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2007年9月 6日 (木)

「沖縄の金細工~うしなわれようとするわざ・その輝き」展によせて

2007年8月28日(火)『沖縄タイムス』に掲載

「沖縄の金細工~うしわれようとするわざ・その輝き~」展に寄せて

琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた。彼らは、鉄を扱う鍛冶や琉球漆器職人と同時期の16世紀後半には存在していたことが、『球陽』や家譜資料の文献資料で確認できる。1592年に、金具師、玉貫工、錫工などの細工部門を統括する「金奉行」が王府内に設置された。その後、琉球の金工技術は、幾度となく中国や薩摩から導入され、外国から輸入した材料で金属製品が製作されていた。
 
王府で使用する調度品や漆製品の飾り金具や錫や銀製酒器、国王や神女たちの簪、その他にも社会階層によって素材の異なる簪、上流の女性の指先に揺れる銀製の房指輪、首里城やお寺などの建物を装飾する飾り金具など、さまざまな金工品が製作されている。
 
琉球の金属技術は、古琉球期から近代まで、脈々と生きてきた世界である。近代以降、そのほとんどの技術は途切れている。1879年、琉球国は沖縄県となり、日本の一地域の歴史を刻みはじめる。時代の流れて、消えてゆく工芸技術も少なくはない。その最も代表的なものが金属関係の技術であり、紙漉きの技術であった。技術を支える需要と生産の柱であった王府使用の品々が注文されなくなる。近代以降、王朝文化を支えた技術の中で断絶を生み、今日に繋がれていない芸術が金工と絵画分野に顕著である。王府組織でその役割が、明確であった芸術文化ほどその断絶は深い。
 金工文化に陰りが見えるのは、琉球王府の消滅がもたらす社会変化だけではなかった。沖縄の金属文化が急激に衰えたのは、第二次世界大戦が契機であったことも忘れてはならない。実は、伝統技術と沖縄社会との乖離は、現代の問題なのである。熱を加えると溶解し、新たな道具に容易に生まれ変わる金属の性質は、戦争や時代の開発思考と全く無関係ではない。例えば、戦時色の濃くなった1941(昭和16)年には、日本全国に金属を献納することを奨励する法律が適応されている。こうした金属献納の運動は、沖縄でも展開された。1944(昭和19)年には、「簪報国」運動の成果として、沖縄だけで短期間に7千数百本の簪が献納されている。この時期に、簪・指輪の装飾品、その他にも金属製の盃や梵鐘などを献納された。軍事に必要なものを産み出す目的で消えていった金工品がいかに多かったか。そして戦後の生活用品を得るためにどれほどの金属製品がリサイクルされていったのか。またこの問題は、東アジアの開発に伴う金属需要が急速にのび、日本の各地で金属製品の盗難事件が社会問題となっている現在の状況と繋がっている。このことに思いをめぐらせれば、金工文化の喪失は、いつの時代にも容易に、そして瞬時に起こりうる問題といえよう。
 
現在、金属工芸で継承されている技術は、銀を主体とした素材で指輪、房指輪、簪などの装飾品が中心である。錫製酒器や島々に残る銅製品を生み出した細工技術は途絶えてしまった。数人の金細工職人が作る簪や指輪などの装飾品の多くは、琉球舞踊の踊り手たちや個人の需要に支えられて製作されている。
 
古い技術は、社会の需要がなければその役割を変化させていく。代々続いた金細工屋の志と葛藤に近い熱い情熱から、そのわざの系譜をささやかに繋いでいる人々。また、多くの時間と労力と、何よりも失われてゆくものに深い思いを注ぎ込み、粘り強く金工品を収集してきた人々がいる。そして戦前に撮られた写真でのみ、その輝きやわざが確認できる現存しない世界がある。沖縄の金工の世界を通して、失われたもの、繋がれたもの、失われようとするものと向き合い、過去・現在と何よりも未来の時間を見つめていただきたい。

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