の道路はやたらにカ-ブが多く、さらに坂道と一方通行の要素の組合せで迎えてくれます。先ずは平安座島からの直線の続く埋め立て地を走る道路から伊計島への入り口にはとんでもないヘアピンカ-ブが待ち構えています。かつて離れていた二つの島が石油基地開発計画とともに埋め立てられ陸続きになりました。外見的には陸続きかに見える両島の境界にあるこの急カ-ブが描きだす不自然な道路の線・空間がもたらす緊張感は、かつて平安座島と宮城島とが海に隔てられた風景の中で存在していた事を私の中へ刻印する効果を持っています。タイヤの軋む音を気にしながら運転し、体で感じる求心力に戸惑いながら、島から島へ渡ったんだと確認することを忘れないこと、それは「宮城島に入ります」という挨拶がわりです。同じようにこの島から離れる際にこのカ-ブを通過する時に「またきます」という挨拶がわりでもあるのです。
  この他に登り坂・下り坂のカ-ブが何箇所かありそのカ-ブを曲がる度毎に当然ながら視界に入る風景が急に変化します。今まで緑の雑木林かと思うとサトウキビ畑が広がったり、かと思うと入江の漁港と集落に変わったり、迫り出す崖下の薄暗い道だったり、突然に視界いっぱいに海が飛び込んできたりと短時間でいろんな宮城島の風景ショットを楽しむことができます。更に一方通行である区間もこうした視界に入る風景の変化をもたらす一つの装置です。ドライバ-は交通標識という記号に従って道を走らなければなりません。侵入禁止・一方通行のマ-クがあればその指示通り直進もすれば折れたりもするのです。その度に視界に入ってくる風景は強引に変化してしまいます。強引さもたまにはいいものです。例えば宮城島から平安座島へ向かって走る道路のある場所でしか、島肌にいくつもいくつも作られた石油タンクが並び近未来的な様相の基地の設備がある平安座島の表情は見ることはできません。少し道路を進むと急なカ-ブがありその後で見ることの出来るのは一面の海。まさに工業の開発問題と豊かな自然の対比を瞬間的に見せてくれたりするのです。
 車の走れる道路は一本の主要道路ということもあり、この島を訪れる人のほとんどが同じ時間の長さ同じ風景を見て、同じ順序で風景の変化を見ていることになります。交通網の充実をはかった道路整備によって島の人々の生活は便利になり、島外の人達も気軽にドライブが楽しめます。昔も今も島を囲む海も地形も変わらずそこにあるのだけれど、島の風景を眺める人々の視線にはある意味で自由な選択性がなくなり、決められたコ-スの中で与えられる風景にとても人工的なシュ-ルさを見てしまうのです。
<不思議な円>
 今ではこの島の西側の台地状の部分のほとんどにサトウキビ畑が広がっています。その中に立って周囲を見渡すと、自分自身を軸にしてパノラマどころか360度同じ風景が広がる場所があります。視線を上の方に移すと前方、左右、後方どちらの方向にも空が広がり、視線を地上に戻せばやはりサトウキビ畑の風景が、360度取り囲んでいる状態を経験することができます。自分のまわりに「空なら空」、「畑なら畑」のただそれだけの世界が広がっていると、東西南北なんていう決定された方角はどうでもよくなってくるから実に楽しいのです。この地点にいると東の空から差し昇る朝日の光も、西の空に沈む夕日の光も、満天の星空の光も、青白い月の光も、夏の真っ白な光も、風さえもこの地点ならば「どこから」という問いかけも意味をなさないというか、 答え等ありそうもないとそう思わせる場所なのです。こうした光や風はこの場所にどこからでもただふりそそぎ、ふいてくるのだろうと思えてしまうのです。この場所に辿りつくまで通ってきた気持ちのいい直線の海中道路や緊張するヘアピンカ-ブや色々な風景を見せてくれる坂道のカ-ブは行き先という方向がとても重要でした。そうした空間と方角の密接な繋がりを断ち切って一つの方向に意味があることをゼロにしてくれる不思議な場所なのです。ある日いつものようにこの場所に立っていると、たくさんの蜻蛉があらゆる方向にグルグルと飛びかっていました。そのランダムな動きがとても似合う場所で自分が点になり円が描けるこうした状態がとても心地好いのです。空間がいろんな図形を実感として与えてくれる宮城島の中でも最もお気にいりの場所で、この場所に出会うために何度も宮城島に通っているに違いないのです。


