幻空叢書

近代沖縄の芸術研究①ー末吉安恭と鎌倉芳太郎ー

Photo_16 2006年度の沖縄県立芸術大学附属研究所紀要『沖縄芸術の科学』第19号に「近代沖縄の芸術研究①ー末吉安恭(麦門冬)と鎌倉芳太郎ー」の文章を書きました。
 末吉安恭に触れた文章は、10年ぶりぐらいです。2006年度沖縄芸術大学附属研究所公開講座「鎌倉芳太郎をめぐる人々、場所」シリーズの粟国担当の「鎌倉芳太郎と末吉安恭」(11月17日)の内容をまとめたものです。全文掲載は長文のため掲載せずに、以下構成のみお知らせします。
 はじめに、
1、末吉安恭(麦門冬)の人となり
  1)博覧強記な個性
  2)友人達の安恭像
2、末吉安恭の文化観ー近代沖縄文化研究の一翼ー
3、鎌倉と安恭ー二人の交流時期ー
<末吉安恭(麦門冬)関係参考文献・資料1982年以降>

| | コメント (0)

うりずんの季節ー水底の白い花

 ー2007年5月16日(木) 梅雨入りの日に想うー
 暖かい南国にも、季節を表現する美しい言葉があります。海を渡り、島をなでる風が北の方から吹くのか、南の方から吹いてくるのかで、南島の季節は変わり島々の表情は異なります。
 沖縄では、旧暦の3月頃の南風が吹き始める季節を「うりずん」と呼んでいます。秋冬の乾季が過ぎ、梅雨の時期と強烈な南国の日差しで満ち溢れる白い夏との間に訪れる短い時間です。その頃、静かに降り続ける雨によって黒土が潤うことを、島の言葉で「ウリー」と表現します。このことから「うりずん」は<降り始め説>と、潤いをたっぷり含んだ自然の豊かさへの<熟れはじめ説>とがあるようです。いずれにしても、豊穣の時の到来に、大地が蘇り、島々の潤いや実りを約束する意味の含まれた言葉です。
 その頃に沖縄の山々では、華麗は表情をもったイジュ(伊集:姫椿)の花が、水分をたっぷりと含んだ山肌を白く染め上げます。
 あたかも深き緑色の水底に咲きわたる風情の清純なこの花は、沖縄の言葉で綴られる琉歌にも次のように詠まれています。
 「伊集の木の花や あんきょらさ 咲きゆりわぬも 伊集のごと 真白咲かな」
 (意味)
 「伊集の木の花は、あんなに綺麗に咲いて、とても美しい。私もあの伊集の花のように真白に咲いてみたい。」
 うりずんの頃には、コンクリートの建物が並ぶ街を離れて、沖縄本島を北へ北へと車を走らせます。その頃の沖縄の海も、群青色に淡白いベールを被せたようなぼんやりとした表情です。こうしたおだやかな季節の沖縄もいいものです。 

| | コメント (0)

