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1996年

2007年4月28日 (土)

沖縄学雑感ー内なる文化への眼差しー

1996(平成8)年6月24日(月)『宮古毎日新聞』掲載

  「沖縄学雑感―内なる文化への眼差しー」
 
私は、浦添市立図書館沖縄学研究室に勤務しながら、沖縄関係の資料収集や整理を行っている。また、地元の大学や看護学校で非常勤講師を、ここ数年勤めている。
 うりずんの季節に20歳前後の若者達と出会う。ほとんどが沖縄県・地元出身の学生達である。担当講義の内容は「文化人類学」、「沖縄の歴史と文化」などと異なる科目である。しかし、私は一番最初の講義に、いつも同じ問いを学生達に投げかけている。「①沖縄の地図を作成し知っているだけの離島や地名を書き込むこと。②行ったことのある島の名前を書くこと。」
 毎年同じような内容の沖縄県の地図が白紙に描かれて提出されてくる。輪郭もおぼろ気な白っぽい島が、不安定な位置関係を示し、平均して4から5の地名が記入されている。3ヶ所以上の島に訪れたことのある学生は50人中2,3人いるかいないかである。ほとんどの学生が沖縄本島と周辺の離島の情報を中心に描く。先島地名と位置関係をまとまって記入したのは、間違いなく先島出身の学生。しかし、この学生達も沖縄本島や周辺離島の空間は、白く残されたままである。生活空間である沖縄県に対して、日本地図、世界地図よりもおぼろ気な情報しか持ち得ない現実をどううけとめればよいのか。
 こうした結果に、最初の年は驚きもした。私以上に、彼ら自身の方が戸惑いを隠せない様子である。そんな時、彼らと同年齢だった頃の私に思いをめぐらせてみる。そこには、彼らと余り差異のない認識で精一杯の私がいた。
 沖縄県の若者たちが生活し、そして描けない空間は、毎日の天気予報、そして台風時にはより頻繁に、テレビの画像から提供され、目にする機会が少ないわけではない。けれどもその情報に対して、子供達の中に実感、つまり実在の空間として認識されていないのである。記憶さえもままならないのが現状である。
 複雑な心境で、「沖縄県は160余りの島があり、47の島で人々が生活を営み歴史や文化を育んでおり、その島々の集まりで構成されている」という、基本的なことから話始める。そして「出来るだけ多くの島を訪れ、自分の足で歩き自分の感覚で、その自然や日常生活の風景、島の表情に触れること」を学生達に提案する。その場所や社会を自身の中に実感として位置づける。それは、同時に私自身の課題でもある。
  亜熱帯の島々に悠久に流れた時間に育まれた民俗の世界が、圧倒的なエネルギーをもって、人々の日常の精神世界に息づいている。文化とは何か。それは人々の心の中に深く根ざした吐息であると思う。それは人々の深層での息遣いではないのか。その場所に立ち、息遣いに五感を感応させる。それが文化を学ぶということではないかと考えている。<内なる文化>にこそ、その感覚を研ぎ澄ますことが、<他文化>への理解の始まりではないのか。内なる場所として宮古を持っている私には、同時に様々な沖縄をいかに内なるものとして染み込ませるかが重要であろう。
 沖縄を対象とした様々な分野の研究は<沖縄学>と呼ばれている。地元の研究者も増え、多くの研究成果がある。その対象は専門性も多く、細分化される傾向にある。また、図書館には、沖縄学の内容に関する県外や外国からの問い合わせも多い。こうした研究が盛隆を極めていく一方で、<内なる場所>に触れる機会を失い、その<間取り>にすら迷ってしまう若者がいる。
 沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷は、ニーチェの言葉をかりて「深く掘れ、己の胸中の泉、余所たよて水や汲まぬごと」の琉歌を詠んだ。自分自身の立つ場所を深く理解すれば、そこには泉のように豊かな世界が広がっているという意味だ。その言葉を伝えていきたいと思う。私の沖縄学のテーマは「人々を育んだ沖縄の風景に興味をもってもらう手伝いをする」ことに他ならない。

2007年4月21日 (土)

