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2013年度法政大学沖縄文化研究所が主催する総合講座後期「沖縄を考える」(全13回)の6回目を担当するために東京へ出向きました。
2013年10月25日(金)午後3時10分~から「戦後沖縄における文化政策と表象」について話ました。1945年から1955年の10年間に絞って、戦後沖縄の混乱する中展開された文化政策のあり様、<文化>をめぐる人々活動を、情報が伝わるようにたくさんのビジュアル資料を使って話ました、
また10月25日は、渋沢敬三(実業家・民具学・民族学者)の没50年にも当る日でもあったので、「戦後沖縄と渋沢敬三」についても紹介しました。
大勢の学生さんと、この講座は一般の方も参加でき、沖縄文化研究所研究員の皆さんも大勢の方が参加されて、さすがに都市圏大学の講座風景は違うんだなーと思いながら、楽しくお話をさせていただきました。
欲張って概要的で情報過多の構成された講義内容を、理解していただけるか心配しましたが、講義後の感想を読ませていただくと概ね関心を持ってもらったようで安心しました。
時代は戦後沖縄の10年間に絞りましたが、今日に繋がる大きなテーマは、<沖縄を正しく知る>ことの意味、<沖縄文化>をつなぐという事の意味を感じて欲しいということでした。
講座の趣旨「沖縄を考える」ことを、多くの学生さんの一人一人の思考に繋がってもらえれば幸いです。
中には沖縄出身の学生さんもコメントを寄せられていて、学びの場・時間を共有できて喜んでいます。
お世話になりました。
2013年8月17日、元法政大学沖縄文化研究所所長の比嘉実先生が肝臓癌でなくなられた。享年70歳 。
お盆で帰省していたため告別式にも参列できずに最後のお別れもできず…。ご冥福をお祈りします。
1980年後半から学恩を受けた。90年からNHK大河ドラマ「琉球の風」の時代考証の仕事で、私は浦添市立図書館に勤務しており、その後引き続き同図書館沖縄学研究室の職員で勤務していた97年までの間に、幾度となくお会いする機会があった。
当時の図書館長が交流も深かった高良倉吉先生。沖縄学研究室に資料提供もされていた。
当時、法政大学沖縄学研究所所長でもあった先生は、法政大学プロジェクト(小湾調査、久米島調査)など、浦添市中国交流事業、「琉球の風」時代考証の東京での責任者でもあり、そのほかにも多方面ご活躍されていた。
大きな体でしかし繊細な印象、明るくハンサムでメディアでも人気があったとおもう。40代後半から50代前半の働き盛りの沖縄研究者という印象であった。写真は当時の印象のまま(『古琉球の思想』著者紹介より)である。たくさんのお子さんのよきお父さんでもあった。 思い出すのは「琉球の風」製作作業中のこと、私が好きなブームの「島唄」(当時はまだ大ヒットとまではいかない時期で広く知られている唄ではなかった)を高良先生を介して紹介すると、「琉球の航海・オナリ神の信仰に通じるものがある」として、「法政大学の講義で学生たちに聞かせている」とにこやかに話されていた。
あれから20年以上の時間が流れ、ブームの「島唄」は今でも沖縄をテーマにした唄として内外で歌い継がれている。
また、ドラマに使用した進貢船(今はもう廃船になってしまったが)が製作先の福州から那覇港に入港するときも、それぞれがこの唄を聞きながら、それぞれの思いをもって迎えたことも懐かしい思い出である。
それぞれの思いを持った人物の中に、忘れてはならない人物がいる。福州から那覇港に進貢船を曳航する際、船舶のプロとして、沖縄側から参加していたヨットマンで小説家・新作おもろなど創作していた真久田正氏。福州からの船旅を航海してきた真久田氏の思いもまた深かったはずである。彼も今年の初めに他界してしまった。今頃、比嘉先生と二人で航海のおもろを語り盛り上がっているのかもしれません。 また、当時学生時代からのテーマで奄美・沖縄の祭祀道具(ノロ扇など)を調査して沖縄・奄美の島々を歩いていた時期でもあったので、比嘉先生の著作『沖縄風物誌』(1984)、『古琉球の思想』(1991)は何度も読み返していた。鋭い感性の論考テーマ、日輪鳳凰などの文様研究の先駆的な仕事をされ、多いに影響をうけた。今著作を開いてみると、書籍にほとんどラインなど入れない私が、線やコメントをたくさん入れている。若輩ながら専門外のおもろの世界を深く理解したいと苦戦していた作業の跡に触れると、あの頃から時間はすごく流れたけれど、やはり比嘉先生は私にとっては研究者のままである。