岸秋正氏所蔵資料の世界

1997(平成5)年7月31日(木)『琉球新報』掲載

   「岸秋正氏所蔵資料の世界」

Photo_11  この夏、沖縄関係文献の収集家として高名であった故・岸秋正氏の所蔵資料が沖縄県公文書館で公開される。8月1日から約二ヶ月かけて、「岸秋正文庫の世界~沖縄へのまなざし~」と題した特集企画展である。
 今回紹介される「岸秋正文庫」の資料は、今年1月に寄贈された約1万1千点の資料蔵書群の中から整理された資料の一部である。岸氏の所蔵資料に触れた沖縄研究の各分野の専門家達が、それぞれの分野で「貴重な資料である」と一様に感嘆する全蔵書の整理には、数年が必要と聞いていただけに、大変嬉しい公開である。
 岸氏所蔵の沖縄関係資料群は、昭和30(1955)年ごろから約40年の歳月をかけて収集された。その世界は、あくまでも<沖縄>にこだわり続けた岸氏の私的な知の領域で育まれたものである。
 この膨大な資料群に触れ、氏が丹念に記した資料の「収集日誌」を手にしてみると、沖縄関係の古書類を求めて費やした時間の長さと、その密度の深さに、ただ感動するばかりである。
 時間を見つけ、古書店に佇み、積み上げられた本の中から、沖縄関係の記事や本を丹念に探し出す。手に入れた資料を書斎でじっくり読み込み、その箇所に付箋を挟み込み、保存を考えて大切にパラフィン紙のカバーを丁寧にかける。その資料の命である情報を「収集日誌」と「目録」に詳細に記録していく几帳面な作業が、静かにゆっくりとした時間の中で繰り返される。その資料が存在する意味や価値を確認する事によって、資料に命を吹き込む玄人の仕事である。さらに沖縄県資料編集室(現公文書館内)の史料収集活動や、多くの研究者・機関、『伊波普猷全集』『東恩納寛惇全集』刊行事業等へ、命の吹き込まれた資料を提供する。活用されることで呼吸の出来る場へ資料を導いている。こうした氏の尽力やエピソードは、氏と交流の深かった金城功氏をはじめ、多くの方々の話題に上ることも多い。
 厳選されたコレクションには、沖縄地元の図書館や機関でも所蔵されていない貴重な本や雑誌、史料が多く含まれている。一点ものの古典籍や図版、絵資料の収集はもとより、沖縄資料を捉える視点として、これまであまりなされていない同著作の各版を揃えたり、雑誌の変遷体系に配慮した収集内容で、書誌学的な眼差しも忘れない。
 こうした資料の達人の世界に触れる時の感覚は、幼い頃時間の経つのを忘れる程夢中になって覗いた万華鏡の世界を思い起こさせる。一つ一つの部分が光・視点や角度によって変化し、新しい表情を見せてくれる。けれどもその変化を続ける世界には、乱雑な表情になることはない。何かに魅せられた人々の知の世界は自由でしなやかで、しかも整然とした秩序を生み出し、何かしら凛とした美意識さえ感じられる。そして何よりも、その世界を自ら楽しんだ事を、言葉を使わずに圧倒的なエネルギーで伝えてくれる。
 資料が発行された時間・分野・形態の枠を超えて、<沖縄>というキーワードの下で収集された貴重な資料が公開されるこの企画をぜひ多くの方々に楽しんで頂きたい。そして資料収集という<知の体系>の豊かさと、氏の沖縄への眼差しと豊かな情熱の世界に触れて頂きたい。
 今回は、前期は新発見の「渡地村文書」を含む近世古典籍(冊封使録、江戸上り、為と朝関係や漢詩文集『琉球神道記』『中山伝信録』『南島志』『六諭?義』など)を中心に、後期は<行政資料><沖縄学><文学><考古><自然科学><産業・糖業>の各分野の明治以降に刊行された雑誌類が中心に展示される。岸秋正氏文庫に関しての情報は、沖縄公文書館だより『ARCHIVES第5号』でも特集されており、また展示機関中には「岸秋正文庫の世界展示図録」も発行される。これらを参照しながら展示資料に触れると、より文庫の世界の奥行きが見えてくると思う。
 最後に、今回公開されていない文庫未整理資料には、夫人の朝子氏の父・宮城新昌氏関連の貴重な沖縄産業関係資料や、古い絵葉書など、その他の貴重な資料が多く含まれていると聞いた。こうした資料に触れる日を心待ちに氏ながら、この夏の展示会を楽しみたい。
            (特別展「沖縄へのまなざし 岸秋正文庫の世界」によせて)

 *その後1999年に委託を受け、岸秋正文庫の資料整理を手がける。

| | コメント (0)

書評『雲南農耕文化の起源ー少数民族農耕具の研究ー』

1999(平成8)年7月18日『琉球新報』書評欄掲載
書 評  『雲南農耕文化の起源―少数民族農耕具の研究―』
     尹 紹亭 著    李 湲 訳      上江洲均  監修・解題
      
 「どのように食物を生産するのか」の問いは、その土地に生きる人々の生活技術という、最も重要な「知」の在り方を問う事にほかならない。
   本書は、中国の民族学・農業生態学を専門とする研究者(現在雲南民族博物館勤務)によってまとめられた『雲南物質文化』(雲南教育者出版社)シリーズ『農耕巻上・下』の翻訳本である。決して多いとはいえない中国物質文化・民具研究の、本格的で優れた研究に、中国での出版から三年を待たずに触れることが出来た。
 中国西南部に位置する雲南省は、中国の諸民族(55)の約半数を確認できる少数民族の多い社会である。民族間の農耕文化比較の視点が可能な空間、そして隣接するベトナム・ラオス・ミャンマー等の東南アジアの農耕文化をも俯瞰できる場所でもある。雲南の農耕文化研究は、一地域にとどまらず、中国そして東南アジアの農耕文化理解への示唆を十分に与えてくれる。
  「刀斧、竹木鍬・鉄鍬、犁、耖と耙、播種と灌漑用具、蘿(ざる)・籃(かご)・馬幇・車・船などの運搬具、収穫具、穀倉と臼」の農耕具が取り上げられている。千枚を越える写真、古図・実測図等の挿図で、”モノ”と使用する人との関りを、読み物とは異なる手法で雄弁に説示する。各農具は「構造や形態、構成部品の名称、機能及び使用方法、構造と形態の分類、地理的分布の考察・確定」が明確な資料分析方法で整理される。さらに著者の「考古学・農史学、民族史及び民族学資料に配慮し、各具の歴史的根拠、伝播経路、変遷過程及び発展の傾向を探る」という物質文化の学際的・体系的分析研究への意識的な試みを見る。こうした物質文化と対峙する手法は、学ぶべき点が多い。
  翻訳本の監修・解題は、沖縄をはじめとし、日本、台湾、韓国、中国の民具研究に取り組む上江洲均氏。「南九州から南西日本の民具には雲南の少数民族のものと共通するものが多い」ことを実感として語れる存在は、日本農耕文化と比較する視点を解題に取り込んだ。原著の持つ雲南農耕文化の枠を越え、「日本農耕文化の起源」のテーマを立ち上がらせる重要な成果として、新たな意義や位置づけを本著に加えている。沖縄の農耕文化・農具研究においても必読すべき書といえよう。
       (第一書房   1999年5月18日発行  626頁  定価・1万円)