伊計島
 
 毎年春分の日を目処に、平安座・宮城・伊計島に弁当を持参してやってくる事がここ数年来の個人的な春の恒例の行事となっている。沖縄には女性達が旧暦3月3日に浜に出て一日過ごす「浜下り・ハマオリ」という年中行事があるけれど、私の場合春分の日の時期に伊計島で過ごす事を「浜下り」と勝手に決めて実行している。旧暦3月3日の「浜下り」は女性たちが一日浜に出て巡ってきた季節を祝い、身体を潮で清める意味で潮干狩をして遊ぶ。けれど私の「浜下り」は何もしないでただボ-っと海を眺めてお腹が空くと持ってきた弁当を食べ、またボ-っと海を眺めるそれだけの内容である。
 場所は多くは伊計ビ-チ。南の島の小さな入江にあるこの伊計ビ-チは大きさといい、こじんまりとした風景といい、しっとりとした海水の色といい落ち着いた感じのビ-チである。白い光がガンガン照りつける夏本番の時期をずらして訪れると、この頃のこの島の空気の色一年で一番ぼんやりしている。晴れているのだけれど少し霞のかかったようにぼんやりとした表情の場に、私の頭が1年で一番ぼんやりしている時期と重なって実に波長が合うので、思う存分ボ-っと出来るのである。シ-ズンオフのビ-チではベンチや売店や休憩小屋の整備、ビ-チ周辺の囲いの金網の壊れた場所の修理するおじさん達の姿も見えたりするのだけれど、あくせく働く様子でも無く実に風景と季節に溶け込んでいる。この時期の伊計島の周辺では”時間が止まっている”、いやこの表現ではない、そう”時間が流れるのを怠けている”そんな感じ。この時期沖縄は”うりずん”の中にある。冬が終わりを告げ、風向きも北から南へと変化し、自然に潤いが増して活動的になりはじめる時期である。そう何でもはじまりは戸惑うものだ。この時期の島は季節の変わり目に時間の速度調節に少し戸惑っているように時間が流れ、季節の変わり目に無意識に戸惑う人間もまた海という自然の中に身を置きながら何かを調節しているのだと思う。
 視線を沖合に向けると平安座島の石油基地へ石油を供給するタンカ-が停泊している。
 こうした風景は1年を通して変わることはないのだけれど、うりずんの季節の太陽が群青の海にぼんやりと柔らかく光りをそそぎ、海面がきらきらと光を反射してすべてを銀色の世界で包み込むと変わらずそこにあるものでも幻のように見えてくる。”うりずん”の中伊計島が至極の伊計島だと私は思っている。
 宮城島が空間ミラクルワ-ルド状態の島ならば伊計島は摩訶不思議コピ-の島ではないだろうか。宮城島と伊計島を結ぶのは真っ赤な伊計大橋。島と島を結ぶ橋の色はどうして真っ赤が多いのか常々疑問に思っている。とにもかくにも沖縄の深いエメラルドグリ-ンの海と深い緑の島肌にこの赤い橋はとても似合うには違いない。こうした橋の上には孤独に釣り糸をたれる釣り人ワイワイガヤガヤと自転車を連ねて釣りを楽しんでいる青少年のグル-プや”橋の上から海を眺める”という定番デ-トを実践中のカップルの姿もちらりほらり。ここまでは沖縄各地に架けられた橋の光景となんら変わらない。がしかしこの伊計大橋は少し違っている。橋の両脇に「橋が泣いている交通マナ-」と書かれた交通安全標識が立っている。橋の上に駐車するドライバ-向けの標識なのだけれど、「この橋泣くんだ~」と思うと「いつ?どんな風に泣くのだろう。涙の色はやはり真っ赤なのかな?」と他愛もない事を考えてしまう。
 コピ-というと、勝連半島と平安座島を結ぶ海中道路へ入ってくるには「時は金なり屋慶名青年会」のコピ-と「ビックタイムリゾ-ト伊計島レストランイチハナリ」と書かれた大看板を必ず目にするはずだ。看板の大きな矢印に導びかれ勝連半島から海中道路を通り平安座・宮城・伊計の一つの”脈 ”が流れている。”脈”の流れがどこへ向かっているのか、伊計島の先にある場はここしかない。ビックタイムのコピ-のリゾ-トのホテルである。夏のシ-ズン中そのホテルのレストランで耳にした会話。リゾ-ト客が夕食のごぼうス-プの作り方を丁寧に説明しているウエ-タ-に「来年もまた来るから、来年は蜂蜜をたくさん入れた苦瓜のドリンクを作っておいてね」と愛想良く話しかける。「かしこまりました」と丁寧に答えるウエイタ-。両者ともお互いに礼儀を外してはいない。けれど地元の私などから言わせると苦瓜ジュ-スぐらいすぐ出来そうなものなのに…と小首を傾げてしまった。「翌日の食事ではなく、来年のメニュ-の会話をする客」と「その注文を丁寧にうけるウエイタ-」。本当に来年その客が来て苦瓜ジュ-スを本当に注文するかどうかはここでは問題でなはい。来年という時間が客と従業員との会話で成立することがまさに「ビックタイムリゾ-ト」のコピ-の世界だと思った。看板に書かれた大きな矢印から発した”脈”の実態はどうもサ-ビスという呼ばれるものだったらしい。


