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2010年

2010年12月 7日 (火)

宮古郷土史研究会12月例会

 宮古郷土史研究会12月例会で発表します。
テーマは「近代殖産興業政策と宮古上布」、この夏頃から関連の資料に目を通す作業が続いており、わかった部分を地元への資料提供もかねて話します。
 近代殖産政策としての苧麻栽培のあり様、台湾との関わり、上布生産のあり様、万国博覧会、国内博覧会、共進会などへの出品資料などから見えてくる近代の宮古関係の資料紹介です。発表レジュメは、「宮古郷土史研究会会報N0181」に掲載。原稿は『宮古郷土研究』に掲載予定。
 
*テーマ:「近代殖産興業政策と宮古上布」
*発表者:粟国恭子
*期 日:2010年12月11日(土)午後3時から
*場 所:宮古島市立平良図書館北分館2階

2010年11月 5日 (金)

比嘉康雄展示会に寄せて

Photo_2沖縄の戦後、祭祀の世界をテーマに数多くの写真を撮り続けた比嘉康雄の展示会「母たちの神 比嘉康雄展」が開催されている。
 比嘉氏との交流は、1990年頃沖縄民俗学会で私が宮古の祭祀について(卒論や修士論文)発表をしていた時期に始まる。
 若輩であまりまわりのあり様を見回す余裕もなかったが、月に一度の例会に毎回出席することもない比嘉氏が、私の発表の時には出席して厳しいコメントをいただいた。その中でも「あなたは何のために研究をしているのか?島々で行なわれる祭祀のはるかな歴史性をどのように考えているのか?」という質問を受けたことがある。
 現代の社会構造と宗教のあり様を、その頃学んだ欧米の理論のニュアンスに重きを置くことが意味があるのだと、幼い頭で考えていた私は、だぶん未成熟の思考で、ごまかしにも近い対応をしたにちがいない。比嘉氏は、少し失望にも近い表情で言葉を止めた。
 その頃、比嘉氏はニライ社から「神々の古層シリーズ」で次々に沖縄の各地の祭祀・神女の写真群を刊行していた。いい著作シリーズである。その中の一冊宮古の「竜宮ニガイ」の書評を、私が担当することになった(1993年)。書評原稿は→ https://aguni-kyoko.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_9054.html 比嘉の仕事の二つの意味(祭祀世界の精神性・人、民俗世界の記録性)を短いながら評価したつもりだった。そのスタンスは今も変わらない。
 民俗学会の厳しいコメントをいただいただけに、書評原稿を比嘉氏がどのように受けとめるのか不安だったが、沖縄市で開催された仲間内の出版祝賀会に顔を出すと、喜んでくれ、「書評のコピーを会場の人々に配ったよ!」と…安心した。
 今回の写真展では、三つのシンポジウムか開催される予定だそう。写真史の中での写真作家・比嘉康雄像、テーマだった祭祀世界、そして「今、なぜ比嘉康雄か」というテーマで語られるという…。
 戦後沖縄の代表的な写真家の比嘉康雄の仕事を、私なりに改めて整理し考えてみたい。

2010年10月19日 (火)

講座「女性と文化」

 地元の大学で「女性と文化」講座を担当して15年ほどになる。全国の多く大学で女性学の講座が提供されるようになる1990年代からになる。ジェンダー問題、ジェンダー研究、文化研究だけでなく沖縄の女性文化内容も3分の1の割合で盛り込んで構成して、近年では以下のような15回で落ち着いた。1990年代には「女性史」「女性と社会」「女性と家族」など結構時代を反映してか、女性と○○と講座名が多かったが現在では「女性史」と、担当している「女性と文化」と減っている。時代の特徴であろうか。
 専門ゼミではないので150名前後の学生が前期・後期と受講しているので15年間だとそれほど少ない数ではない。それぞれに何かつながったものがあったのか自問するこの頃である。
1)ジェンダーとは何か 文化的性差の概念
2)女性研究学説史① 女性の文化研究
3)女性研究学説史② フェミニズム人類学とそのテーマ、マイノリティー研究から
4)沖縄の女性研究(佐喜真興英、伊波普猷、真境名安興から現代まで)
5)女性と婚姻 婚姻システム
6)婚姻システム②―問われる産む性―
7)生む性~母性・子供の発見~
8)ケガレ・聖観 管理される身体①
9)文化に管理される身体②「神と呼ばれた少女」ネパール・クマリ信仰
10) 文化に管理される身体③ ケガレなき女性の文化・神女
11) 文化に管理される身体④ 身体加工(アフリカほか)、人権と文化
12) 沖縄の女性―婚姻・離婚(戦後沖縄と祖先祭祀と女性問題)
13) 沖縄文化と女性―近世琉球の女性と近現代の女性の婚姻
14) 沖縄の風俗改良 風土と文化(ハジチ、琉葬から和装、金属・簪)
15) 沖縄文化と女性―労働―

