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東アジア

2015年8月 5日 (水)

2015年うらおそい歴史ガイド養成講座「近世琉球の文化と浦添」

20150728

 2015年度「うらおそい歴史ガイド養成講座」(浦添市文化課主催)が、2015年7月28日(火)午後7時から浦添市中央公民館で開催されました。
 講師:粟国恭子(浦添市文化財調査審議会委員・沖縄国際大学・沖縄県立芸術大学非常勤講師)の「近世琉球の文化と浦添ー平敷屋・友寄事件(1734)を通してみる 歴史の記述・認識・言説ー」の題目です。

2014年12月 8日 (月)

脱清人・毛有慶(亀川盛棟)と末吉安恭・伊波普猷など

Photo

 末吉安恭没70年にあたる1994年に『沖縄タイムス』で「人物列伝・沖縄言論百年 末吉麦門冬」を担当した際、1911年に安恭(麦門冬)が手にした脱清人・毛有慶(亀川盛棟)の詩集『竹陰詩稿』との関係を紹介し、伊波普猷や来沖した横山健堂(ジャーナリスト)に紹介した経緯(⑬8月30日、⑭8月31日)を紹介した。その後、毛有慶の『竹陰詩稿』詩の詩が伊波普猷の『古琉球』(1911)や横山『薩摩と琉球』(1914)に収録されることになる。
 末吉安恭や伊波普猷と脱清人・毛有慶との関係に触れた記事としては、私のこの連載記事は早いものであった。
 この脱新人・毛有慶の詩集とのエピソードもふくめ、1997年には論文「伊波普猷と末吉麦門冬(安恭)との交流」(『浦添市立図書館紀要N0、8』)にした。
 この毛有慶の詩(漢詩)が広く紹介されるようになったのは、その後新聞紙面で上里賢一先生が琉球漢詩の連載企画で紹介されたことによる。ちなみに『竹陰詩稿』そのものは確認されていない。Photo_2
上里先生は論文「琉球漢詩・最後の光芒;毛有慶(亀川盛棟)」(『文學』9巻3号、1998)をまとめられた。
 また、1879年の「琉球処分」から130年後の2009年には、この時期の琉球史が注目され、地元の新聞紙面でも多く連載があった。その中で『球新報報』の<「琉球処分」を問う>で、脱清人が注目された。連載は新報新書として2010年に刊行。「漢詩文から見る救国運動」を担当した上里賢一先生が、林世功の漢詩とともに、「毛有慶の憂憤ー反骨と芸術胸に二度渡清」と題して詳しく毛有慶の紹介をしている。
 

2014年9月25日 (木)

2014年9月14・15日「さまよえる民主制」シンポジウム参加

2014年9月14・15日に早稲田大学アジア研究機構主催の「さまよえる民主制」シンポジウム(会場:沖縄県立博物館講義室)に、15日にパネリストで参加した。刺激のある時間で、日頃交流出来ない先生方の話を聞き、多くの事を学び楽しく過ごしました。
 早稲田大学アジア研究機構第8回次世代国際研究大会で、同機関の八尾祥平さんがコーディネート。
 大会趣旨「 いま、東アジア・東南アジアでは民主主義の成熟度や民主制のあり方を根底から問い直すことこそが求められている。2014年から2015年にかけて東アジア・東南アジアの各地で国政選挙が行われる。国政選挙によって政権交代が起こる国がある一方で、タイにおける民衆の直接行動にみられるような議会制のみでは反映しつくせない民意がわきおこる国もあらわれている。当大会では、こうしたアジア各地における民主制をめぐる現状を一国内の枠組みにとどめて分析するのではなく、国境を越えるグローバルな視座から、さらには「周縁」におかれる人びとの視点から捉えなおすことを通じて、東アジア・東南アジアにおける平和的な国際秩序構築を模索するための討議の場としたい。」

<プログラム> 総合司会:八尾祥平(早稲田大学)
◇9月14日(日) 13:00-18:20
* 開会の辞:小口彦太(早稲田大学)
* 記念トークセッション:  『永続敗戦論』を沖縄からみつめなおす  白井聡(文化学園大学)  × 仲里効(雑誌『EDGE』元編集長) × 長元朝浩(沖縄 タイムス) × 松元剛(琉球新報)
* 国際学生ワークショップ: 司会 八尾祥平 報告者:平井新(早稲田大学)、林彦瑜(国立台湾大学)、施懿倫(国立政治大学) コメンテーター:呉叡人(中央研究院)、陳姃湲(中央研究院)

