2011年「國吉清尚展ー土と炎に生きた魂の軌跡ー」展観覧感想
2011年4月から沖縄県博物館・美術館で開催されている陶芸家の大規模回顧展「國吉清尚展ー土と炎に生きた魂の軌跡ー」を観てきました。2011年が没12年。人となりの記憶を多くの人々が抱えている…その魅力を熱く語る人たちも多い、誤解を恐れずに言えば、国吉清尚の熱いファンには男性が多いように思える。
沖縄の陶器を語る言葉は、<民藝>のフィルターを通して生れることが多く、県内外から期待されるであろう沖縄の陶器への「位置付け」もその枠組で一般化される傾向があることは、多くの人に周知のこと…。このことは、沖縄の陶器への作品評価・またそれを作り上げる作家達の作風への影響も少なくない。それをある意味での<系譜>というのであろう。
その系譜を抱えつつ、そして超越し独自の作風で多くの作品を残した國吉清尚の仕事は、県内外の美術館・博物館で収蔵されいる。また、戦後の沖縄美術関連の展示会で観る機会は多い作家でもある。
しかし、國吉の作品全体に触れる機会はそう多くはない。
今回j展示された作品数は約270点。これだけの数の作品群を鑑賞できる機会は今後ありそうもない予感とともに、興味深くみた。
しかし、展示会そのものの印象で、少し気になる点が残った。
その多くの作品は、大中小5つの空間(展示スペース)に分かれて展示されている。「1970年代」、「1980年代」、「1990年代」の10年単位の創作時期が作品解説には記されている。が、展示は時系列でもなく、それぞれの空間で各時代の作品が混在しての展示になっている。
それぞれの展示空間に各時代の作品を混在させるということも展示側の国吉作品への認識として<ある意味>を持っているに違いなく、それを観る(観覧者)へ感じとって貰う必要があるのではないか。
しかし今回展示の印象ではその<ある意味>は伝わりにくく、その展示空間が支配する空気感違いは、本来の国吉作品の空気感の違いではなく展示台の印象(コンクリートブロック基本台や鮮やかな色テーピングが装飾された展示台、特別に作られた現代デザインの吊り下げ方展示台などなど)が強烈すぎて、国吉作品の持つ力が拡散されてしまい、国吉清尚の「生きた魂」に近づけなく見失ってしまいかねない。 作品よりもディスプレイ効果が先にたち観覧者は、展示空間説明やそこにある作品と国吉に関するパネルも少ないため、その空間が意味する国吉の作品世界を感じ取るには、なかなかエネルギーが必要で立ち尽くしてしまう。
展示空間作りの取り組みとしては意欲的だが、その取り組みは「國吉清尚」世界理解のために効果を発揮しているとは言いがたい。
展示空間の違いは、展示側にとっては大きな意味を持っており、その空間は展示側の作品認識と深く結びつき、展示側の一つの表現として観覧者を作品そのものへ導くのである。
今回の展示デザインは、沖縄でも彫刻家でもあり都市空間設計の重鎮である能勢孝二郎、能勢裕子氏によるという。
美術品の展示は、展示会毎に独自の空間印象作り効果も必要だが、それはあくまでも展示作品の力を引き出すためのものであってその空間に展示された作品の印象が優先されることが望ましい。
先にも述べたとおり作品群は、従来になく数多く収集され迫力あるものであり、国吉がどのような作品群を製作していたのかの大枠を知る意味で、その点は評価できる(ただ、作品の数量が多いことが=質ではないことも確認する必要がある)。がしかし、一人の作家の数多い作品展示であるがゆえに、作家情報、図録及び作品分析など本来、美術作品理解に重要な基本的な分析作業が弱いことも浮かび上がらせている。このことがある意味展示デザインの印象が残ってしまう要因にもなっているのである。
シンプルな展示空間デザインであっても、観覧者は展示側の意図・認識・作品への深い理解から立ち上がる空間であれば、十分な満足がいく展示会として楽しめるものである
展示側が自己表現としての展示デザインがメインであるならば、展示会の意図・タイトルもそう主張した方が、観覧者の戸惑いはなくなり、展示空間を楽しめるというものである。










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