| | コメント (0)

旅の記憶としての本

2006年12月16日(土)『沖縄タイムス』「本にまつわるエトセトラ」欄掲載

   「旅の記憶としての本」
 旅行やぶらりと立ち寄った街の雑踏を後にして辿り着く場所の多くが、静かな寺・神社や御嶽や歴史・民俗資料館、博物館、美術館である。此等の空間がかもし出す静寂さは一種独特で、何時間いても退屈しない。
 過去に使用され、静かに眠っているかのように展示陳列されている民具や人々の祈りの対象になった宗教作品、作家の思考や技法、時代の息吹までも表現する芸術作品の数々。こうした作品の前に幾人かの人たちが立ちつくしたことだろう。空間を堪能した後、図録や関連の本を購入してその場所から離れる。後日その図録を広げながら自身の思考を確認したり、新しい認識に触れてゆく。
 これらの空間と同様に旅先の本屋を訪うことも欠かせない。私は旅に出る時にガイドブック以外の自前の本を持たずに出かける。日本の各地はもとより、韓国、中国、台湾、インドネシアどの場所を訪れても、街の風景に本屋を探している。時間の合間をみて本屋に飛び込み、そしてジャンルは関係なく書棚の森を探索する。その中で気になった本を手にする。各地の印刷事情や紙の質感を味わう。
 こうして手に入れた本の数々を、時には解することの困難で記号のような活字が並ぶその土地の本を、休息の喫茶タイムや宿舎で夜通し眺めて過ごしている。そうしている内に本の中の文字が語り始める。独特の匂いや音やリズムや様々な風景の立ち上がる世界が広がる。昼間に訪れた場所で生れた印象とは違い、別種類の少し高揚感さえ伴う自由な感覚がとてもいいのだ。お気に入りの時間。勿論自身の旅の土産は、その土地の地図と本になる。本屋に立ち寄ることなく時間に追われ駆け足で過ぎた旅は、どんなにたくさんの場所を訪れても、人に出会っても後悔というか何だか消化不足のようだ。
 時折、自宅にある本が旅の記憶を呼び起こし、旅先で自身を入れた写真をあまり撮ることの無い私の旅の思い出となっている事に気付く。
 最近では、インターネットから本を注文し購入することが、日常生活での購入スタイルとして多くなってきている事も事実。そして日常生活では、仕事関係や情報を得るために計画的に淡々と本を手にすることの方が多い。そうした作業は楽しさの半面感覚を拘束されているような苦痛さえも感じる時が無いわけではない。そうした日常から離れて旅先で偶然に本と出会い、それらを手に過ごす時間はゆったりした快楽の何者でもない。日々の生活でたくさんの本に囲まれて、たくさんの本を広げながら、時折「旅に出たい」と無性に思うことがある。

| | コメント (0)

