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1995年

2007年4月28日 (土)

韓国の史跡ー浦添城跡との関連を求めてー

1995年(平成7)年10月19日(木)『沖縄タイムス』掲載

「韓国の史跡―浦添城跡との関連を求めてー」
 
韓国は、沖縄から距離的にそれほど遠い国ではない。那覇を中心に同心円を描くと、関西地方程度の近さである。1995年を「戦後50年」の節目として迎え、多くの平和事業が催されている沖縄から、「解放50年」として迎えた韓国へ。同じ時間の長さが沖縄とは違う意味を持つその国の風を私は受けたかった。韓国への旅は浦添市の文化課が主催した「沖縄と韓国の城郭・建築比較調査」一行に参加しての訪問であった。13世紀の琉球と朝鮮との交易が盛んに行われた歴史的な背景と浦添城跡から出土した高麗瓦の手がかりを求めている。現在の城郭は私たちに何を語りかけたのか。深く印象に残ったのは首都・ソウルにある李朝王宮の景福宮である。
 この王宮は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略の際と、1910年の日韓併合後の<日帝時代>と二度、日本から破壊を受けた歴史を持っている。王宮内に日本の朝鮮統治の「司令塔」である旧朝鮮総督符庁舎(現、国立中央は区部中間)は建っている。鉄筋5階建てのネオ・ルネッサンス様式の建物は、代表的な日本近代建築としても知られている。
 1916年6月に始まり9年5ヶ月の歳月をかけ1925年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、北漢山を背景にして美しく雄大に広がる景福宮の勤政殿前に建設された。建物の正面に位置する宮殿の正門・光化門は、庁舎の景観を邪魔するとして取り払われた。
 侵略され統治される側には、自らの歴史が育まれた遺産を、自らの意思で保存する力は与えられていなかった。
 日本民芸美術の父・柳宗悦は、朝鮮に対する日本の同化政策を批判し続け、朝鮮民族へ哀燐の言葉を紡いだ。植民地政策が推し進められているなか、1922年7月に「失われんとするー朝鮮建築のためにー」を書き表し、日本による景福宮の破壊を憂いている。

 「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢いに行こう。お前も私を待っていてくれ。お前を生んだお前の親しい民族は今言葉を慎しむ事を命ぜられているのだ。(罫線著者)それ故にそれらの人びとに代わって、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ。」

 現在、景福宮は韓国政府によって5年前から復元工事が進められている。3分の1が2009年までの20年間、総工費約200億円かけて復元される予定である。旧総督府庁舎の上部の採光塔が、今年の開放記念日・8月15日に除去された。旧庁舎は現在も博物館として見学できるが、1年後には全体が本格的に撤去される。
 この時除去された塔は、復元工事でよみがえるのを待つ光化門と対称的に、脇の地面に置かれ展示されていた。この建物の撤去が決定された2年前、国民の9割近くが賛成した。これほどまでに望まれた撤去であった。
 また、同敷地内にある国立民俗博物館では、近代百年をテーマに企画展が開催されていた。朝鮮における近代百年は、まさに日本の植民地としての歴史にほかならない。その中で興味深い展示があった。
 現在アジアは風水ブームの中にある。朝鮮総督府は、朝鮮の風水を研究し、風水理論で建設された王宮が持つ場所の力ち権威を失わせるために景福宮の前に総督府庁舎を建設している。その研究成果が総督府が1931年に出版した『朝鮮の風水』である。
 日本軍によって龍脈(風水でいう気の流れ)が走る山々に深く打ち込まれた鉄の杭は、すべての龍脈にエネルギーを復活させ、韓国の地に活力をとの願いから今年の8月に韓国の人々によって撤去させられた。その模様と鉄の杭が展示されていたのである。
 今年の景福宮は、近代百年と日本からの解放50年を確認するための空間であった。観光で訪れた人々に、王宮に悠久に流れたであろう時間の中の百年間を強烈に浮かび上がらせ、同時に現代の韓国の人々の意識を提示させていた。
 現代の韓国の人々が城郭を通してどのような意志表示をしたのかを、それを支えるエネルギーの意味を受け止めるには、静かで雄弁な空間であった。
 浦添をはじめ沖縄の各地の城跡は、戦跡としての性格をも持っている。歴史を物語る空間、そして今日的な演劇や祭りを取り込んだ新しい文化創造の空間として、その整備保存・活用が検討されている。
 いずれにしても、現在の私たちの鋭い問題意識を漂わせることができなければ、その空間と共に呼吸している事の実感を記憶にとどめることは難しい。

2007年4月21日 (土)

時代の空

1995年12月10日『沖縄タイムス』掲載「随想ーエッセイストー」欄原稿

      
時代の空

 
「あの雲を消して見せましょう。」
 透明感のある夕日で美しく染め上げられた空を指差しながら、その人たちは伝えました。 秋の日に、ぼんやりしたい気分で訪れた海辺です。釣り人もいれば、寄り添う恋人たちや犬を散歩させる人、それぞれに過ごす夕暮時のことです。
 その人達は、少しの緊張とはにかんだ表情で語りかけました。ある力で体の不調な部分の症状を軽くするために勉強をしていると…。そのために協力をしてはもらえないかと…。一人の若い女性は、その団体に参加することで、原因不明の視力低下と歩行困難を克服したという自らの体験を、眩しい程の明るい表情で話しました。私からの矢継ぎ早の質問に、「0だと思いましたか。宗教ではないのです。参加は無料です。」との説明の言葉が選ばれました。
 私達のまわりでは、<宗教>という言葉から離れようとする流れが渦巻いてます。
 <信じること>に向きあう事を戸惑わせる時代になってしまったのでしょうか。<信じるもの>を持つ存在と、持たない存在の間で交わされた言葉の中に、何よりも先に、疑いと非難の気配を読み取ろうと互いの心が動いています。美しい自然の舞台の上での不自然な心の動き。
 人の価値観や生きることのエネルギ-は、その人だけものです。ちっぽけな私の意識などでは捉えられない、それぞれの深淵を隣人には持っていてほしいと思います。何者にも侵すこと出来ない互いの奥深さを、そしてそれに支えられた宗教を尊いと信じられる時を迎えたいと願わずにいられません。質問は非難の言葉ではないことを伝えられぬまま、沈んだ気持ちで彼らの祈りの姿を眺めました。
 傍らでは、釣り人の投げる擬似餌が、大きな弧を描きながら何度も何度も海面に吸いこまれていきます。受け取った案内のチラシを鞄にしまいこみ、どこへともなく消えていった雲の行方を思い見上げた空。夕闇近い彼方から陸に向かって爆音と共に残こされた飛行機雲は、この空からいつまでも消えることはないのでしょうか。生まれては消えていく表情豊かな自然の雲の合間に、黒々とした残像を抱えこんだ空が、私達の見続ける時代の空なのか。
 私の耳元で呪文のように響いた言葉は、いつの間にか表現を変え、別の意味を携えて私の中でささやかれていました。「あの雲を消してください。」