浦添市てだこ大学院

 浦添市には老人学級(60歳以上の市民が参加できる)のてだこ大学院がある。
生涯学習の定着する流れの中で、各市町村には同じような団体があるが、てだこ大学院は沖縄の中でも歴史はふるく、那覇市よりも古い。学生達(当然先輩たち)がカリキュラムから運営までの役割を自主運営している。市から補助も受けていると思うが…あくまでも運営は学生及びOB・OG達で行なわれている。。
 カリキュラムも年々試行錯誤しながら自分達で決定し、バラエティーに飛んでいて…。学生たちも経験もそれぞれで年齢幅もある。若い学生は60歳から先輩には90歳近い学生さんたちがイキイキと2年間学んでいる。事務局を担当する役員達も卒業生が当たって運営している。
 てだこ大学院の講義(歴史3回)を担当して15年程になる。浦添市立図書館沖縄学研究室勤務の時期から担当していて、当時館長であった高良倉吉先生が担当していたが、琉球大学に移られるということで私が担当することになった。それから15年…毎年9月に講義があり数回のお付き合いだけれど、毎年皆さん熱心に話しを聞いて質問も積極的で…私の方が元気をもらっている。
 もともと浦添出身の方も多いが、浦添市には結構宮古や八重山、県外出身の方たちも住んでいる。
 15年前は、若い先生として珍しがられたが最近は学生との年齢差が余りなくなってきた(笑)。
 浦添市民生活も20年以上になり…浦添市民の先輩達に少しでもお役に立てたらと思い楽しく担当している。
  先輩たちの元気にあやかって、前向きにがんぱろうと思う、毎夏恒例の出会いである。
 

2010年10月 5日 (火)

屋嘉比収 氏追悼

Photo  9月30日に沖縄の近現代・思想・文化のオピニオンリーダー的存在だった屋嘉比収氏が亡くなった。享年53歳。2年ほどの闘病生活の中で精力的に著作や新聞紙面・雑誌などに文章を寄せていた。
 53歳は早すぎると…やりきれない思いも重なります。
告別式でご子息が「自宅療養を望んだ父は、病床でも原稿の校正作業をしたりして、最後まで家族に見守れながら充実した人生だったと思います」としっかりと話されていた言葉で、その死をきちんと受け入れた。

 この3月上旬にご本人から電話があり新著『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』の書評の依頼を受けた。(2010年3月28日『琉球新報』/ryukyushimpo.jp/news/storyid-159927-storytopic-90.html)。
(このブロクでも紹介しました)
 つたない文章に掲載後丁寧なお礼と共に励ましの言葉もメールでいただいた。とても謙虚な丁寧な方で…。慕う後輩達も多かった。