書評『神々の古層 竜宮ニガイ』

1993(平成5)2月23日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評 比嘉康雄『神々の古層10 竜宮ニガイ』ニライ社
 1989年から始まった写真集「神々の古層」シリーズの10冊目にあたる本書は、漁業をなりわいとする宮古島の狩俣・池間・佐良浜で行われている海の神へ祈願祭祀<竜宮ニガイ>をテーマにしている。海に生きる人々は、北風が南風へと変化する天候の不安定な時期の旧暦2月(佐良浜では旧11月の2回)に<竜宮ニガイ>の祭祀を行い、竜宮神に対しての海鎮めを願い航海安全と大漁への祈りを捧げるのである。
 本書の特徴は、カメラを通して著者自身の感性に触れた「竜宮の神と向き合う人々」をとらえた写真、つまり祭祀の場に身を置いた著者自身の「実感」の表現である写真と、祭祀調査の実証的データーを提供することを重視した文章とがバランスよく配置されていることである。このような著者の一つの祭祀に対して異なるスタンスを持つ写真と文章とを配置する姿勢は、「神々の古層」シリーズを通して一貫して変わらない。
 著者が「切実な祭祀」と語る<竜宮ニガイ>で正面の海に対峙し砂浜に一列に並び祈りをささげる人々の姿は、日常から離れるものではなく生活の中にある。例えば<手>の表情。参加者の供物をささげる手、線香を差し出す手、神女たちの合わせられた祈りの手、両手を胸の前に突き出し招く手、波打ち際で祭祀用の小石を一つ一つ拾う手、供物の豚を解体する男たちの手、座り込んだ子供たちの膝を抱える手、浜辺で祈願のために集まった人々のさまざまな手の表情の中に、海と距離感を置くことができない、漁業を生業とする人々の生活感情があふれ出ている。その手はふだん海とともに淡々と生活の中で動かされる手である。
 本書は、今日の主流的である事象データー記述中心の文章を重視した民俗報告に対して「人々の生活感情をより豊かに表現する方法」への論議が繰り返される中で、一つの方向性を示している。しかも1975年と1992年の写真を配置することで<変化>をとらえる視点も配慮され、民俗社会の変化の激しい現代においてビジュアル資料としての記録性の価値も高いものになっている。

| | コメント (0)

書評『フォークロアは生きている』

1994年11月1日(火)『沖縄タイムス』「書評」欄掲載

書評『フォークロアは生きている』下野敏見著、丸山学芸図書
 
自らの足で歩き続ける。自らの目で確かめ続ける。自らの手で記録し続ける。そうした経験と集められた成果は、積極的に世に問わなければならない。こうした民俗学、いや社会を論ずる学問分野に携わる学者の基本中の基本の姿を私たちに示してくれる著者が、「フォークロアは死んだ」と簡単に語られることに対して書名そのもので答えた。
  著者は南九州の民俗、南西諸島の民俗調査を中心に、日本各地を精力的に訪れる。近年は中国や韓国にもその足をのばす。「神々は生きている」では、道教の森山信仰、朝鮮の堂山信仰、日本の御岳信仰、沖縄のウタキ信仰の一連の山岳信仰を比較「なぜ森山は祟るのか」の問いを考察。また「ふるさとの神々は生きている」では、南薩に広く見られる<ウッガン>信仰にふれている。ウッガンが氏神か内神かの問題。その家の祖先神かどうか問題が多くの興味深い事例で論じられる。その中で女性と男性の祖先の位牌がわけられ、女性と夭折した男子の位牌だけを神棚に祀り、正統祖先の男性だけを仏壇に祀る事例が紹介されている。
 こうした分離二重棚は、明治期に入って旧氏族の神道の家が仏教の門徒になった際、仏壇が導入されてひきおこされた現象ではないかと解釈される。仏壇や位牌の導入によって、その地域の持つ男系尊重の「家」存続観念や神・仏感覚が浮き上がってくる。
 また琉球・中国との交流の中で入ってきた航海の神である媽祖(天妃)信仰が、氏神信仰としていきている事例も興味深い。久米島の天妃と似ているボッサドン(菩薩殿の意味)と呼ばれている媽祖像が薩南の山村で今も人々を見守っている。
 その他「琉球の男の祭りと女の祭りーシヌグ・ウンジャミ考―」では、沖縄もヤマト的な男性主導型の祭祀から、大航海時代ごろから沖縄式のウナリガミ的宗教へと変遷したのではとの視点も提示。また、甑島・蒸籠などの民具から<日本の蒸し器>文化を扱う新しい試みも特筆すべきであろう。
 沖縄民俗のさらなる理解のためこのような奄美・南九州の民俗に触れてみたらいかがであろう。 <鹿児島大学院時代の恩師・下野敏見先生著作>

| | コメント (0)