◇9月15日(月) 13:00~
*記念講演: 「方法としてのゾミア(野生のデモクラシー)」 土佐弘之(神戸大学)
*報告セッション: 「アメリカの民主制・安全保障とアジア」
 ・報告者:マニュエル・ヤン 討論者:野入直美(琉球大学)
 ・総合討論: 司会 八尾祥平 討論者:粟国恭子(沖縄文化工芸研究所) 川満信一(詩人) 呉叡人 白井聡 土佐弘之 仲里効 マニュエル・ヤン 山田満(早稲田大学)

言語:日本語・北京語・英語 共催:科学研究費補助金基盤研究(A) 「二〇世紀東アジアをめぐる人の移動と社会統合に関する総合的研究」(研究代表:蘭信三[上智大学])、早稲田大学アジア研究機構
**************************
 コーディネーターの早稲田大学の八尾さんから参加依頼があった際に、「さまよえる民主制」で、どのようなコメントが出来るのかを少し考えたがいい機会なので引き受けた。
 これまでほとんど話してこなかった私が、なぜ沖縄で民族学(文化人類学)や民俗学を学び実践しているのか、それがどのような意味を持つのか自身の考えを短い間話した。人のあり様で<国家を超える>思考の中で時代と人々が自立する意味をよく考えられる学問だと考えていることを、これまで自身の過ごした時間と訪れた場所を紹介した。沖縄で思考することの今日的な意味を話したつもりである。
2014 1980年代後半から今日までの約25年…沖縄(ほとんどの有人等歩いた)を中心に台湾、韓国・九州・南九州の島々、インドネシア、中国など東アジアをうろうろしている。
1980年代にアジアへと向かう沖縄研究動向に影響されていることを改めて確認した。日本国家(対日本)の思考から逃れ、アジアへと拡散する思考こそ重要だったあの時代…しかし21世紀に入り、その思考(思想)は薄れどうも窮屈な言説が目立つ今日…改めて自身の行動・思考原点の大切にしたいと思っています。
 

2014年7月30日 (水)

190回シマ研究会発表 in 沖縄国際大学南島文化研究所発表

20140714jpg

 沖縄国際大学南島文化研究所の第190回シマ研究会で研究発表しました。

*期 日 :2014年7月14日(月)午後4時20分~5時50分
*会 場 :沖縄国際大学13号館1階会議室
*申込不要・無料
*内容タイトル:「近代沖縄と博覧会ー近代システムと文化表象ー」
*講 師 :粟国恭子氏(南島文化研究所特別研究員、沖縄国際大学・沖縄県立芸術大学 非常勤講師)
*コメンテーター:来間泰男氏(南島文化研究所特別研究員)
*司 会:石垣直氏(沖縄国際大学総合文化学部准教授) 

 発表は近年機会があるたびに話している「近代沖縄と博覧会ー近代システムと文化表象ー」の問題です。
 近代沖縄研究で研究成果のほとんどない初期県政から明治期の内国勧業博覧会と沖縄のモノづくりの世界を資料を提示して発表しました。この問題は東アジア・女性史などの領域ともリンクする重要な問題だと思っています。また新たな近代史研究の視点と思います。従来の沖縄歴史、地域史、民俗学の視点で欠落している部分で、自己反省を込めて近年資料を収集しています。
 琉球処分時から明治期には、旧慣温存期においても<近代システム>の中に沖縄社会が組み込まれていく(事実賛美をしているのでもなく事実確認が研究です)あり様を示しました。会場でのコメンテーターは、このテーマで九州八県連合共進会の研究をされている来間泰男先生(経済)、田名真之先生(琉球史)、石垣直先生(文化人類学)からコメントをいただきました。
*この発表は沖縄国際大学HPのニューストピックで、発表様子や会場の各先生のコメント様子など写真付きのニュースとして確認きたのですが、2014年12月段階ではなぜか確認できなくなっていました。不思議です。
記録ニュースとしては復活していただきたいと思います

2014年2月 4日 (火)

2001年『琉球王国と技術』(沖縄県立芸術大学附属研究所公開講座)

 2001(平成13年)年度の沖縄県立芸術大学附属研究所公開講座では、「琉球王国と技術」をテーマに10回の講座が開催されます。

*講師:粟国恭子(沖縄県立芸術大学附属研究所共同研究員)
*日程:平成13(2001)年10月4日~12月6日(毎週木曜日)午後7時~9時
*場所:沖縄県立芸術大学附属研究所2階AV講座室

