平成8年度(1996) 4月 「白石と地図と南島と」『がじゅまる通信7号』風樹社掲載
「地図と新井白石と南島と」
”書斎に座して世界に遊ぶ”
南蛮地図の傑作とされる『坤輿万国全図』(1602年刊行、1608年重修、宮城県立図書館、京都大学図書館、内閣文庫等が所蔵)の作者であるイエズス会士マテオ・リッチが、その序文に述べた言葉である。
『坤輿万国全図』は、横62㌢、縦165㌢の図画内に描かれた図を横に6枚つなげた大型 図幅である。図には、球形の地球が中央に位置し、その中心部に大明帝国とその周辺を取り巻くアジアの国々が描かれている。日本もほぼ中央に描かれているため、日本人にとっては世界を理解しやすいという特徴をもっていた。この地図を眺めながら、一人の人物が思考を繰り返していた。
近世、特に<鎖国>下の江戸期の日本人にとって、世界とアジア、世界と日本、アジアの中心と周辺への認識は、<地図>なくしては語れない。同時に本州の北に位置する蝦夷地と南に位置する琉球は、大いなる関心を喚起せずにはおれない、重要な空間であった。
江戸中期の儒学者(朱子学派)であり、政治家でもある新井白石は、地誌編纂者としてもすぐれた先駆者でもあった。白石と南島との関わりも深い。
白石が世界への認識を試みた『西洋紀聞』、『采覧異言』は、当時の世界の事情を日本へ紹介した最も早い時期の著述として知られている。 また北と南の空間への関心は、『 蝦夷志』、『南島志』、『琉球国事略』等、その地に関する最初の地誌研究書へと結晶化
されていった。
それらをまとめるあげる白石にとって<地図>は、欠かせない情報源であり、思考が辿り着く場所でもあった。そして多くの文献史料や最新の<地図>ともに、欠くことが出来ない存在が、江戸へ来訪する異人達であった。紙面に描かれた地図の世界に、異文化の話で生き生きと彩りを添える彼等は、書斎に座して未知の世界へ<思考の航海>を続ける白石にとって、まさに水旅先案内人であったに違いない。
例えば『西洋紀聞』を著すにあたって…。1708(宝永5)年、鹿児島(大隅国)に上陸したロ―マの使節ヨハン・バッティスタ・シドッチが、将軍の特令で、長崎を経て江戸に護送されてきた。白石は懐にコンパスを入れ、オランダの地図製作者ヤン・ブラウが作図した東西両半球図(『世界新地図』1648年刊行・現東京国立博物館所蔵)を持参して、その4回にわたる取り調べにあたった。
「ロ-マはどこか」と尋ねる白石。シドッチは、両者の前にひろげられた206×298㌢の大図上に、縮尺に合わせた距離と角度を測って、正確に位置を示した。それからの3日間、西洋の文化からキリスト教の教理にいたるまで様々な質問が繰り返された。この聞き取りの成果だろうか。白石によって添付されたと思われる付箋が、この地図には多く残っている。
花の季節には、徳川将軍表敬訪問のための長崎オランダ商館長一行が、江戸を訪れた。「カピタンの参府」と呼ばれた異人達は、当時の江戸の人々に、春の到来を告げる使者でもあった。白石は、その一行とも交流している。シドッチとの会談で得た知識を訂正する絶好の機会でもあった。
白石とオランダ人との会談は、1712(正徳2)年に2回。2年後の1714年と1716(享保元)年にそれぞれ1回の計4回。当時、白石は将軍(6代家宣・7代家継)の政治顧問的な立場であった。そのため、白石はこの会談を通して、長崎貿易の改革に関する情報や、朝鮮・琉球二国をめぐり緊張関係の生じていた清帝国の最新ニュ-スを必要としていた。こうした政治的背景からのさまざまな役割を担っての会談であった。
このオランダ人との会談や別の機会で朝鮮使節と対談する際に、白石が持参した地図は、マテオ・リッチ『坤輿万国全図』。この地図を利用して、地名について読み方をオランダ通詞、唐通詞に尋ねている。当時では機会の少ない、異人達からの直接の聞き取りで『西洋紀聞』は誕生した。当時の日本にとって、体系的世界地理を基礎づけるに価値あるものとなった。
また、この時期の白石は、西洋と同様に強い関心を抱いていた琉球についても思考を重ねる日々を過ごしていたようだ。
江戸を訪れた琉球の異人達にも出会い、<南島の地図>を道具にその認識を膨らませていもいる。
