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2007年4月20日 (金)

「唐獅子」:「形ある時間」

「空飛ぶ線の動揺」シリーズ12 「形のある時間」

 今年のカレンダーも一枚になり、そろそろ来年のカレンダー選びを考える時期になった。 私達には時間幅を見ることは出来ない。日常生活の中で、私達の未来、来年の時間を具体的な数字としてそれほど意識してはいない。けれども不思議なもので、その年のカレンダーを手にした時初めて、これから訪れる一年という時間を「細切れの一日の単位、一日や月の単位として手に入れる」感覚が起ってくる。抽象概念としての〈未来〉から具体的に数字という形の〈現実〉味を帯びた一年分の時間を切り取って手元に置くー、そんな感じである。
 日本では、明治六年からの太陽暦の採用され、今日に至っている。けれどもそれまでには、各藩や地域ごとにその地方独特の暦製作技術を以て作られ、色々な種類の暦で示された〈一年〉という時間があった。農耕儀礼との関わりあいが深い陰暦が中心ではあったが中には、地震鯰の絵のついた「伊勢暦」や謎解きのように読まなければならない「田山暦」や代表的な絵暦の「盛岡絵暦」等個性的なものがつくられたりした。一年一月の時間感覚を太陽暦でならされている私からみると、時間がこれほどまでに多様の表現が出来るのかと驚くほどである。
 今日でも沖縄では、伝統的な祭祀は旧暦で行う事が多い。しかし現代の人々の方が、太陽暦の示す時間と以前の農耕サイクルとの深い関わりあいによって管理されていた時間とを日常の生活の中で、うまくバランスを保ちながら「暦に従うのではなく、二種類の暦の時間を使いこなす」より主体的で、暦(一つの限定された時間概念)の呪縛から解き放たれ自由なのではないだろうか。
 思うに、同じようにカレンダーによって示された時間ならば、幻想でもいいからランブール兄弟の傑作《ベリー公のいとも豪華なる時祷書》中の月暦画に流れるような美しい時間がほしいし、選べたらどんなにいいだろう。
                   1990年12月6日(木)「沖縄タイムス」掲載

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