政治家を志されてからは、ご本人とはお話する機会も少なかったが、知人の研究者との会話の中で比嘉先生の話題が時折りでた。すぐれた研究者の資質を持ちながら別の世界で過ごされていることを遺憾に思う研究仲間は大勢いたのではないでしょうか。
合掌
第33回沖縄文化協会賞(平成23年度)で、「沖縄の芸術文化の研究」に対して金城朝永賞をいただだいた際、授賞式(平成23年11月19日)に記念講演をおこないました。
その際の内容を、論文「近代沖縄の金属文化ー失われつつある技術と向き合う思考ー」が、沖縄文化協会の機関紙『沖縄文化』113号(第47巻第1号)に掲載され発刊されました(2013年7月23日)。
2012年11月20日に沖縄文化協会を長年支えてきた外間守善先生がなくなられ、いろいろあった中で、編集作業をしていただいた沖縄県立芸術大学附属研究所波照間永吉先生をはじめスタッフの皆様には大変感謝しています。
1996年ごろから何年もかけて、琉球王府時代の金属関係の資料をたくさん見てきたのですが、私の本丸は近代及び現代問題の沖縄工芸文化(それは近代日本の文化政策論でもあります)でした。
ようやく基礎知識を得る助走の後、スタートがきれたかなと思っていた際に受賞講演があったので、近代沖縄から戦後・現在にかけての課題確認に触れてみました。
つたない内容ですが、忌憚のないご批判・ご指摘のご指導のほどよろしくお願いします。
粟国恭子 「近代沖縄の金属文化ー失われつつある技術と向き合う思考ー」
はじめに
1、古琉球期から近世の金属文化
1、琉球に流通する金属
2、金属を扱う職人とその技術
2、近代の金属文化のあり様
1、近代日本の勧業政策と沖縄ー博覧会(共進会)への参加
2、金属文化と戦争
3、金属文化の現状と課題ー技の<復元>をめぐる思考ー
<金属関係参考文献>
新城栄徳氏の開設しているブログ「琉文21」に、末吉安恭(麦門冬)の俳句が紹介されている。http://ryubun21.net/index.php?itemid=6812
以前から関心を持っている近代沖縄の博覧強記を代表する人物で、魅かれる人物の一人。俳句もなかなかいいのです。
今回紹介された句から 「月の方へ 蔭の方へと 踊りけり」
とても言葉のリズムが、その心情をも伺わせるようないい句ではないでしょうか。
明治19年生れの安恭が、23歳の時に詠んだうた。若かさもいい感じです。魅かれる人物の作品は、どこか贔屓目に受け入れる。
2013年、今夜の月もなかなか美しい。
2013年7月16日(火)は、朝早くから南城市佐敷・新里の御嶽・拝所を役場文化課の職員と民俗学者上江洲均先生とフィールドワーク。馬天御嶽(ここ一帯の御嶽杜は時代の重層性がなかなかおもしろい御嶽です)、新里殿、勢理客殿、ノロ殿内、土帝君、宮城殿、上・中・下樋川、東・西龍宮と結構な数の場所を訪問。途中で地元の方にあって、いろいろ話しを聞く。興味深いお話を聞かせていただき感謝。
広い空間でその御嶽や拝所のイメージをしっかり持つ、でもさすがに佐銘川大主系統の門中も多くいる地域なので、御嶽や樋川の空間・建造は趣もあり、いつきてもやっぱり違う空気感が漂う。
でも一番暑い1時近くまで野外にいると、結構体力的にこたえるものですね。修業が足りないなー。しかし楽しい時間でした。
2013年度の沖縄文化協会公開発表会が、7月14日(日)に那覇市首里の沖縄県立芸術大学で開催されました。
毎年海の日に近い週末に開催されています。1年で一番暑い季節です。
2会場に分かれて、18本(発表20分質疑応答10分)の研究発表がありました。文学・音楽・工芸・歴史・文化人類学などの幅広い内容。大学院生から本職の研究者まで多彩な顔ぶれです。韓国や中国からの留学生の発表もあり、沖縄研究は、年々多様になっています。
発表内容の詳細は、以下の沖縄文化協会HPをご覧ください。
http://www17.ocn.ne.jp/~amayo/
私は、工芸関係2本(漆芸、織物)の発表者を紹介することになりました。研究会ですから質問も盛んになされ、発表者の考えを聞くチャンスです。質問される側は大変だと思いますが…。
