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金城朝永ほか沖縄人物

2022年4月16日 (土)

連載「復帰の源流を探る」2回目『しまたてぃ』100号

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 連載「復帰の源流を探る」2回目「敗戦と沖縄の若者たち-講和条約前後の学生活動の軌跡」掲載の『しまたぃ』100号(沖縄しまたて協会、2022年4月)が発刊されました。
 99号に続き、戦後10年(1945~1955年)の期間の沖縄社会・文化理解に努めます。今回は戦後間もない時期に占領下沖縄の若者たちの学びと活動を取り上げました。2015年に自主開催した4回目「戦後沖縄研究コロキウム」 の発表内容になります。

#日本復帰 #沖縄 

2015年8月 5日 (水)

2015年うらおそい歴史ガイド養成講座「近世琉球の文化と浦添」

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 2015年度「うらおそい歴史ガイド養成講座」(浦添市文化課主催)が、2015年7月28日(火)午後7時から浦添市中央公民館で開催されました。
 講師:粟国恭子(浦添市文化財調査審議会委員・沖縄国際大学・沖縄県立芸術大学非常勤講師)の「近世琉球の文化と浦添ー平敷屋・友寄事件(1734)を通してみる 歴史の記述・認識・言説ー」の題目です。

2015年5月 1日 (金)

研究発表「金城朝永と若者たち」・第4回戦後沖縄研究コロキウム

 戦後70年企画第2弾、第4回戦後沖縄研究コロキウム
Aol_2を2015年4月28日(火)夕方、沖縄県立博物館美術館1階講座室で開催しました。
 先の3月15日開催した第3回コロキウムと同様に、在京(関東)に暮らす沖縄人たちが中心に発刊した雑誌『おきなわ』関連の<沖縄>をテーマに4名の研究者が発表。
 平日の夕方、当日は県民大会(県庁)も開催されてコロキウム参加後そちらに出向かれた研究者もいましたが、201504284 約60名の方が参加しました。

私(粟国恭子)は、第3回4回の開催の、戦後70年記念と金城朝永没60年記念の主旨に寄り添ったテーマで発表。

 内容は、第3回の戸邉・泉水氏の発表を受け、「金城朝永と若者たちー<その時>をめぐってー」と題して、1954年に発刊される沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』をめぐる金城朝永及び宮城聰と若者たちの関係を、自身の見解とその周辺の新しい資料を提供しました。




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2015年4月 2日 (木)

2015年3月15日 第3回戦後沖縄研究コロキウム

Photo 2015年3月15日(日)に第3回戦後沖縄研究コロキウム(公開研究会)を開催しました。
 今回の大テーマは「戦後沖縄のはじまりのトライアングル・コンタクト―その時・その場所でー」(沖縄・日本・米国の1945~1955)としました。
 その内容に関してはHP「戦後沖縄研究コロキウム」をご覧ください。

 1950年から5年間発刊された在京(関東)の沖縄人 が中心となって発刊した雑誌『おきなわ』関連の多角的なテーマで5名の研究が発表しました。
 私(粟国恭子)は、「サンフランシスコ講和条約前後の雑誌『おきなわ』と沖縄研究者」と題して発表。
 関東地域に暮らす沖縄研究者たち(仲原善忠・比嘉春潮・金城朝永・島袋盛敏など)が、外務省やその他の団体交流の中で戦後10年間をすごしたのかを確認しました。 

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2015年2月16日 (月)

復刻版雑誌『おきなわ』の解説文

Photo_3 戦後10年を迎えた1950年4月に雑誌『おきなわ』は発刊された。東京に暮らす沖縄出身の人々が、寄稿の中心となって1955年9月まで46号が発刊された。

 終戦間もない在京(関東地方)の<沖縄>を知る資料では、重要な雑誌といえる。
 この雑誌『おきなわ』が戦後70年2015年1月に不二出版から復刻刊行された。
 全6巻・別冊(解説・総目次)のセットで96,000円。別冊のみ分売可:1500円+税。