*料金:3,000円
<内容>
1)10月4日 沖縄文化と技術史―技術史の現状―
2)10月11日 琉球王府と技術①―王府組織と技術職ー
3)10月18日 琉球王府と技術②―琉球の技術文化―
4)10月25日 歴史・民俗・考古学と技術
5)11月1日  沖縄女性文化にみる技の世界
6)11月8日  沖縄の金属文化①―王府時代の金属文化・金銀銅錫の流通を中心にー
7)11月15日 沖縄の金属文化②―金属製品の技術 梵鐘・簪・酒器―
8)11月22日 沖縄の工芸文化―祭祀道具への眼差しー
9)11月29日 観光と工芸文化―現代お工芸文化の展開
10)12月6日  現代を歩く工芸文化―伝統工芸と新世代の試みー

2013年9月 6日 (金)

追悼 比嘉実先生 -おもろと「島唄」とともにー

Photo_2   2013年8月17日、元法政大学沖縄文化研究所所長の比嘉実先生が肝臓癌でなくなられた。享年70歳 。
 お盆で帰省していたため告別式にも参列できずに最後のお別れもできず…。ご冥福をお祈りします。

 1980年後半から学恩を受けた。90年からNHK大河ドラマ「琉球の風」の時代考証の仕事で、私は浦添市立図書館に勤務しており、その後引き続き同図書館沖縄学研究室の職員で勤務していた97年までの間に、幾度となくお会いする機会があった。
 当時の図書館長が交流も深かった高良倉吉先生。沖縄学研究室に資料提供もされていた。
 当時、法政大学沖縄学研究所所長でもあった先生は、法政大学プロジェクト(小湾調査、久米島調査)など、浦添市中国交流事業、「琉球の風」時代考証の東京での責任者でもあり、そのほかにも多方面ご活躍されていた。
 大きな体でしかし繊細な印象、明るくハンサムでメディアでも人気があったとおもう。40代後半から50代前半の働き盛りの沖縄研究者という印象であった。写真は当時の印象のまま(『古琉球の思想』著者紹介より)である。たくさんのお子さんのよきお父さんでもあった。
Photo_4  思い出すのは「琉球の風」製作作業中のこと、私が好きなブームの「島唄」(当時はまだ大ヒットとまではいかない時期で広く知られている唄ではなかった)を高良先生を介して紹介すると、「琉球の航海・オナリ神の信仰に通じるものがある」として、「法政大学の講義で学生たちに聞かせている」とにこやかに話されていた。
 あれから20年以上の時間が流れ、ブームの「島唄」は今でも沖縄をテーマにした唄として内外で歌い継がれている。
 また、ドラマに使用した進貢船(今はもう廃船になってしまったが)が製作先の福州から那覇港に入港するときも、それぞれがこの唄を聞きながら、それぞれの思いをもって迎えたことも懐かしい思い出である。
それぞれの思いを持った人物の中に、忘れてはならない人物がいる。福州から那覇港に進貢船を曳航する際、船舶のプロとして、沖縄側から参加していたヨットマンで小説家・新作おもろなど創作していた真久田正氏。福州からの船旅を航海してきた真久田氏の思いもまた深かったはずである。彼も今年の初めに他界してしまった。今頃、比嘉先生と二人で航海のおもろを語り盛り上がっているのかもしれません。 

Photo_3  また、当時学生時代からのテーマで奄美・沖縄の祭祀道具(ノロ扇など)を調査して沖縄・奄美の島々を歩いていた時期でもあったので、比嘉先生の著作『沖縄風物誌』(1984)、『古琉球の思想』(1991)は何度も読み返していた。鋭い感性の論考テーマ、日輪鳳凰などの文様研究の先駆的な仕事をされ、多いに影響をうけた。今著作を開いてみると、書籍にほとんどラインなど入れない私が、線やコメントをたくさん入れている。若輩ながら専門外のおもろの世界を深く理解したいと苦戦していた作業の跡に触れると、あの頃から時間はすごく流れたけれど、やはり比嘉先生は私にとっては研究者のままである。

 政治家を志されてからは、ご本人とはお話する機会も少なかったが、知人の研究者との会話の中で比嘉先生の話題が時折りでた。すぐれた研究者の資質を持ちながら別の世界で過ごされていることを遺憾に思う研究仲間は大勢いたのではないでしょうか。
                               合掌 

2011年4月18日 (月)

書評『日本の美術 琉球の金工』

Photo  昨年刊行された『日本の美術 琉球の金工』(久保智康著)の書評を書いた。
『法政大学沖縄文化研究所所報』第68号に掲載。
 約10年ほどで、飛躍的な成果を上げた?(市民権を得た)その分野を牽引してきた著者との交流も15年程になる。
 沖縄研究のテーマとしては1980年代まではほとんど触れられることのなかった分野でもある。
 沖縄の金属文化研究状況もふまえて、初めてのテキスト本としてのこの著作が誕生する背景も記している。
 基本資料が確認されたこの15年を経て、この分野は新たな議論の段階に進むことになる。
 また、残された必要とされる研究作業も実ははっきりしていて、多いことも事実である。