 屋嘉比さん(当時33歳)との交流は、彼が1990年『新沖縄文学N086』で、沖縄国際大学時の恩師の<玉野井芳郎と沖縄>特集に文章「玉野井理論における方法的視座の転換」と座談会の司会役(「地域自立と環境の危険をめぐって」宇井純・多辺田正弘)などしていた頃から…
 氏が那覇市史編集の仕事に携わり、まだ九州大学博士課程に進学する前だった。恩師・玉野井氏が提起した生命系の経済学(エコロジーやエントロピーの理論)や、地域主義の志向、ジェンダー問題と幅広い理論に触れ、その継承を志した若き研究者だった。氏の幅広いテーマでの言論活動に大きく影響した仕事としてこの特集号は重要である。彼の友人の渡久地健氏(地理学)もその特集には重要な役割をしており、二人の交流は<玉野井芳郎>の学問を通して深化していく。
 その頃、私は大学院を修了したばかりの若輩で、当時沖縄タイムス紙面で担当していた唐獅子の小文に対しても丁寧に感想を寄せてくれ、その後も機会がある度に励ましの言葉をかけてくれる先輩でもあった。
約20年ほどの交流ということになる。
 その後私が浦添市立図書館沖縄学研究室に勤務していた時期には、氏は九州大学博士課程に進学し、帰省する際には沖縄学講座の講師(伊波普猷の命日・物外忌の8月に)をお願いしたり、紀要の原稿(本ブログで紹介した伊波普猷没50年記念特集号)を寄せてもらった。その原稿は、その後まとめられた博士論文の基的な性格を持った文章に位置づけられる。
 1993年には沖縄タイムス紙面で言論百年記念に特集が組まれ、沖縄の近現代言論人の年間連載企画で屋嘉比さんが島袋全発、私が末吉安恭(麦門冬)、伊佐眞一氏が太田朝敷その他10人ぐらいで1年半に渡って掲載し、勉強会なども開催したりいろんな議論をして交流があった。
 ここ10年ほどは、私が物質文化の調査研究に力点をおいていたので、テーマ性の違いから多くの場面で交流があったわけではないが、変わらず会えば励ましの言葉をかける優しい対応をいただいた。彼を知る人々のほとんどの人が持つ印象ではなかったか。
 「人格者で尊敬できる沖縄の知識人」の短い生涯…しかし、交流した多くの若手近代思想研究者のグループも活躍している点では、活動の根はしっかりと広がっている。
 
 心から、冥福を祈りたい。

2010年9月20日 (月)

書評 『奄美沖縄の火葬と葬墓制』沖縄タイムス

201009_2
 2010(平成22)年9月18日(土)「沖縄タイムス」紙面に、この夏書いた書評『奄美沖縄の火葬と葬墓制』(加藤正春著、榕樹書林)が掲載されました。写真クリックすれば拡大します。
 このテーマを重点的に研究を深めたわけではないが、学生の頃から聞き取りの機会は少なくない。奄美沖縄の葬墓制については従来研究(民俗、歴史、考古)の関連情報を取り上げ分析、整理分類提示した著作は意外に少ないため、自身の思考確認の意味でも参考になった。
 著者の加藤氏は、面識は無いが文面では桜井徳太郎氏のお弟子さんにあたるようです…。
話は変わるが
奄美沖縄の葬法で限りなく100%に近い火葬…考えようによってはエネルギー消費型の遺骸処理法で<効率性、短時間>というキーワードで捉えれば現代的といえば現代的。昨今はやりの「エコ」「環境に優しい」とはある意味距離感がある。
 今年のお盆に近い親戚から「父(その人の)を火葬してあげられなかったことだけがくやまれる」という言葉を聴いた時、これほどまでに沖縄の人の中で風葬・洗骨(多くは)の改葬する伝統的な葬法よりも、火葬の評価が高くなったのかと考え込んでしまった。
 時代の価値とは不思議なものだ。
 

2010年9月15日 (水)

宮古の戦後史

100_3   8月は戦争関係の話題が多い。その記憶をめぐる特集もメディア(TV/雑誌) で連日報道されている。沖縄では慰霊の日(6月23日)の6月からその流れは続いている。
 この夏は、沖縄の戦後文化復興に興味があり関連資料と宮古での聞き取りを行なった。
 写真は、宮古支庁(戦後も焼け残った)。終戦直後、1950年群島政府になるまで独自の民政府が行なわれた。Photo_6
 宮古は終戦後の8月22日頃には、さっさと「御真影」「詔勅」類を焼却し、「楽土建設」「文化立島」などが標榜されて政治?が行なわれている。不思議なコピーだなーと…。その在り様が気になりお盆の帰省時期に合わせて資料収集。宮古民政府議会写真など確認できた。
Photo_7  Photo_9それと同時に上記の<戦争の記憶>の在り様を自分なりに整頓するために、改めて読み直したのがピエール・ノラ篇『記憶の場』解説文とジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』…『沖縄戦後史』と絡めて読むとなかなか、興味深い点も多い。
60年余の時間…人々の<記憶の場>はどのような在り様でそこにあるのか…。生活や道具などもふくめて…。
聞き取りの課題は多い。