 解説文は、仲程昌徳、松下博文、粟国恭子、酒井直子の4人。
 私は「サンフランシスコ講和条約調印・発効時と「おきなわ」特集号」(p36-p42)と題して、特別号「領土問題号」15号、「児童・生徒号」17号、「沖縄現代史号」18号の関係を解説した。Photo_4
 1951年サンフランシスコ講和条約をめぐって、日本政府(外務省)、沖縄研究者(金城朝永ほか)たちがどのような時間を過ごしたのか、いくつもの<沖縄>をつなぐ役割をもった雑誌『おきなわ』発刊との関りを解説していた。
  

2014年12月 5日 (金)

末吉安恭と南方熊楠、そして金城朝永

,Photo_3  私が末吉安恭と南方熊楠の関係に興味を持ったのは、24年前のことだ。社会人になりたての頃で…。
 1990年7月から12月の半年間、沖縄地元の新聞紙『沖縄タイムス』の文化面コラム「唐獅子」を担当(13回)した時に「終わりの無い作業」(11月22日掲載)というタイトルで書いた時期だ。以下がその時の文章。

 「終わりの無い作業」
 人は、多々ある情報をどのように頭の中で整理しているのだろうか。
 未熟な判断から別々の整理箱の中に仕舞い込み関連性の薄いと思っていた情報が、時として重いもかけない展開で結びつくことがある。その偶然性が強いほど、刺激的に豊かなイメージが広がる経験は、一つの〈事件〉である。
 先日、1945年以前の県外発行雑誌の沖縄関連記事を集めた「沖縄学の萌芽展」が県立図書館で開催された。記事目録を見て気が付いた。
 南方熊楠が4編ほど沖縄関係の短い文章を書いている。人類学・民俗学から粘菌観察など幅広い博物学的な知識とその強烈な個性を持つ南方熊楠は、最近見直され、注目されている人物である。
 一つは、「出産と蟹」。その中で、沖縄のジャーナリストとして活躍した末吉麦門冬(末吉恭)の〈博覧強記〉を驚き、その考証を「凌駕(りょうが)するもの多し」と評価している。
 そのほか『球陽』を読みその内容を事例として紹介した「琉球の鬼餅」、石垣島や与那国の事例に触発されて書かれた「椰子蟹に関する俗信」や方言学、沖縄学研究者・金城朝永の「琉球の猥談」を読み書かれた「一目の虫」、「煉粉を塗る話」などがある。
 南方熊楠が小さいながら、〈琉球への視点〉を持っていた事を知り、そのきっかけを与えた末吉麦門冬や金城朝永を新しい側面から捉えられると思うと〈うれしい〉気分である。
 ある事柄への情報を持つ事は、一つ一つのパーツを組み立てて完成されるものでもない。
 偶然のわくわくする〈事件〉と出会いながら自由に、そしてしなやかな変化を続けていく種類のものである。その整理箱の中を引っかき回したり、時に中身をそこら中に散乱させたままでいたり、懲りもぜす腕組みをして箱の中に並び帰る作業に似ている。それは終わりの無い、けれどスリリングな作業である。

************************Photo_4
 終わりの無い作業は、その後1994年8月からの『沖縄たいむす』紙面での末吉麦門冬(安恭)についての連載36回に繋がっている。丁度安恭の没70年にあたる年であった。その年に和歌山県田辺市の南方熊楠宅にも訪問。熊楠資料整理プロジェクトに大勢の研究者が関わっていた。そこにお邪魔をして沖縄関係資料の調査をしたことが思い出される。

 そして今年は安恭没90年…終わりの無い作業はまだ続いている。

2014年3月20日 (木)

書評 金子豊編『松山王子尚順全文集』 

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 近代沖縄を生きた最後の琉球国王・尚泰の四男・尚順が残した琉球文化に触れた文章及び書簡など資料全文集がようやく刊行された(榕樹書林)。沖縄地元の新聞『琉球新報』に書評を掲載(2014年3月16日・日)。
 尚順は琉球国の王族として、近代には実業家・政治家・琉球新報社などの設立など様々な分野でその仕事を捉えなければならない人物である。しかしグルメ・趣味人・文化人としての注目すべき存在であり、この全文集はなかなか面白い。彼独自のこだわりや琉球文化の伝統について、沖縄を訪れる文化人との交流において興味深い記述に触れる。
 資料を集め編集した金子氏とは面識がないが、その作業の恩恵を受けている一人として感謝の意を記したい。
 尚順については、数年前(2012)、沖縄県立芸術大学附属研究所の文化講座「沖縄の美を発見した人々」で、担当(粟国恭子)したことがある。当時この本があればもう少し深く尚順の世界を紹介できたかもしれないと思う。