韓国の史跡ー浦添城跡との関連を求めてー

1995年(平成7)年10月19日(木)『沖縄タイムス』掲載

「韓国の史跡―浦添城跡との関連を求めてー」
 
韓国は、沖縄から距離的にそれほど遠い国ではない。那覇を中心に同心円を描くと、関西地方程度の近さである。1995年を「戦後50年」の節目として迎え、多くの平和事業が催されている沖縄から、「解放50年」として迎えた韓国へ。同じ時間の長さが沖縄とは違う意味を持つその国の風を私は受けたかった。韓国への旅は浦添市の文化課が主催した「沖縄と韓国の城郭・建築比較調査」一行に参加しての訪問であった。13世紀の琉球と朝鮮との交易が盛んに行われた歴史的な背景と浦添城跡から出土した高麗瓦の手がかりを求めている。現在の城郭は私たちに何を語りかけたのか。深く印象に残ったのは首都・ソウルにある李朝王宮の景福宮である。
 この王宮は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略の際と、1910年の日韓併合後の<日帝時代>と二度、日本から破壊を受けた歴史を持っている。王宮内に日本の朝鮮統治の「司令塔」である旧朝鮮総督符庁舎(現、国立中央は区部中間)は建っている。鉄筋5階建てのネオ・ルネッサンス様式の建物は、代表的な日本近代建築としても知られている。
 1916年6月に始まり9年5ヶ月の歳月をかけ1925年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、北漢山を背景にして美しく雄大に広がる景福宮の勤政殿前に建設された。建物の正面に位置する宮殿の正門・光化門は、庁舎の景観を邪魔するとして取り払われた。
 侵略され統治される側には、自らの歴史が育まれた遺産を、自らの意思で保存する力は与えられていなかった。
 日本民芸美術の父・柳宗悦は、朝鮮に対する日本の同化政策を批判し続け、朝鮮民族へ哀燐の言葉を紡いだ。植民地政策が推し進められているなか、1922年7月に「失われんとするー朝鮮建築のためにー」を書き表し、日本による景福宮の破壊を憂いている。

 「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢いに行こう。お前も私を待っていてくれ。お前を生んだお前の親しい民族は今言葉を慎しむ事を命ぜられているのだ。(罫線著者)それ故にそれらの人びとに代わって、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ。」

 現在、景福宮は韓国政府によって5年前から復元工事が進められている。3分の1が2009年までの20年間、総工費約200億円かけて復元される予定である。旧総督府庁舎の上部の採光塔が、今年の開放記念日・8月15日に除去された。旧庁舎は現在も博物館として見学できるが、1年後には全体が本格的に撤去される。
 この時除去された塔は、復元工事でよみがえるのを待つ光化門と対称的に、脇の地面に置かれ展示されていた。この建物の撤去が決定された2年前、国民の9割近くが賛成した。これほどまでに望まれた撤去であった。
 また、同敷地内にある国立民俗博物館では、近代百年をテーマに企画展が開催されていた。朝鮮における近代百年は、まさに日本の植民地としての歴史にほかならない。その中で興味深い展示があった。
 現在アジアは風水ブームの中にある。朝鮮総督府は、朝鮮の風水を研究し、風水理論で建設された王宮が持つ場所の力ち権威を失わせるために景福宮の前に総督府庁舎を建設している。その研究成果が総督府が1931年に出版した『朝鮮の風水』である。
 日本軍によって龍脈(風水でいう気の流れ)が走る山々に深く打ち込まれた鉄の杭は、すべての龍脈にエネルギーを復活させ、韓国の地に活力をとの願いから今年の8月に韓国の人々によって撤去させられた。その模様と鉄の杭が展示されていたのである。
 今年の景福宮は、近代百年と日本からの解放50年を確認するための空間であった。観光で訪れた人々に、王宮に悠久に流れたであろう時間の中の百年間を強烈に浮かび上がらせ、同時に現代の韓国の人々の意識を提示させていた。
 現代の韓国の人々が城郭を通してどのような意志表示をしたのかを、それを支えるエネルギーの意味を受け止めるには、静かで雄弁な空間であった。
 浦添をはじめ沖縄の各地の城跡は、戦跡としての性格をも持っている。歴史を物語る空間、そして今日的な演劇や祭りを取り込んだ新しい文化創造の空間として、その整備保存・活用が検討されている。
 いずれにしても、現在の私たちの鋭い問題意識を漂わせることができなければ、その空間と共に呼吸している事の実感を記憶にとどめることは難しい。

| | コメント (0)