2007年4月28日 (土)

韓国の史跡ー浦添城跡との関連を求めてー

1995年(平成7)年10月19日(木)『沖縄タイムス』掲載

「韓国の史跡―浦添城跡との関連を求めてー」
 
韓国は、沖縄から距離的にそれほど遠い国ではない。那覇を中心に同心円を描くと、関西地方程度の近さである。1995年を「戦後50年」の節目として迎え、多くの平和事業が催されている沖縄から、「解放50年」として迎えた韓国へ。同じ時間の長さが沖縄とは違う意味を持つその国の風を私は受けたかった。韓国への旅は浦添市の文化課が主催した「沖縄と韓国の城郭・建築比較調査」一行に参加しての訪問であった。13世紀の琉球と朝鮮との交易が盛んに行われた歴史的な背景と浦添城跡から出土した高麗瓦の手がかりを求めている。現在の城郭は私たちに何を語りかけたのか。深く印象に残ったのは首都・ソウルにある李朝王宮の景福宮である。
 この王宮は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵略の際と、1910年の日韓併合後の<日帝時代>と二度、日本から破壊を受けた歴史を持っている。王宮内に日本の朝鮮統治の「司令塔」である旧朝鮮総督符庁舎(現、国立中央は区部中間)は建っている。鉄筋5階建てのネオ・ルネッサンス様式の建物は、代表的な日本近代建築としても知られている。
 1916年6月に始まり9年5ヶ月の歳月をかけ1925年10月に完成した朝鮮総督府庁舎は、北漢山を背景にして美しく雄大に広がる景福宮の勤政殿前に建設された。建物の正面に位置する宮殿の正門・光化門は、庁舎の景観を邪魔するとして取り払われた。
 侵略され統治される側には、自らの歴史が育まれた遺産を、自らの意思で保存する力は与えられていなかった。
 日本民芸美術の父・柳宗悦は、朝鮮に対する日本の同化政策を批判し続け、朝鮮民族へ哀燐の言葉を紡いだ。植民地政策が推し進められているなか、1922年7月に「失われんとするー朝鮮建築のためにー」を書き表し、日本による景福宮の破壊を憂いている。

 「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。お前は苦しくさぞ淋しいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢いに行こう。お前も私を待っていてくれ。お前を生んだお前の親しい民族は今言葉を慎しむ事を命ぜられているのだ。(罫線著者)それ故にそれらの人びとに代わって、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ。」

 現在、景福宮は韓国政府によって5年前から復元工事が進められている。3分の1が2009年までの20年間、総工費約200億円かけて復元される予定である。旧総督府庁舎の上部の採光塔が、今年の開放記念日・8月15日に除去された。旧庁舎は現在も博物館として見学できるが、1年後には全体が本格的に撤去される。
 この時除去された塔は、復元工事でよみがえるのを待つ光化門と対称的に、脇の地面に置かれ展示されていた。この建物の撤去が決定された2年前、国民の9割近くが賛成した。これほどまでに望まれた撤去であった。
 また、同敷地内にある国立民俗博物館では、近代百年をテーマに企画展が開催されていた。朝鮮における近代百年は、まさに日本の植民地としての歴史にほかならない。その中で興味深い展示があった。
 現在アジアは風水ブームの中にある。朝鮮総督府は、朝鮮の風水を研究し、風水理論で建設された王宮が持つ場所の力ち権威を失わせるために景福宮の前に総督府庁舎を建設している。その研究成果が総督府が1931年に出版した『朝鮮の風水』である。
 日本軍によって龍脈(風水でいう気の流れ)が走る山々に深く打ち込まれた鉄の杭は、すべての龍脈にエネルギーを復活させ、韓国の地に活力をとの願いから今年の8月に韓国の人々によって撤去させられた。その模様と鉄の杭が展示されていたのである。
 今年の景福宮は、近代百年と日本からの解放50年を確認するための空間であった。観光で訪れた人々に、王宮に悠久に流れたであろう時間の中の百年間を強烈に浮かび上がらせ、同時に現代の韓国の人々の意識を提示させていた。
 現代の韓国の人々が城郭を通してどのような意志表示をしたのかを、それを支えるエネルギーの意味を受け止めるには、静かで雄弁な空間であった。
 浦添をはじめ沖縄の各地の城跡は、戦跡としての性格をも持っている。歴史を物語る空間、そして今日的な演劇や祭りを取り込んだ新しい文化創造の空間として、その整備保存・活用が検討されている。
 いずれにしても、現在の私たちの鋭い問題意識を漂わせることができなければ、その空間と共に呼吸している事の実感を記憶にとどめることは難しい。