2013年9月 6日 (金)

追悼 比嘉実先生 -おもろと「島唄」とともにー

Photo_2   2013年8月17日、元法政大学沖縄文化研究所所長の比嘉実先生が肝臓癌でなくなられた。享年70歳 。
 お盆で帰省していたため告別式にも参列できずに最後のお別れもできず…。ご冥福をお祈りします。

 1980年後半から学恩を受けた。90年からNHK大河ドラマ「琉球の風」の時代考証の仕事で、私は浦添市立図書館に勤務しており、その後引き続き同図書館沖縄学研究室の職員で勤務していた97年までの間に、幾度となくお会いする機会があった。
 当時の図書館長が交流も深かった高良倉吉先生。沖縄学研究室に資料提供もされていた。
 当時、法政大学沖縄学研究所所長でもあった先生は、法政大学プロジェクト(小湾調査、久米島調査)など、浦添市中国交流事業、「琉球の風」時代考証の東京での責任者でもあり、そのほかにも多方面ご活躍されていた。
 大きな体でしかし繊細な印象、明るくハンサムでメディアでも人気があったとおもう。40代後半から50代前半の働き盛りの沖縄研究者という印象であった。写真は当時の印象のまま(『古琉球の思想』著者紹介より)である。たくさんのお子さんのよきお父さんでもあった。
Photo_4  思い出すのは「琉球の風」製作作業中のこと、私が好きなブームの「島唄」(当時はまだ大ヒットとまではいかない時期で広く知られている唄ではなかった)を高良先生を介して紹介すると、「琉球の航海・オナリ神の信仰に通じるものがある」として、「法政大学の講義で学生たちに聞かせている」とにこやかに話されていた。
 あれから20年以上の時間が流れ、ブームの「島唄」は今でも沖縄をテーマにした唄として内外で歌い継がれている。
 また、ドラマに使用した進貢船(今はもう廃船になってしまったが)が製作先の福州から那覇港に入港するときも、それぞれがこの唄を聞きながら、それぞれの思いをもって迎えたことも懐かしい思い出である。
それぞれの思いを持った人物の中に、忘れてはならない人物がいる。福州から那覇港に進貢船を曳航する際、船舶のプロとして、沖縄側から参加していたヨットマンで小説家・新作おもろなど創作していた真久田正氏。福州からの船旅を航海してきた真久田氏の思いもまた深かったはずである。彼も今年の初めに他界してしまった。今頃、比嘉先生と二人で航海のおもろを語り盛り上がっているのかもしれません。 

Photo_3  また、当時学生時代からのテーマで奄美・沖縄の祭祀道具(ノロ扇など)を調査して沖縄・奄美の島々を歩いていた時期でもあったので、比嘉先生の著作『沖縄風物誌』(1984)、『古琉球の思想』(1991)は何度も読み返していた。鋭い感性の論考テーマ、日輪鳳凰などの文様研究の先駆的な仕事をされ、多いに影響をうけた。今著作を開いてみると、書籍にほとんどラインなど入れない私が、線やコメントをたくさん入れている。若輩ながら専門外のおもろの世界を深く理解したいと苦戦していた作業の跡に触れると、あの頃から時間はすごく流れたけれど、やはり比嘉先生は私にとっては研究者のままである。

 政治家を志されてからは、ご本人とはお話する機会も少なかったが、知人の研究者との会話の中で比嘉先生の話題が時折りでた。すぐれた研究者の資質を持ちながら別の世界で過ごされていることを遺憾に思う研究仲間は大勢いたのではないでしょうか。
                               合掌 

2013年6月30日 (日)