沖縄学雑感ー内なる文化への眼差しー

1996(平成8)年6月24日(月)『宮古毎日新聞』掲載

  「沖縄学雑感―内なる文化への眼差しー」
 
私は、浦添市立図書館沖縄学研究室に勤務しながら、沖縄関係の資料収集や整理を行っている。また、地元の大学や看護学校で非常勤講師を、ここ数年勤めている。
 うりずんの季節に20歳前後の若者達と出会う。ほとんどが沖縄県・地元出身の学生達である。担当講義の内容は「文化人類学」、「沖縄の歴史と文化」などと異なる科目である。しかし、私は一番最初の講義に、いつも同じ問いを学生達に投げかけている。「①沖縄の地図を作成し知っているだけの離島や地名を書き込むこと。②行ったことのある島の名前を書くこと。」
 毎年同じような内容の沖縄県の地図が白紙に描かれて提出されてくる。輪郭もおぼろ気な白っぽい島が、不安定な位置関係を示し、平均して4から5の地名が記入されている。3ヶ所以上の島に訪れたことのある学生は50人中2,3人いるかいないかである。ほとんどの学生が沖縄本島と周辺の離島の情報を中心に描く。先島地名と位置関係をまとまって記入したのは、間違いなく先島出身の学生。しかし、この学生達も沖縄本島や周辺離島の空間は、白く残されたままである。生活空間である沖縄県に対して、日本地図、世界地図よりもおぼろ気な情報しか持ち得ない現実をどううけとめればよいのか。
 こうした結果に、最初の年は驚きもした。私以上に、彼ら自身の方が戸惑いを隠せない様子である。そんな時、彼らと同年齢だった頃の私に思いをめぐらせてみる。そこには、彼らと余り差異のない認識で精一杯の私がいた。
 沖縄県の若者たちが生活し、そして描けない空間は、毎日の天気予報、そして台風時にはより頻繁に、テレビの画像から提供され、目にする機会が少ないわけではない。けれどもその情報に対して、子供達の中に実感、つまり実在の空間として認識されていないのである。記憶さえもままならないのが現状である。
 複雑な心境で、「沖縄県は160余りの島があり、47の島で人々が生活を営み歴史や文化を育んでおり、その島々の集まりで構成されている」という、基本的なことから話始める。そして「出来るだけ多くの島を訪れ、自分の足で歩き自分の感覚で、その自然や日常生活の風景、島の表情に触れること」を学生達に提案する。その場所や社会を自身の中に実感として位置づける。それは、同時に私自身の課題でもある。
  亜熱帯の島々に悠久に流れた時間に育まれた民俗の世界が、圧倒的なエネルギーをもって、人々の日常の精神世界に息づいている。文化とは何か。それは人々の心の中に深く根ざした吐息であると思う。それは人々の深層での息遣いではないのか。その場所に立ち、息遣いに五感を感応させる。それが文化を学ぶということではないかと考えている。<内なる文化>にこそ、その感覚を研ぎ澄ますことが、<他文化>への理解の始まりではないのか。内なる場所として宮古を持っている私には、同時に様々な沖縄をいかに内なるものとして染み込ませるかが重要であろう。
 沖縄を対象とした様々な分野の研究は<沖縄学>と呼ばれている。地元の研究者も増え、多くの研究成果がある。その対象は専門性も多く、細分化される傾向にある。また、図書館には、沖縄学の内容に関する県外や外国からの問い合わせも多い。こうした研究が盛隆を極めていく一方で、<内なる場所>に触れる機会を失い、その<間取り>にすら迷ってしまう若者がいる。
 沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷は、ニーチェの言葉をかりて「深く掘れ、己の胸中の泉、余所たよて水や汲まぬごと」の琉歌を詠んだ。自分自身の立つ場所を深く理解すれば、そこには泉のように豊かな世界が広がっているという意味だ。その言葉を伝えていきたいと思う。私の沖縄学のテーマは「人々を育んだ沖縄の風景に興味をもってもらう手伝いをする」ことに他ならない。

| | コメント (0)