教育事務点検評価委員会

 3年程、那覇市教育事務点検評価委員(那覇市教育委員会)を引き受けている。7月に4回程会議があり、昨年度の教育委員会の各部署担当事業内容(20事業)のヒヤリングを行い質問をし、評価(妥当性・効率性・有効性・今後の展開・総合評価)を行なうもの…。5人の委員で構成され私の担当は、博物館関連、文化課(主に文化財関係)の事業を担当した。その他の部署担当事業のヒヤリングにも参加するが、なかなか勉強になる。
 委員会でだされた答申は、議会へ報告書で提出され、教育委員会ホームページでも公表されている。
 昨今では、事業仕分けなどの行政外部からの意見を反映させることが多くなされているが…。
 こうした教育委員会事業への外部からの視線を受けてその内容が公表されていくことで、よりよい方向性につながることを願ってやまない。

2010年8月14日 (土)

伊波普猷63回目の物外忌

20100813_003100  何年かぶりに、伊波普猷の命日8月13日に浦添城址公園内のお墓を訪ねた。
 この夏になって、久しぶりに伊波普猷の『沖縄よ何処へ』を読み返していた。昭和3年にだされたこの著作については、多くの言説で取りだたされている。その文末に柳田國男の「地方文化建設の序説」が長々と引用されている。このことが気になって考えをめぐらす時間が重なり、散歩がてら訪ねてみた。
 1961年に、15周年忌をかねて遷骨式と顕彰碑序幕式が盛大に行なわれている(粟国恭子「伊波普猷顕彰碑について」1997年)。
 20100813_004100 顕彰碑には東恩納寛惇の撰文がきざまれている。
 あれから50年近くの歳月が流れている。その言葉も風雨にさらされ、いささか薄らいでいる。
 伊波普猷自身の存在も風化していくのだろうか?
 午前中?に他の方々による物外忌のお参りがなされたようで、真新しい花が供えられていた。
 しばらく、たたずんでいると一羽のアオスジアゲハがゆらゆらと墓前に現われた。
 美しい蝶である。しばらくその空飛ぶ線の動揺を眺めていた。
Images1_2 魂の象徴としてあつかわれる蝶。
 こんな美しい魂ならば悪くはない…
  

2010年8月12日 (木)

伊波普猷とニーチェの言葉 8月13日の物外忌に寄せて

Photo 8月13日は、沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の63回目の命日。伊波の雅号から物外忌とよばれている。
 
1997年に当時勤務していた浦添市立図書館の紀要(NO8)で「伊波普猷没50年記念特集」の編集担当(一人)であった私は、「伊波普猷顕彰碑について」「伊波普猷と浦添と沖縄学と」「「伊波普猷と末吉麦門冬(安恭)の交流」「沖縄学研究室所蔵の伊波普猷関係資料」「<沖縄学講座・物外忌記念講座>概要」という文章を寄せました。
 
 その中の「伊波普猷と末吉麦門冬(安恭)の交流」で、
伊波普猷とニーチェの言葉関係を紹介している。
 伊波は、ニーチェの「汝自身を知れ、そこには泉あり」という言葉をかりて「深く掘れ、余所たよて水や汲まぬごとにー」という琉歌を詠んだ。
 この言葉は著作でも講演会においても繰り返し語ったといわれている。
 また、戦後の沖縄研究のみでなく政治的にも結構使われてゆく伊波の歌((ニーチェの言葉)そのものの情報は少なかった。
 
当時(1997年)は、伊波普猷研究で有名などの先生に聴いてもよくわからないの返事…。図書館の沖縄学研究室には問い合わせも多く、問合せには、沖縄県公文書館からもあって、公文書館の入り口に刻印されているこの言葉に対して質問があったという。こうした必要性もあり、上記の論文で紹介した経緯を思い出す。
出典原本は『Die Frohiiche Wissenschaft』(『悦ばしき知識』)で、1881年~1886年にまとめられている。その中に収められた箴言「ひるまずに」の一節。


現在では、公文書館HPには上記文章タイトル引用も掲載されています。

 しかし、現在でもこの言葉の出典については、沖縄研究者でも知らない方の方が多い状況があるようで…。
 その部分を紹介しておきたいと思います。以下のファイルを参照されてください。
「199703.pdf」をダウンロード