異人たちの夏

平成8年度(1996)9月22日『沖縄タイムス』「随想ーエッセイストー」掲載

         異人たちの夏

 異人になるために夏を過ごしてきた。
 城壁を隔てた向こう側には、アラブのざわめきがあるという。青過ぎる空の下、ジュラバをまとった老人が通り過ぎる”赤い街”マラケッシュから便りが届く。ある年には、「明日から数日蘭嶼へ渡る予定だ」と台湾・台東の宿や、ドイツや中国からの便りだったりする。
 リゾ-ト観光地を訪れる旅は、どちらかというと用意された非日常の場所を、短い滞在期間だけ自らの場所として独占する楽しみに他ならない。それは、新しき空間との限りない融合が最大限に許される時間へ移動できる幸福だと思う。
  学生の頃、文化人類学に触れた私や友人達は、静かな思考を楽しむより、ただ肉体を使って歩き出すことを覚えた。空間を手に入れる旅ではなく、訪れた場所との微妙な緊張感を覚えるためにただ歩く。
 それは、内なる場所から離れた時、〈文化の違い〉と呼ばれるものへの不快な違和感を消し去る事や、自らが変化し溶け込む事が、その社会を理解する為の最良の方法だという幻想を消し去る作業に近い。「異なるままに向き合う」中から立ち上がる圧倒的なリアルさを感じること…。ただの偉人として佇む日常の場所へ近づくために歩き続きけている。
  あいまいな異人にしかなれないから、また歩く。
 どこで立ち尽くしているのか予想もつかない友人からの便りを受け取るたびにそう感じ
ている。
 私は、お盆の風景を小さな島々で眺めることが多かった。帰省客であふれた船の中、準備の買物客で賑わう市場に身を置いた。暑さの中、迎える祖先もいない墓地でしばらく過ごす。初めてのお宅で仏壇に手を合わせたりする。
 こうしていても、私の〈盆〉は行われることはない。
 「どちらからですか?」と声をかけられる奇妙な存在である。「沖縄からです」と答える事を幾度となく繰り返した。「ご縁があったら又遇いましょう」と穏やかに笑い、ゆら
ゆらと去っていく年寄り達の後姿。こうした何でもない出来事に、自身と祖先のことを、
故郷のことを強烈に思った。
 この夏は、数年ぶりに故郷でお盆を過ごした。春先に他界へ旅立った家族を迎えるために…。異人にならない場所の風景は、のんびりと穏やかに心に染み入った。

石川賢治『月光浴』

『月光浴』石川賢治・小学館ー『琉球新報』「晴読雨読」1996年掲載ー

 
遠ざかる台風の風がまだ地上で楽しんでいる天候の悪い日に、飛行機を利用した。重たい色の厚い雲を突き抜けてかなりの上空まできた時、読書していた視線をなにげなく窓の外に移した。そこには空中にただ一つの満月が明るく輝いている光景以外みることが出来なかった。そのシュ―ルな光景を見ながら天気とは何なのかを考え、照れた笑いがこぼれた。
 月と太陽とを比べたら、月を眺めることを嗜好する方に入るようだ。暗やみに切れ目のように現れた猫の爪に似た細すぎる月も、肥大した円形がその光りの重さで今にも崩れてしまいそうな十六夜の月も好きである。月を追いかけてドライブをする夜も多い。ちなみに今年の私の手帳は、新暦はもちろん旧暦と毎日の月の位相(絵)が入ったもの。これまでになく楽しい一年の時間を手にしているような気分である。
   何かに魅せられ続けること、そして何かを視続けることは、善し悪しや価値・益の有無を超えた部分で支えられている。写真家・石川賢治は、魅せられた月とおだやかに対話をする。出版されたばかりの写真集『月光浴』を手にした時のやわらかな気持ちは、6年程時間が流れた今も変わることはない。太陽の光のわずか45万6千分の一の月の光りだけで撮影された写真の世界は、ささやかな批評の言葉さえも騒音にしてしまうのではないかと思う程、静かで美しかった。薄闇の中硬質な月の光に映し出された風景や花は、その色を保っており、眠りにつかない自然の姿である。その後、この写真家の世界が、雑誌やテレビで紹介され、写真集と同じように撮られた石川氏のCM作品も流れていたが、深々とした夜に月の光りと向き合った自然の姿の前では、人工の音楽も言葉も活字も、少しうるさい印象であった。
 「昔の学生は、満月の夜にも本を読んだ」のだとお年寄りが時折話してくれる。こうした経験談は、強ち誇張されたものではないことを、以前豊年祭りで八重山・小浜島を訪れた時に実感した。連日続いた祭りのフィナ―レは、満月の夜一晩中を通して行われた。夜が更けるにつれ祭りは勢いづく。そのエネルギ―を増し疲れを知らない島人と違って、怠け者の私は休憩が必要になった。偶然知合った島在住の絵本作家・秋野さんの家でしばらく休ませていただいた。”海”と”空”の名を持つ幼い二人の兄妹が、月の光の中で日課の行水をしてはしゃぐ姿をぼんやり眺めながら、恋の成就を願う女性が月の光の中で神に祈る光景を歌った八重山民謡・〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の世界を思った。真夜中の2時頃、40分程歩いて、祭りの行われている部落へと戻った。周囲に人家も無く、満月の光だけを頼りに砂糖黍と牧場の広がる島の道を歩く。虫の声と蝙蝠の羽音がBGM。足音が眠りを脅かしたのだろう牛が目を醒ましこちらを見ている。祭りの行われている部落からの太鼓・歌声が風に乗って聞こえてくる。月の光は煌々として美しく自然の色彩も浮かび上がらせる。歩きながら秋野さんからいただいた御夫婦の絵本『はまうり』を広げて見た。鮮やかで深い色調の珊瑚礁の海が広がっている。宮古島の浜下りを題材にした話と絵を、十分過ぎる月の光だけで一気に読み終えてしまったのである。
  私達の周囲には枚挙に遑がない程、様々な人工の光が氾濫している。このような状態中で生活する私達にとって、月の光は天上から零れ落ちる僅かなものでしかない。どの位の人が、生活空間や自然界に融けこむ月の光りについて、色やその強さを語れるだろうか。
 〈ツキィのマピロウマ(月の真昼間)〉の夜が小浜島にはあった。光に溢れた都市の満月夜は、明るい様で暗いのかも知れないと思いつつ、それでも楽しく月を追いかけている。