沖縄民俗(族)学研究史の視点

沖縄研究はいまー伊波普猷没後50年記念企画『沖縄タイムス』1997年12月2日(火)9日掲載

「民俗(族)学研究史の視点」上

 
伊波普猷は、自らの郷土研究を『古琉球』(1942年改訂版)の中で「私の沖縄学の体系化」と表現している。伊波が体系化を試みた沖縄学の分野は。主として言語、文学、歴史、民俗の四領域に重きが置かれている。
  明治期にその萌芽をみた民俗研究も、1950年代までは、民間学、在野の学としての歴史の方が長い。現在のように、人類学・民族学と同じように民俗学の講義を提供できる大学は多くはなかった。国内の大学でも、ようやく60年代以降に広がり定着している。
  この学問現場において民俗(族)学の評価が低かったことを意味しており、解明されることなく認識されていた。ちなみに沖縄地元の大学で、民俗(族)学の講義が開設され田のは、70年代に入ってからである。70年代は、民俗(族)学内では沖縄研究のピーク時を迎えていた。
 こうした状況下において、大正・昭和期に国文学、日本歴史学の中で、沖縄、アイヌの研究の重要性を取り入れたのは柳田国男や折口信夫の日本民俗(族)学成立の中心となった人々である。伊波の沖縄文化研究においても、その方法論やテーマを当時歴史の浅い人類学・民俗学という学問の場で実践する鳥居龍蔵、柳田、折口等との交流の中で受け入れた。換言すれば伊波の学問を評価したのも、台頭し始めた新しい学問であったと言えよう。このことは、日本民俗(族)学研究史の中でも、沖縄研究は早期の研究に属することに他ならない。
  その点をふまえた沖縄民俗(族)研究に関する伊波の位置づけは、平敷令治によって提示された詳細な研究史(「民族学・民俗学」『沖縄県史5文化1』75年)の中で確認できる。
  平敷は、伊波の沖縄学に焦点をあてた民俗(族)研究史区分の一タイプとして、明治期(沖縄学の出発まで)、大正期(沖縄学の進展)、昭和前期(沖縄学の円熟)の各枠組みを示した。
 その後60年代以降の沖縄民俗(族)研究の総括と展望は、日本民族学編『沖縄の民俗学的研究』(73年)、九学会連合編『沖縄―自然・文化・社会』(82年)、ヨーゼフ・クライナー編『日本民族学の現在―1980年代から90年代へ』(96年)などによって、各時代とテーマによる沖縄研究の動向と現状の課題を踏まえた形で示された。
 ここ10年間でも、沖縄民俗(族)研究の論文・著作は五百をゆうに超え、多様な研究が発表されている。内容の専門性の深まりと同様に今日の研究が扱う空間も広がった。
  伊波の没後から現在では、民俗(族)学、人類学における沖縄研究の扱う空間領域は、日本との対比だけではなく、中国や韓国のアジアの国々へと拡大され、その中で沖縄を捉える視点が重要になっている。
  その他に南島研究でも十分ではなかった先島、奄美、トカラ列島、屋久島等の島々を年頭に入れた空間へのアプローチなど、主にこのような三つの視点からの研究が行われている。
  しかし、沖縄民俗(族)研究史においては、平敷以後、十分な枠組みを持ち得ていないのが現状である。研究史からの視点では、戦後および現在に至る研究はもちろん、戦前に関しても次の問題が残されている。
①明治、大正、昭和初期の研究史の充実、②沖縄地元の郷土研究活動。ここ数年は、伊波普猷と同時期に郷土研究で活動した大田朝敷、真境名安興、末吉麦門冬、島袋全発、島袋源七、仲原善忠などの資料も発掘されている。沖縄地元の郷土研究会の変遷資料も充実してきた。
  柳田、折口が沖縄<南島>研究に取り組む以前、または同時期に別の場面で行われた民俗(族)研究の表情も輪郭が見えてきた。こうした新しい資料を再度編成し、充実した研究史が必要である。
  ③戦争と民俗の問題。沖縄研究では、沖縄戦の記録は多くの成果をあげている。人々からの聞き取り資料も充実した内容で、各団体、市町村誌(史)を通して発表されている。こうした成果と民俗(族)学はどのように取り組むのか、郷土研究と皇民化教育との関連問題も含めて議論されていない問題である。
  その他④台湾大学と沖縄研究。戦後の日本の民族学・人類学の研究に置いて、戦前の台湾大学で活動していた研究者たちの果たした役割は大きい。60年代、70年代において沖縄研究をリードしてもいる。学問の系譜と、新たに植民地と民俗(族)学とのかかわりの問題でも、大きな課題と言えよう。

