旅の記憶としての本
2006年12月16日(土)『沖縄タイムス』「本にまつわるエトセトラ」欄掲載
「旅の記憶としての本」
旅行やぶらりと立ち寄った街の雑踏を後にして辿り着く場所の多くが、静かな寺・神社や御嶽や歴史・民俗資料館、博物館、美術館である。此等の空間がかもし出す静寂さは一種独特で、何時間いても退屈しない。
過去に使用され、静かに眠っているかのように展示陳列されている民具や人々の祈りの対象になった宗教作品、作家の思考や技法、時代の息吹までも表現する芸術作品の数々。こうした作品の前に幾人かの人たちが立ちつくしたことだろう。空間を堪能した後、図録や関連の本を購入してその場所から離れる。後日その図録を広げながら自身の思考を確認したり、新しい認識に触れてゆく。
これらの空間と同様に旅先の本屋を訪うことも欠かせない。私は旅に出る時にガイドブック以外の自前の本を持たずに出かける。日本の各地はもとより、韓国、中国、台湾、インドネシアどの場所を訪れても、街の風景に本屋を探している。時間の合間をみて本屋に飛び込み、そしてジャンルは関係なく書棚の森を探索する。その中で気になった本を手にする。各地の印刷事情や紙の質感を味わう。
こうして手に入れた本の数々を、時には解することの困難で記号のような活字が並ぶその土地の本を、休息の喫茶タイムや宿舎で夜通し眺めて過ごしている。そうしている内に本の中の文字が語り始める。独特の匂いや音やリズムや様々な風景の立ち上がる世界が広がる。昼間に訪れた場所で生れた印象とは違い、別種類の少し高揚感さえ伴う自由な感覚がとてもいいのだ。お気に入りの時間。勿論自身の旅の土産は、その土地の地図と本になる。本屋に立ち寄ることなく時間に追われ駆け足で過ぎた旅は、どんなにたくさんの場所を訪れても、人に出会っても後悔というか何だか消化不足のようだ。
時折、自宅にある本が旅の記憶を呼び起こし、旅先で自身を入れた写真をあまり撮ることの無い私の旅の思い出となっている事に気付く。
最近では、インターネットから本を注文し購入することが、日常生活での購入スタイルとして多くなってきている事も事実。そして日常生活では、仕事関係や情報を得るために計画的に淡々と本を手にすることの方が多い。そうした作業は楽しさの半面感覚を拘束されているような苦痛さえも感じる時が無いわけではない。そうした日常から離れて旅先で偶然に本と出会い、それらを手に過ごす時間はゆったりした快楽の何者でもない。日々の生活でたくさんの本に囲まれて、たくさんの本を広げながら、時折「旅に出たい」と無性に思うことがある。
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