浜下(ハマオリ・サニツ)行事

浜下(ハマオリ)-サニツ(宮古・平良市)ー

 
観光立県の沖縄の浜辺がシ-ズン中以外に賑わう日がある。旧暦3月3日の「ハマウリ」の行事の日である。女性たちが一日浜に出て巡ってきた季節を祝い、身体を潮で清める意味で潮干狩をして遊ぶ。ご馳走の詰め込んだ弁当を持参して一日浜で過ごすのである。
 この時期沖縄は”うりずん”の中にある。冬が終わりを告げ、風向きも北から南へと変化し、自然に潤いが増して活動的になりはじめる時期である。そう何でもはじまりは戸惑うものだ。この時期の沖縄は、やわらかい太陽の日差しとさらさらとした風が吹き一年を通してぼんやりした風景を見せてくれる。季節の変わり目に時間の速度調節に少し戸惑っているように時間が流れ、季節の変わり目に無意識に戸惑う人間もまた海という自然の中に身を置きながら何かを調節しているのだと思う。
 「ハマウリ(浜下り)」は各地によってサングヮチサンニチ、サングヮチャ-と呼ばれている。もともとは沖縄各地で女性や子供達が海に出て清めと払いの目的で日がな一日遊ぶという行事。宮古ではサニツと呼ばれる。サニツの日には潮干狩りはもちろん、部落によっては浜辺での角力大会、競馬や村芝居も催された。現在のサニツの日の浜辺ではこうしたカ-ニバル的な風景は無く、潮干狩りやピクニックを楽しむ家族連れを見かける。
 宮古島・池間島の北の沖合にサニツの時期に姿を現わす巨大な珊瑚礁群”八重干瀬・ヤエビシ”がある。豊かな海の資源を育むこの珊瑚礁の東西約7㎞、南北約10㎞の広大な範囲は池間島や宮古島の漁師達の漁場として親しまれてきた。サニツの日には、さらに豊かな海からの恵みを人々がそのサンゴ礁に上陸し、その空間から海の幸を受け取れる、一年のなかで短く許された時間なのだ。
 1980年代ごろから宮古島も観光に力をいれ、ダイビングスポットとして有名になった。春に行われるトライアスロンの島としても有名になった。1990年代中ごろあたりから春の観光シーズンにこの「八重干瀬」に上陸し潮干狩りを楽しんでもらおうと「八重干瀬ツアー」がはじまった。チャーターの船便で八重干瀬に多くの観光客が上陸して楽しんでいる。ここ数年のサニツの行事を伝える新聞やテレビ報道は、この楽しむ観光客の様子を伝えることが多くなった。地元の年中行事に地元の人々ではなく、この時期に島を訪れる観光客の姿が映し出されている。地元でまことしやかに流布している話は、八重干瀬ツアー観光客が充分に採るのために、地元の漁協に海産物を確保してもらってこの時期に八重干瀬に移動置きさせるというものだ。確かに海産物は海の中で過ごすわけで生きてはいるが…。年々観光客が上陸して歩き回り、大量に海の幸を無邪気に採取すれば環境破壊にもつながる。リアルな八重干瀬ではなく、イメージを補強する操作が<観光>や<地域起こし>で行われているのが現実とすれば、現代の<浜下り・サニツ>は何を清め払うのか…。考察が必要だ。