  「民俗(族)学研究史の視点」下    『沖縄タイムス』1997年12月9日

  伊波普猷が亡くなって間もない1947年(昭和22)年9月、折口信夫は、「新国学としての民俗学」と題した文章を発表。その2年後には、柳田国男も当時の若き人類学者・馬渕東一、岡正雄へ沖縄研究を勧めている。
  大正期に伊波を郷土研究に導いたように、戦前台湾大学で文化人類学の理論と視点を学び、アジアへの関心を注ぐ馬渕らを沖縄へと導いたのである。そして柳田は、自ら主宰する民俗学研究所において沖縄調査を企画し、宮古・八重山調査を組織的に推進したのである。
  こうして沖縄民俗(族)研究が、<内なる文化>である日本と沖縄を捉える民俗学と、研究対象を<異文化>に求める民族学の両方の立場から行われるようになった。
  その後1960年代以降に発展し定着したアカデミックとしての沖縄民俗(族)研究は、県内外研究者の増加と、文化人類学、社会人類学、民俗(族)学など独自の視点での研究テーマが広がった。
  沖縄社会研究としての親族(門中)研究・家族(家)研究(村武精一、比嘉政夫、津波高志ら)の社会構造・機能分析や宗教研究では、祭祀研究のオナリ神研究(馬渕)や祖先祭祀、位牌祭祀の研究、シャーマニズム(ユタ)研究、外来宗教研究などが展開されてきた。著作・論文数においては、かなりの研究成果を蓄積してきた。現在では、ドイツやフランスのヨーロッパ地域やアメリカ、そしてタイ、インドネシア、韓国、中国のアジア諸国との共同研究も盛んである。
①アジアへの視点。沖縄民俗(族)研究をアジアの枠組みへ導いたのは、やはり蓄積の多い宗教研究の分野であった。その中でも「風水」研究(渡辺欣雄、玉木順彦ら)、「道教」研究(窪徳忠)、「儒教」研究(平敷令治の位牌祭祀研究)、「シャーマニズム」(佐々木宏幹、山下欣一)の研究は、中国・韓国などの東アジアとの比較で成果をあげた。
  宗教研究と同様に、先に述べた沖縄社会研究の各分野で、ここ二十年で学際的にも国際的にも広がりを持った展開がなされている。
  最近では、②医療と民俗(族)研究も活発である。現代社会が抱え込む様々な問題と、民俗(族)研究が対峙する時、医療分野関連のテーマと共に議論されることが増えた。現代ストレス社会を反映した「癒し」をキーワードに従来の宗教、民俗研究成果が議論され、また長寿社会・沖縄の文化を「老い」「死」のテーマでも研究が行われている。
  また③多くの離島で構成される沖縄の「都市化」と「過疎化」の問題は、次のテーマで語れるようになった。都市化された場所での墓地不足、家・祭祀継承の揺らぎ、女性の社会的権利と位牌継承問題(トートーメー問題)。多くのシンポジウムが開催され、幅広い議論がなされている。伝統祭祀保存問題(宮古の神役)について。研究・助言から実践に向けて、研究者が積極的にかかわる新しい局面も出てきた。
  ④<民族問題>。現代の民族・人類学では、エスニシティー、民族問題、独立論をテーマにした研究も多い。村井紀『南島イデオロギーの発生』『大東亜民俗学の虚実』が著されているが、沖縄民俗(族)研究ではこれからの課題といえよう。
  同様に⑤産業―観光人類学。新しい祭り(エイサー大会、トライアスロン、ふるさと祭り、首里城祭りなど)と「地域おこし」「観光」などの視点から、社会学との学際的研究も必要であろう。⑥民族文化の記述(地域史編纂事業から)の問題。本土復帰二十五周年を迎えた今年、現代にとっての<民俗>を記述することは、どのような意味を持つのか。
  地域史研究が盛んになり、その成果としての多くの自治体が市町村史(誌)編纂事業を推進している。現在では、よりミクロな共同体の歴史編纂への取り組みも盛んで、多くの字史(誌)が編纂・刊行されている。各市町村とも刊行冊数はそれぞれ異なるが、いずれも人々の日常生活を記録した民俗編(章)は、かなりの紙面が割かれ記述されている。
  こうした多くの民俗資料が盛り込まれた「地域史」刊行物は、内容の質の高さと比較して、目次内容が画一的な項目で構成されることが多い。市町村史(誌)編纂事業の先駆的役割を果たした那覇市史、浦添市史等の目次項目が、他の市町村への民続編へも踏襲されている現状がある。
  半世紀前の戦後から25年前の本土復帰当時、復帰後の沖縄の生活時間は急激に変化し多様化した。こうした時間への配慮が十分に検討されている現状ではない。社会文化の急激な変化に対して、文化(社会)、人類学、民俗(族)学、社会学の各分野は<文化変遷>のキーワードを通して、理論化、議論検証を続けてきた。記述として定着した地域史(誌)の民俗編の構成する時間枠を、そろそろ変える時期ではないのか。沖縄・地域独自の切り口と共に、民俗(族)研究者が早急に議論し、提言すべき問題である。
  今年開催された学会で、ある人類学者から「人類学の沖縄研究に未来はあるのか。現況では危うい」と叱咤にも似た刺激的な提示があった。このような90年代以降、現代において迷走する沖縄民俗(族)研究を指摘する現場の声もないわけではない。膨大な研究論文成果を持つ沖縄民俗(族)研究葉、成果も大きいが、残された課題も巨大である。

| | コメント (0)