なかなか有意義な時間になりました。
歴史家で弁護士の新里恵二氏(84歳)が2013年6月19日になくなられたというニュースが、28日の地元の新聞に報じられている。ご存命であったことを知らず、そのニュースに驚きを隠せない。
1928年沖縄県那覇市若狭生まれ、1949年に第五高等学校中退、東京で比嘉春潮に師事し沖縄歴史・文化の研究を深める。自身では10代の終わりごろリッケルトやヴィンデルバンドに傾倒し和辻哲郎や天野貞治に影響されたと語っている。
1963年には、政治性でも近い比嘉春潮、霜多(旧姓島袋)正次の3人で岩波新書『沖縄』を発刊している。この『沖縄』は、当時の沖縄文化が広く一般に知られていないため「沖縄の返還運動を全国民的なものにするうえで大きな障害になっている」とした深い思いから、沖縄文化・民俗・歴史の全体イメージと系統的な知識の広がりのために編まれた「概括的な紹介書」 として発刊。以来何度と増刷され、県外の一般の方にも広く読まれた沖縄関係書籍のさきがけではないだろうか。
その中でも「参考文献について」を新里が担当している。金城朝永が亡くなって以後、1960年代に沖縄文献情報について配慮した記述を心がけた歴史家でもある。それゆえに現在60代の沖縄歴史・文化研究者の多くが、学生の頃からその歴史論を読み影響を受けた存在であり、沖縄の歴史研究の巨人の一人ではないだろうか。単著には『沖縄史を考える』『沖縄県の歴史』などある。
新里の仕事は、1972年沖縄が日本へ<復帰>した前後にその多くはまとめられている。1960年代70年代の沖縄歴史の牽引者と位置付けも可能である。復帰後まもない時期に発刊された『叢書わが沖縄 歴史篇』では、編者(新里)の独自の視点と知性の客観性からの各論考へ分析する力量が印象として残る。現在読み直しても新たな発見がある。
その歴史認識は、唯物史観に基づいており、時代の変化の中で、沖縄の歴史を語る中心的な存在からは遠退いていた観があるが、やはり<沖縄歴史研究史>では重要な役割を果たした人物の一人であるには違いないと思う。
2012年の昨年、<復帰>40年がめぐった沖縄で、改めて氏の著作などに眼を通す機会の多かった時間を過ごし、興味深い指摘も多く勉強になった。
私自身の無知認識不足なために、生前お会いしてお話を伺う機会を逃したことを大変残念に思う。
ご冥福をお祈りします。合掌
<復帰>41年目を迎える5月15日に、財布の中に2000円札が2枚入っていた。
沖縄地元では、銀行や観光業界など「2000円札を利用しよう!」推進の運動を展開していたりするが、地元で生活していても、手元にめったあることはない。2枚も偶然にお財布の中でそろうことは、実にめずらしい。
2000円札は、2000年ミレニアム記念の九州・沖縄サミットの開催に合わせてその年の7月に発行され国家の通貨として誕生した。表に首里城(サミット夕食会の会場でもあった)の第2門「守礼の門」が、裏面では日本の古典「源氏物語」の一場面が描かれた図案である。
発行当時沖縄のジャーナリスト・思想家の新川明『沖縄・統合と反逆』(筑摩書房、2000年)の第1章「国家統合と通貨ー「守礼門」新札をどう読むかー」興味深い論考をまとめた。
新川の論考を受け、鹿野政直(近現代思想史研究)『沖縄の戦後思想を考える』(岩波書店、2011年)の中でも「沖縄の<主役>意識をくすぐろうとする方策」として取り上げ論じている。文化表象及び文化政策の一面としてはこの2000円札は重要な意味を持つ。
復帰40年を迎えた2012年この2000円に関するニュースが地元新聞(『沖縄タイムス』)に小さな記事で紹介された。その記事は財務省が2012年も二千円札は製造せず9年連続の製造なし(製造枚数ゼロ)という内容であった。財務省は「再開は難しい」とコメント。2003年度の1億1千万枚を最後に製造されていないことになる。
このような現状をふまえればやはり、この二千円札誕生は、必要とされた通貨としての誕生よりも新川・鹿野の指摘するように文化政策としての<意味>をまとった通貨の性格のみが未来にも残り、政治的な資料となる。
2013年5月15日に財布に入ったきた二千円札二枚は、この記事を残す偶然の後押しになった。
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