新井白石

平成8年度(1996) 4月 「白石と地図と南島と」『がじゅまる通信7号』風樹社掲載
     
             「地図と新井白石と南島と」

 ”書斎に座して世界に遊ぶ”
  南蛮地図の傑作とされる『坤輿万国全図』(1602年刊行、1608年重修、宮城県立図書館、京都大学図書館、内閣文庫等が所蔵)の作者であるイエズス会士マテオ・リッチが、その序文に述べた言葉である。
  『坤輿万国全図』は、横62㌢、縦165㌢の図画内に描かれた図を横に6枚つなげた大型 図幅である。図には、球形の地球が中央に位置し、その中心部に大明帝国とその周辺を取り巻くアジアの国々が描かれている。日本もほぼ中央に描かれているため、日本人にとっては世界を理解しやすいという特徴をもっていた。この地図を眺めながら、一人の人物が思考を繰り返していた。
  近世、特に<鎖国>下の江戸期の日本人にとって、世界とアジア、世界と日本、アジアの中心と周辺への認識は、<地図>なくしては語れない。同時に本州の北に位置する蝦夷地と南に位置する琉球は、大いなる関心を喚起せずにはおれない、重要な空間であった。
  江戸中期の儒学者(朱子学派)であり、政治家でもある新井白石は、地誌編纂者としてもすぐれた先駆者でもあった。白石と南島との関わりも深い。
  白石が世界への認識を試みた『西洋紀聞』、『采覧異言』は、当時の世界の事情を日本へ紹介した最も早い時期の著述として知られている。 また北と南の空間への関心は、『 蝦夷志』、『南島志』、『琉球国事略』等、その地に関する最初の地誌研究書へと結晶化
されていった。
 それらをまとめるあげる白石にとって<地図>は、欠かせない情報源であり、思考が辿り着く場所でもあった。そして多くの文献史料や最新の<地図>ともに、欠くことが出来ない存在が、江戸へ来訪する異人達であった。紙面に描かれた地図の世界に、異文化の話で生き生きと彩りを添える彼等は、書斎に座して未知の世界へ<思考の航海>を続ける白石にとって、まさに水旅先案内人であったに違いない。
 例えば『西洋紀聞』を著すにあたって…。1708(宝永5)年、鹿児島(大隅国)に上陸したロ―マの使節ヨハン・バッティスタ・シドッチが、将軍の特令で、長崎を経て江戸に護送されてきた。白石は懐にコンパスを入れ、オランダの地図製作者ヤン・ブラウが作図した東西両半球図(『世界新地図』1648年刊行・現東京国立博物館所蔵)を持参して、その4回にわたる取り調べにあたった。
 「ロ-マはどこか」と尋ねる白石。シドッチは、両者の前にひろげられた206×298㌢の大図上に、縮尺に合わせた距離と角度を測って、正確に位置を示した。それからの3日間、西洋の文化からキリスト教の教理にいたるまで様々な質問が繰り返された。この聞き取りの成果だろうか。白石によって添付されたと思われる付箋が、この地図には多く残っている。
 花の季節には、徳川将軍表敬訪問のための長崎オランダ商館長一行が、江戸を訪れた。「カピタンの参府」と呼ばれた異人達は、当時の江戸の人々に、春の到来を告げる使者でもあった。白石は、その一行とも交流している。シドッチとの会談で得た知識を訂正する絶好の機会でもあった。
 白石とオランダ人との会談は、1712(正徳2)年に2回。2年後の1714年と1716(享保元)年にそれぞれ1回の計4回。当時、白石は将軍(6代家宣・7代家継)の政治顧問的な立場であった。そのため、白石はこの会談を通して、長崎貿易の改革に関する情報や、朝鮮・琉球二国をめぐり緊張関係の生じていた清帝国の最新ニュ-スを必要としていた。こうした政治的背景からのさまざまな役割を担っての会談であった。
 このオランダ人との会談や別の機会で朝鮮使節と対談する際に、白石が持参した地図は、マテオ・リッチ『坤輿万国全図』。この地図を利用して、地名について読み方をオランダ通詞、唐通詞に尋ねている。当時では機会の少ない、異人達からの直接の聞き取りで『西洋紀聞』は誕生した。当時の日本にとって、体系的世界地理を基礎づけるに価値あるものとなった。
 また、この時期の白石は、西洋と同様に強い関心を抱いていた琉球についても思考を重ねる日々を過ごしていたようだ。