歴史家・新里恵二氏(84歳) 訃報

 歴史家で弁護士の新里恵二氏(84歳)が2013年6月19日になくなられたというニュースが、28日の地元の新聞に報じられている。ご存命であったことを知らず、そのニュースに驚きを隠せない。
 1928年沖縄県那覇市若狭生まれ、1949年に第五高等学校中退、東京で比嘉春潮に師事し沖縄歴史・文化の研究を深める。自身では10代の終わりごろリッケルトやヴィンデルバンドに傾倒し和辻哲郎や天野貞治に影響されたと語っている。
 1963年には、政治性でも近い比嘉春潮、霜多(旧姓島袋)正次の3人で岩波新書『沖縄』を発刊している。この『沖縄』は、当時の沖縄文化が広く一般に知られていないため「沖縄の返還運動を全国民的なものにするうえで大きな障害になっている」とした深い思いから、沖縄文化・民俗・歴史の全体イメージと系統的な知識の広がりのために編まれた「概括的な紹介書」 として発刊。以来何度と増刷され、県外の一般の方にも広く読まれた沖縄関係書籍のさきがけではないだろうか。
 その中でも「参考文献について」を新里が担当している。金城朝永が亡くなって以後、1960年代に沖縄文献情報について配慮した記述を心がけた歴史家でもある。それゆえに現在60代の沖縄歴史・文化研究者の多くが、学生の頃からその歴史論を読み影響を受けた存在であり、沖縄の歴史研究の巨人の一人ではないだろうか。単著には『沖縄史を考える』『沖縄県の歴史』などある。
 新里の仕事は、1972年沖縄が日本へ<復帰>した前後にその多くはまとめられている。1960年代70年代の沖縄歴史の牽引者と位置付けも可能である。復帰後まもない時期に発刊された『叢書わが沖縄 歴史篇』では、編者(新里)の独自の視点と知性の客観性からの各論考へ分析する力量が印象として残る。現在読み直しても新たな発見がある。
 その歴史認識は、唯物史観に基づいており、時代の変化の中で、沖縄の歴史を語る中心的な存在からは遠退いていた観があるが、やはり<沖縄歴史研究史>では重要な役割を果たした人物の一人であるには違いないと思う。
 2012年の昨年、<復帰>40年がめぐった沖縄で、改めて氏の著作などに眼を通す機会の多かった時間を過ごし、興味深い指摘も多く勉強になった。
 私自身の無知認識不足なために、生前お会いしてお話を伺う機会を逃したことを大変残念に思う。 
                                  ご冥福をお祈りします。合掌

2013年4月20日 (土)

発表「戦後沖縄における文化政策」 in 川平朝申関連シンポジウム

Photo  2013年3月30日にシンポジウム「川平朝申とその時代」が開催され、パネリストで発表をしました。
 今回の発表は「戦後沖縄における文化政策ー文化財・博物館・美術・図書ー」と題して戦後1945年~1955年の10年間の文化政策の動向に関して話しました。
 その他の発表者のタイトルなどは以下の記事で
http://okinawabunkakougei.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/2012-6bf4.html

 生前の川平朝申氏とは、1990年代前半頃に交流があった。マメに電話をされ、ご自宅にも何度か伺いいろいろな話を聞いた。文化人類学を専門に学んでいるという若輩の私に、戦前の台湾での人類学研究会やおもろ研究会の話を、宮古出身だと聞くと地元の宮古の話や、その他赤十字活動の話をアルバムを開きながら話されていた。
 著作の詩集もいただいたり…。
 当時企画した展示会「親おもろ学派」に関する資料(比嘉盛章関係)を教示されたり…お世話になった大先輩の一人でもある。
 生前に交流があると、生生しい記憶が残り<研究会>という形では関われない感情がある。研究対象としての人物ではない。シンポ主催の研究会とは距離を置くことになった。
 会場にはご遺族(弟)の川平朝清氏や、氏をよくご存知の先輩方も参加されており、その旨伝えた。皆さんの参加感想などはありがたく、興味深いものであった。
 参加した感想であるが、私自身を含め、各発表者にも重要な問題として残るのは、回顧録やオーラルヒストリーの聞き書き(聞き取り側の知識の深さがかなり要求されるのだが)情報を無防備に事実として情報化することは慎重であらねばならないという点は強く印象に残った。
 「語り」の中に事実確認をしないまま無防備に認識し、歴史事実として新たに再生産する役割・それを行う立場であることには極力避けたいと、その緊張感はもち続けたいと思う。