下地島

 
宮古島は一番高い場所で109mと本当に平たい島で海にへばりついているようにも、ゆらゆらと海に漂いながら浮かんでいるようにも見える。宮古島の上空に近付いた飛行機の窓から覗くと海面に三角形のシ-ルを貼りつけた様でもあり…、隣の座席に小さな子供が乗り合わせていたら「この島はね、指でつまむと簡単にめくれちゃうんだよ」と真顔で罪深い大嘘をつきたくなるような、そんな風な島である。宮古島及びその周辺の離島も同じようにさほど高くはない。高さを感じないこの島で暮らす人々のイマジネ-ションは、高さを求めて膨らみはしなかった。例えば”この世”とは違った場所を、より高い所へと求める志向は生まれなかったのである。イマジネ-ションの流れはどこへ流れたのか。宮古島の神秘は、沖縄の島々と同じように海の彼方はもちろんだがその他に穴の中、つまり地底の方へ下へ下へと降りていくものであった。「穴への志向」とでもいう他界観が確かに存在する。穴から誕生するモチ-フの来訪神もあるくらいなのだから。
 穴。下地島には直径50m以上も巨大な穴があいている。しかも二つも…。”通り池”と呼ばれているこの巨大な穴を初めて見たのは小学校の頃。断崖の端に立って覗き見るその場所で、通り池というネ-ミングに「”池”なんかじゃない。これは”穴”だ。」と思った。案内の人が最初にしてくれた説明は二つの池?の大きさから始まり、深さ40㍍もある海の色とは微妙に違った深い青色半分は真水で半分は海水だということだった。そしてこの二つの池?は眼に見えない深い場所でつながっていて、更に海にもちゃんとつながっているということだった。多分”自然の造形”という観点から子供に理解を求めたのだろう。そして石を投げて見るとどの位深いのか解るとアドバイスされ、その通りに石を放り込んだ。群青よりも深い色合の水底へ白い石がゆらゆらと揺れながらゆっくりと落ちていくのが、かなり長いこと見えた。私は石を投げた事をものすごく後悔した。いつまでも白い石の落ちていくのが見える想像以上の透明度に惹かれるというより、その深さを気味悪いと感じた。その気味悪さは、通り池にまつわる「継子いじめ」の伝説を聞いた瞬間に恐怖に近いものとなった。多分大人はこうした感覚を神秘と呼ぶのだろう…。「こわい」気持ちいっぱいの私がその後案内されたが、通り池の近くに”ナベ”と呼ばれる摺り鉢状の穴であった。またしても穴…。ここはイラブ鰻がたくさんとれる場所だと説明され、蛇に近い生きものが穴いっぱいに群れている光景を想像するだけで「こわい・こわい」気持ちは固まってしまって、「鍋の蓋はどこにあるのかね-ハハハ」と笑っている大人の冗句には全然反応することが出来なかった。その時から現在に至るまで、巨大な穴の水の底にゆらゆらと白い石が落ちていく夢を何度見たことだろう。
 今では下地島周辺の海や通り池は、沖縄でも知る人ぞ知るダイビングポイントとか…。美しい珊瑚礁や通り池の構造等楽しめるのだそうだ。とにもかくにも底へ底へと降りていく事が下地島の印象なのである。
 昔から牛馬の放牧地として利用され、生活を営む人の少なかったこの島に1979年に国内で唯一のパイロット訓練飛行場が出来、パイロット達の家族の住宅宿舎が建設され、若干ではあるが人が住むようになった。飛行場が出来た当時は、不便な島の生活かと思えばさにあらず、下地-東京、下地-大阪、下地-福岡間の飛行訓練時に家族達も便乗して、そちらの方で生活用品等を買物をしてくるらしいという噂がまことしやかに流れていたけれど…。多分に事実ではないこの噂は、大小の島々が集まった沖縄という島社会の中でも住む人の少ない下地島に、最先端の技術の装備された空港が出来、沖縄出身以外の人々が住むようになった事へのある種の戸惑いだったのではないだろうか。今では地元の航空会社が沖縄本島間の路線を確保し、人々を運ぶ窓口となったこの島は、底へという降りるだけではなく、空という登るという高さの要素が新しく加わった。観念は下降し、現実の身体は上空で移動する、これが私の下地島像である。

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