 江戸を訪れた琉球の異人達にも出会い、<南島の地図>を道具にその認識を膨らませていもいる。
 1719年(享保4)に新井白石によって脱稿された『南島志』は、1710(宝永7)と1714(正徳4)年に江戸を訪れた琉球使節の一行と会見することで、内容の濃いものになっている。特に1714年の使節の一人であった、当時の琉球の碩学、儒者・詩人の程順則(名護親方)や組踊の祖といわれる玉城朝薫との面談は、白石にとって意義深いものであった。政治・経済・社会・地理物産・文化・言語・習俗・宗教関係・生活様式等の内容が質問されている。(『白石先生琉人問対』)
 『南島志』には、こうした聞き取りの情報の他に、特に引用の多い『使琉球録』、『琉球神道記』、他に『隋書』、『山海経』、『日本書紀』、『万国全図』、『延喜式』、『大明会典』、『大明一統志』、『南浦文集』等、多くの和漢の文献史料が登場する。豊かな文献知識に支えられ、白石特有の合理的・実証的な見解が「地理・世系・官職・宮室・冠服・礼刑・文芸・風俗・食貨・物産」の文化軸を中心に展開された。
 内容的には、文献や聞き取りからの記事で大部分が占められているが、冒頭には「琉球国全図」「琉球各島図」の地図が挿入されている事も注目できる。「琉球国全図」は、薩摩藩山川・坊津から与那国・波照間島までの全域を描き、航路を実線で記している。「琉球各島図」は、大島、沖縄島、宮古島、八重山島を描き、それぞれに村名、間切が記入されている詳細なものである。南島の地図の情報充実にかなりの質問がされたのだろう。
 このように、白石によって巧みに織り成された『南島志』の世界は、近世時における琉球書の白眉とされている。
 また名声の高い詩人でもある白石の詩集『白石余稿』は、後年南島の地図に示された海路にのり、琉球を媒介に中国へも渡っている。そして「オキナワ」の音に、「沖縄」の文字をあてた白石の発想は、現在の地図の上でも「沖縄県」として確認でき、より広く深く使用されるようになっている。
 白石は、南島をどのように認識していたのだろう。
 『南島志』、『琉球国事略』での新井白石の「琉球観」の特徴は、①源為朝を琉球王朝の始祖として認識、②文献や聞き取りからの琉球の文化から日本との共通文化を発見しようとする恣意がみられる点にある。こうした白石の意識は、琉球を古代日本の一部とする確信的な認識を生み出すことになり、その後の南島認識に影響を与えていく。
 『増補・華夷通商考』(西川如見・1708)、『紅毛談』(後藤梨春・1765)、『琉球雑話』(華坊素善・1788)、『紅毛雑話』(森島中良・1787)、『琉球談』(森島中良・1790)、それらを参考にして書かれた『椿説弓張月』(滝沢馬琴)等、白石以後に出された琉球関係の読み物の中には、「源為朝の末裔である琉球王」としての基本的な発想が言説として受け継がれていく。この言説の背景に、白石の「南島志」の影響を指摘する学者も多い。白石が解き放った「日本の中の琉球」の発想は、近世琉球学が集積されていく過程でも力強い流れで生きぬくことになる。そして現在「日本の中の沖縄」として、確かなの位置付けを与えられた南島が存在している。
  国が堅持されていた江戸中期にあって、白石は、江戸幕府の朝鮮、アイヌ、オランダ及び琉球への対応政策の担当者でもあった。そのため白石は、<鎖国>という現実的視線を持ちながら、多くの課題をかかえつつ、様々な国の異人たちと交流しなければならなかった。その立場は、「海外の文化」の濾過装置的な役割をあわせもつ、オピニオンリ-ダ-だったといえるだろう。
 書斎に座して日本と琉球の<地図>を眺めながら、思考を組み立てていく白石は、日本の南方に広がる空間に”日琉同祖”の意識の流れをかぶせ描いてみせた。それ、”新井白石”というフィルタ―を通った「南島」であった。

参考文献
*横山 學『琉球国使節渡来の研究』1987、吉川弘文館
*宮崎道生『新井白石断層』1987、近藤出版
     『新井白石』1988、吉川弘文堂
*田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995、朝日出版社
*『月刊しにか 特集・地図に描かれたアジア』1995、2月号、大修館書店