1719年(享保4)に新井白石によって脱稿された『南島志』は、1710(宝永7)と1714(正徳4)年に江戸を訪れた琉球使節の一行と会見することで、内容の濃いものになっている。特に1714年の使節の一人であった、当時の琉球の碩学、儒者・詩人の程順則(名護親方)や組踊の祖といわれる玉城朝薫との面談は、白石にとって意義深いものであった。政治・経済・社会・地理物産・文化・言語・習俗・宗教関係・生活様式等の内容が質問されている。(『白石先生琉人問対』)
『南島志』には、こうした聞き取りの情報の他に、特に引用の多い『使琉球録』、『琉球神道記』、他に『隋書』、『山海経』、『日本書紀』、『万国全図』、『延喜式』、『大明会典』、『大明一統志』、『南浦文集』等、多くの和漢の文献史料が登場する。豊かな文献知識に支えられ、白石特有の合理的・実証的な見解が「地理・世系・官職・宮室・冠服・礼刑・文芸・風俗・食貨・物産」の文化軸を中心に展開された。
内容的には、文献や聞き取りからの記事で大部分が占められているが、冒頭には「琉球国全図」「琉球各島図」の地図が挿入されている事も注目できる。「琉球国全図」は、薩摩藩山川・坊津から与那国・波照間島までの全域を描き、航路を実線で記している。「琉球各島図」は、大島、沖縄島、宮古島、八重山島を描き、それぞれに村名、間切が記入されている詳細なものである。南島の地図の情報充実にかなりの質問がされたのだろう。
このように、白石によって巧みに織り成された『南島志』の世界は、近世時における琉球書の白眉とされている。
また名声の高い詩人でもある白石の詩集『白石余稿』は、後年南島の地図に示された海路にのり、琉球を媒介に中国へも渡っている。そして「オキナワ」の音に、「沖縄」の文字をあてた白石の発想は、現在の地図の上でも「沖縄県」として確認でき、より広く深く使用されるようになっている。
白石は、南島をどのように認識していたのだろう。
『南島志』、『琉球国事略』での新井白石の「琉球観」の特徴は、①源為朝を琉球王朝の始祖として認識、②文献や聞き取りからの琉球の文化から日本との共通文化を発見しようとする恣意がみられる点にある。こうした白石の意識は、琉球を古代日本の一部とする確信的な認識を生み出すことになり、その後の南島認識に影響を与えていく。
『増補・華夷通商考』(西川如見・1708)、『紅毛談』(後藤梨春・1765)、『琉球雑話』(華坊素善・1788)、『紅毛雑話』(森島中良・1787)、『琉球談』(森島中良・1790)、それらを参考にして書かれた『椿説弓張月』(滝沢馬琴)等、白石以後に出された琉球関係の読み物の中には、「源為朝の末裔である琉球王」としての基本的な発想が言説として受け継がれていく。この言説の背景に、白石の「南島志」の影響を指摘する学者も多い。白石が解き放った「日本の中の琉球」の発想は、近世琉球学が集積されていく過程でも力強い流れで生きぬくことになる。そして現在「日本の中の沖縄」として、確かなの位置付けを与えられた南島が存在している。
国が堅持されていた江戸中期にあって、白石は、江戸幕府の朝鮮、アイヌ、オランダ及び琉球への対応政策の担当者でもあった。そのため白石は、<鎖国>という現実的視線を持ちながら、多くの課題をかかえつつ、様々な国の異人たちと交流しなければならなかった。その立場は、「海外の文化」の濾過装置的な役割をあわせもつ、オピニオンリ-ダ-だったといえるだろう。
書斎に座して日本と琉球の<地図>を眺めながら、思考を組み立てていく白石は、日本の南方に広がる空間に”日琉同祖”の意識の流れをかぶせ描いてみせた。それ、”新井白石”というフィルタ―を通った「南島」であった。
参考文献
*横山 學『琉球国使節渡来の研究』1987、吉川弘文館
*宮崎道生『新井白石断層』1987、近藤出版
『新井白石』1988、吉川弘文堂
*田中優子『近世アジア漂流』朝日文芸文庫、1995、朝日出版社
*『月刊しにか 特集・地図に描かれたアジア』1995、2月号、大修館書店
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